斉 良已(さい りょうい)は、中国の近現代を代表する書画家です。
1923年に生まれ、20世紀を代表する中国画の巨匠と称されている水墨画家斉 白石(さい はくせき)の五男にあたります。
字は子泷(ズィーロン)、号は迟迟(チィーチィー)と言います。
父である斉白石に師事して技法を学ぶ傍ら、輔仁大学の美術科に進学し、技術をを深めました。
1947年は、山水画家・李可染が父・斉白石に行った拝師儀式を支援しました。その後、斉白石に代わって特製の「李」の文字の印章を贈り、彼ら二代の芸術家の師弟関係を裏付ける役割を果たしています。
自身は、1961年に禅の思想に影響を受けた書家・画家である劉興成(りゅう こうせい)を入室弟子として迎え、斉派の書画技法を伝授しました。
その指導においては、模写と創造の結合を重視しており、40年間一つのことに深く集中して研究に没頭するという「四十年潜心」の姿勢で伝統を研鑽するよう伝えました。
画風においては、斉白石の「大写意」の伝統を継承しています。大写意とは、水墨画の技法において対象を正確に描くよりも、画家の主観的な感情や精神性を表現することに重きを置いた概念です。
また、輪郭線を描かず墨をはね遊ばせるように描く潑墨技法を用いて、植物や鳥、虫などのモチーフを得意としました。
50歳の時点でもなお、落款に「白石五子」と署名を残しており、斉白石からの伝統を守り、受け継いでいることが示されています。
鄭道昭(てい どうしょう)は、中国南北朝時代に活躍した北魏を代表する書家・詩人です。名門の出身で、光州の刺史などの要職を歴任しました。
鄭道昭が現在の中国山東省の岩山に残した摩崖刻石は「鄭道昭刻石」などと総称されています。同時代に見る北魏の六朝楷書独特の角ばって固い筆づかいの「方筆」ではなく、南朝寄りの角が丸く柔らかい印象の「円筆」の書が特徴とされ、鋭い角を持つ一般的な北魏楷書とは異なり、ゆったりとした風格と気品を兼ね備えています。
清代の包世臣や康有為らによって再評価され、明治以降の日本の書道界にも大きな影響を与えました。
胡蘭成は、中国出身の思想家・政治家・作家・書家です。
1906年、中国浙江省嵊県に生まれました。
本名は胡 積蕊、幼名は蕊生といいます。若い頃から文章に優れ、杭州の蕙蘭中学で学んだ後、北京の燕京大学の講義を聴講するなどして文学や思想に関心を深めました。
その後、政治活動に関わり、日中戦争期には日本が支援した汪兆銘政権に参加し、宣伝部次長や行政院法制局長などを務めました。
またこの時期に、漢口の新聞「大楚報」に関わり、ジャーナリズム活動にも従事しました。
1944年には中国の著名作家である張愛玲と結婚しましたが、政治的立場や生活の不安定さなどから関係が破綻し1947年に離婚しています。
第二次世界大戦後、政治的立場が悪化したことから、1950年に日本へ渡ります。その後は日本で長く生活し、中国文化や思想に関する著作を執筆し、文化人との交流も行いました。
来日初期は日本全国を講演して回ったり、雑誌や新聞に政論を投稿していました。
1963年からは梅田寛一が筑波山中に神道の修行をする道場として開いた「梅田学筳」に滞在し、神道について学びます。ここで岡潔や湯川秀樹、保田與重郎などにも出会い交流を深めました。
その後、梅田学筳を離れた後の1974年には台湾の中国文化学院で教授となり、若い文学者を指導しました。この頃、彼の思想に影響を受けた作家たちが「三三派」と呼ばれる文学グループを形成しました。
約2年間の台湾生活の後は、再び日本に戻り、1981年に没するまで東京で生活を続けました。
書を得意とし、晩年には文人としても活動し自作の詩や中国古典などを題材とした作品を残しています。その書は、中国文化への深い素養を背景とした文人書として評価されることがあります。
孫 建興は、豊かな釉薬の表現で知られる陶芸家です。
「曜変天目」の研究・復元に取り組んでいることでも知られています。
孫は、1952年に中国福建省で生まれ、20歳頃に磁器工場で働き始めました。
ある時、日本の研究者から分析・復元を依頼された焼き物が「天目」でした。
そして天目の世界に深く魅了され、それから20年以上も天目の研究と復元に取り組むようになります。
1979年には、天目の破片が出土していた窯跡の研究を国から委託されます。その研究の結果、孫建興の作成した天目茶碗は、宋時代のものと同じであると国家より認められ、科学技術認定証を授与されました。
この作品は、のちに中国の国賓への贈り物として献上されています。
また、日本における人間国宝のような称号を与えられており、孫の作品は美術的価値だけでなく、陶芸の歴史や文化を深く理解した上で生み出される高度な研究成果の結晶でもあります。
徽宗は北宋の第八代皇帝で、北宋最高の芸術家の一人とされています。
代表作『桃鳩図』は、日本で国宝に指定されています。
1082年に神宗皇帝の第十一子として生まれ、当初は皇位継承とは縁遠い立場にありましたが、兄の哲宗が嗣子を残さず崩御したため、1100年に即位しました。
即位後は贅沢な宮廷生活や大規模な造営事業を推進しはじめ、これらは財政を圧迫して国政の腐敗を招きました。
一方で北方では女真族が勃興し、宋は一時的に金と連携して遼を滅ぼしましたが、やがて金と対立するようになります。1127年には金軍の侵攻により首都が陥落し、徽宗とその子らが捕らえられる「靖康の変」が発生。これによって北宋は滅亡しました。その後、徽宗は金に連行され、「昏徳公」という屈辱的な称号を与えられ、異郷で幽閉生活を送ることになります。
徽宗は、政治家としては無能と評される一方で、書画や筆硯、文学、弓術においては非凡な才能を発揮しました。また、独自の書風「瘦金体」を創始したことでも知られ、書画の世界に多大な功績を残しました。
庭園や珍木奇石の収集にも関心を示し、山水・花鳥・人物など多様な絵を描いた文人・画人として現在でも高く評価されています。
孫 家珮は、1958年に中国・上海で生まれた画家です。
独自の油彩技法を用い、故郷の風景やイタリアをはじめとするヨーロッパの景色を繊細な筆致で描くのが特徴です。光と影を巧みに表現し、静寂の中に生命力を感じさせるその作風は、多くの人々に感動を与えてきました。
1984年に上海交通大学美術研究室を修了後、画家として活動を始める一方で、生活のために工芸品会社のスタッフとしても働きました。
1988年頃、中国の開放政策により海外渡航が可能となると日本へ渡り、数々の美術展で受賞を重ねていきます。
2001年には日本の永住権を取得し、翌年には日本現代美術家連盟の副理事長に就任しました。現在も日本を拠点に、中国やアジア各国で個展を開催し、国内外で高い人気を誇っています。