鄭道昭(てい どうしょう)は、中国南北朝時代に活躍した北魏を代表する書家・詩人です。名門の出身で、光州の刺史などの要職を歴任しました。
鄭道昭が現在の中国山東省の岩山に残した摩崖刻石は「鄭道昭刻石」などと総称されています。同時代に見る北魏の六朝楷書独特の角ばって固い筆づかいの「方筆」ではなく、南朝寄りの角が丸く柔らかい印象の「円筆」の書が特徴とされ、鋭い角を持つ一般的な北魏楷書とは異なり、ゆったりとした風格と気品を兼ね備えています。
清代の包世臣や康有為らによって再評価され、明治以降の日本の書道界にも大きな影響を与えました。
胡蘭成は、中国出身の思想家・政治家・作家・書家です。
1906年、中国浙江省嵊県に生まれました。
本名は胡 積蕊、幼名は蕊生といいます。若い頃から文章に優れ、杭州の蕙蘭中学で学んだ後、北京の燕京大学の講義を聴講するなどして文学や思想に関心を深めました。
その後、政治活動に関わり、日中戦争期には日本が支援した汪兆銘政権に参加し、宣伝部次長や行政院法制局長などを務めました。
またこの時期に、漢口の新聞「大楚報」に関わり、ジャーナリズム活動にも従事しました。
1944年には中国の著名作家である張愛玲と結婚しましたが、政治的立場や生活の不安定さなどから関係が破綻し1947年に離婚しています。
第二次世界大戦後、政治的立場が悪化したことから、1950年に日本へ渡ります。その後は日本で長く生活し、中国文化や思想に関する著作を執筆し、文化人との交流も行いました。
来日初期は日本全国を講演して回ったり、雑誌や新聞に政論を投稿していました。
1963年からは梅田寛一が筑波山中に神道の修行をする道場として開いた「梅田学筳」に滞在し、神道について学びます。ここで岡潔や湯川秀樹、保田與重郎などにも出会い交流を深めました。
その後、梅田学筳を離れた後の1974年には台湾の中国文化学院で教授となり、若い文学者を指導しました。この頃、彼の思想に影響を受けた作家たちが「三三派」と呼ばれる文学グループを形成しました。
約2年間の台湾生活の後は、再び日本に戻り、1981年に没するまで東京で生活を続けました。
書を得意とし、晩年には文人としても活動し自作の詩や中国古典などを題材とした作品を残しています。その書は、中国文化への深い素養を背景とした文人書として評価されることがあります。
孫 建興は、豊かな釉薬の表現で知られる陶芸家です。
「曜変天目」の研究・復元に取り組んでいることでも知られています。
孫は、1952年に中国福建省で生まれ、20歳頃に磁器工場で働き始めました。
ある時、日本の研究者から分析・復元を依頼された焼き物が「天目」でした。
そして天目の世界に深く魅了され、それから20年以上も天目の研究と復元に取り組むようになります。
1979年には、天目の破片が出土していた窯跡の研究を国から委託されます。その研究の結果、孫建興の作成した天目茶碗は、宋時代のものと同じであると国家より認められ、科学技術認定証を授与されました。
この作品は、のちに中国の国賓への贈り物として献上されています。
また、日本における人間国宝のような称号を与えられており、孫の作品は美術的価値だけでなく、陶芸の歴史や文化を深く理解した上で生み出される高度な研究成果の結晶でもあります。
徽宗は北宋の第八代皇帝で、北宋最高の芸術家の一人とされています。
代表作『桃鳩図』は、日本で国宝に指定されています。
1082年に神宗皇帝の第十一子として生まれ、当初は皇位継承とは縁遠い立場にありましたが、兄の哲宗が嗣子を残さず崩御したため、1100年に即位しました。
即位後は贅沢な宮廷生活や大規模な造営事業を推進しはじめ、これらは財政を圧迫して国政の腐敗を招きました。
一方で北方では女真族が勃興し、宋は一時的に金と連携して遼を滅ぼしましたが、やがて金と対立するようになります。1127年には金軍の侵攻により首都が陥落し、徽宗とその子らが捕らえられる「靖康の変」が発生。これによって北宋は滅亡しました。その後、徽宗は金に連行され、「昏徳公」という屈辱的な称号を与えられ、異郷で幽閉生活を送ることになります。
徽宗は、政治家としては無能と評される一方で、書画や筆硯、文学、弓術においては非凡な才能を発揮しました。また、独自の書風「瘦金体」を創始したことでも知られ、書画の世界に多大な功績を残しました。
庭園や珍木奇石の収集にも関心を示し、山水・花鳥・人物など多様な絵を描いた文人・画人として現在でも高く評価されています。
孫 家珮は、1958年に中国・上海で生まれた画家です。
独自の油彩技法を用い、故郷の風景やイタリアをはじめとするヨーロッパの景色を繊細な筆致で描くのが特徴です。光と影を巧みに表現し、静寂の中に生命力を感じさせるその作風は、多くの人々に感動を与えてきました。
1984年に上海交通大学美術研究室を修了後、画家として活動を始める一方で、生活のために工芸品会社のスタッフとしても働きました。
1988年頃、中国の開放政策により海外渡航が可能となると日本へ渡り、数々の美術展で受賞を重ねていきます。
2001年には日本の永住権を取得し、翌年には日本現代美術家連盟の副理事長に就任しました。現在も日本を拠点に、中国やアジア各国で個展を開催し、国内外で高い人気を誇っています。
4大製墨名家の一つである「胡開文」は、胡天注によって創業された中国の伝統的な墨ブランドです。
創業当時、「曹素功」「汪近聖」「汪節庵」などの名家がすでに存在しており、胡天注は遅れて参入しましたが、製墨技術と経営手腕を駆使して成功を収めました。
胡天注は貧しい家庭に生まれ、少年時代に汪啓茂の墨屋で働き始めました。
勤勉で鋭い洞察力を持つ胡天注を気に入った汪啓茂は、彼を娘婿として迎え入れます。
そして、1765年には墨屋を継いで「胡開文」を創業し、徐々に支店を増やしていきました。
1915年、「地球墨」がパナマ万国博覧会で金賞を獲得し、胡開文は世界に知られることとなります。
文化大革命が起こると企業の合併・統合が行われ、徽州の墨店は「歙県徽墨廠」に、上海近郊の分店は「上海墨廠」に再編されました。
文化大革命終結後、職人たちは胡開文ブランドで墨の製造を行う個人経営の工房へと移り、彼らによって現在に至るまで技術が受け継がれてきました。
胡開文の墨は、同治・光緒年間に中国各地で広く流通し、故宮博物院に現存するものには「乾隆・嘉慶・道光・咸豊・同治・光緒・宣統」の7つの年号が見られ、時代ごとに独自の風格を持っています。
また、「玉のように固く、犀の角のような美しい模様を持ち、千枚書いても墨の1/3も減らない」として高く評価されています。
現代まで受け継がれた技術による質の高い胡開文墨は、今もなお多くの人を魅了し続けています。