加納 夏雄

加納夏雄は幕末明治の日本で、その高い技術を駆使し活躍した金工師です。

1828年、京都の米屋に生まれますが、間もなく刀剣商・加納治助の養子となりました。身近にあった刀剣の中でも鍔や柄の美しさに魅かれ、自分で作ることを試みるようになります。12歳の頃には彫金師・奥村庄八のもとへ弟子入りし、彫金技法をみにつけました。さらに円山派の絵師・中島来章のもとで絵画も学んでいます。19歳で独立し、25歳になると江戸へ移り店を出します。武士の時代ということもあり、優美で緻密な刀装具はたちまち人気となり、多くの弟子も持ちました。

しかし明治維新により江戸幕府は新政府へ代わり、武士の時代も終わりを告げます。刀の需要が激減したことで、多くの金工師や鎧職人が廃業せざるをえなくなりました。そんな中、加納は新政府より新しい貨幣の原型制作を依頼されます。このとき作った試鋳貨幣があまりに出来が良く、イギリスでの製造予定が急きょ取り止めになったのは有名な逸話の一つです。こうして得た貨幣制作や、注文が続いた根付などの制作依頼により、加納は廃業とは無縁でした。さらに万国博覧会や内国勧業博覧会で展示した作品が評判となり、その名は海外までひろまっていきます。

1890年には第一回帝室技芸員に選抜され、名実ともに日本金工師の最高峰となります。また同時に東京美術学校調金科教授にも着任し、後進の金工師の育成にもつとめました。

文明開化で調金工芸が潰えそうになる中で、後世にその技術を残した功績は非常に大きなものであるといえます。