岡崎雪声

岡崎雪声は、京都府伏見区で釜師・岡崎貞甫の子として生まれました。本名は庄次郎です。大阪で釜師の修業を積んだ後、21歳で上京し、鋳金家の鈴木政吉に師事しました。

明治22年(1889年)には、その年のパリ万国博覧会に出品した作品が2等賞を受賞し、その名を高めるきっかけとなりましたその後、岡倉覚三(岡倉天心)と知己を得て、明治23年(1890年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)の鋳金科教師となり、明治29年(1896年)には教授に昇進しました。

岡崎は、分解鋳造法による大型鋳造を得意とし、銅像や建築装飾などを手がけました。代表作には、上野公園の「西郷隆盛像」や皇居前広場の「楠木正成像」などがあります。また、1903年には鋳金家協会の設立に尽力し、日本の鋳金界の発展に大きく貢献しました。

木内 克

木 内克は、茨城県水戸市出身の彫刻家です。

1892年の6月、代々医者の家系に生まれますが、彼は医師への道ではなく絵の道へと歩みを進めることとなります。

幼い頃から絵が好きだったこともあり、20歳の時に大学を中退して上京、明治時代に活躍した彫刻家・海野美盛の元で彫刻を学びます。
その後、朝倉文夫の彫塑塾に入門し、24歳の時に第10回文展にて初入選、それ以降も何度か入選を果たしました。
29歳の時に留学で欧州を訪れます。その後、ロンドンからパリへと移り、パリの研究所で彫刻を極めていきます。

欧州滞在中には、ギリシャのアルカイック彫刻に傾倒し、自身でテラコッタの技法を修得します。
そして帰国後、その修得した技法を用い、仁科展に数々の作品を出展・受賞しました。

戦後においては、再度欧州に行きブロンズの制作技術までをも会得します。
晩年には大胆にデフォルメされた裸婦像も手がけ、生涯、個性あふれる数々の作品を世に残していきました。

作風としては、エネルギッシュさと豊かな表現が組み合わされ、そこへ生まれたどこか温かみを感じられる風情が特徴的だと言えます

オーギュスト・ロダン

フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダンは、フランスの彫刻家です。

1840 年にパリで生まれ、十代の頃より芸術を学びますが、彼の経歴が花開いたのは40歳前後の頃からになります。

1880年に赴いたイタリア旅行にて、ミケランジェロの彫刻に感銘を受けた彼は、帰国後すぐに彫刻の制作に取り掛かります。

そして完成した『青銅時代』がフランスのサロンで注目を集め、フランス政府が買い上げました。この出世作を契機に、ロダンは重要な作品を次々と制作し、名声を高めていくこととなります。

ロダン以前の彫刻は高名な貴族や偉人、神話をモチーフとしたものが基本でしたが、ロダンは等身大で一般的な人間という、当時では考えられないようなモチーフを扱い、美術界に当惑と感嘆をもたらしました。ロダンの影響は世界的に広がり、フォロワーを多く生み出し、彫刻の歴史はまさしく変革を起こしました。これが、ロダンが「近代彫刻の父」と呼ばれる所以です。

有名な「考える人」をはじめ、ロダンの作品は日本含む世界中で多く現存され、愛されています。

松久 宗琳

松久 宗琳さんは京都生まれの正統派京仏師です。

1926年に仏師 松久 朋琳の長男として京都市に生まれました。幼少期は画家を志し絵画の勉強に励んでおりましたが、病を得て父の元に帰り、仏像彫刻の道を歩み始めます。

1962年には京都仏像彫刻研究所を設立しました。こちらの施設は現在「松久宗琳佛所」と改名されており、宗琳さんの次女である松久 佳遊さんが所長として遺志を受け継いでおられます。

1964年に仏教美術展を主催し、非常に優れた作品の数々を発表されました。1973年には仏像彫刻、仏画、截金を制作する教室「宗教芸術院」を設立し、多くの方の指導に当たられました。また同年に写真や図版で分かりやすく解説した「仏像彫刻のすすめ」を父 朋琳さんと共著されました。

1992年3月にお亡くなりになりました。

京都金閣寺の「岩見観音像」「四天王像」大阪四天王寺大講堂の「阿弥陀如来像」太子奥殿の「聖徳太子像」「四天王像」は父 朋琳さんと共に宗琳さんが制作されたもので、現在でも多くの方に親しまれております。

北村 西望

北村西望 獅子

北村西望は長崎の平和記念像で知られている文化勲章を受章した彫刻家です。
長崎県に生まれた北村西望は、京都市立美術工芸学校彫刻科、東京美術学校彫刻科に進み、東京美術芸術学校に在学中に「憤闘」が第2回文展に初入選、第3回文展に出品の「雄風」、第5回文展に出品の「壮者」はともに褒状を受章し、同校を首席で卒業する等、若いころから実績を残していきます。その後も数々の賞を受賞し、弱冠40歳で帝国美術院の会員にまでなりました。1921年に東京美術学校の教授になり、1944年までは後進の指導にあたりました。その後は、彫刻研究に没頭する為、1919年曠原社を組織し、1922年西ケ原彫刻研究所を開設、1933年には東邦彫塑院の顧問となりました。戦前は、勇壮な人物像を得意とし、戦意高揚を意図した作品を手がけ、有名作としては「寺内元帥騎馬像(寺内正毅)」、「児玉源太郎大将騎馬像」、「橘中佐」「山県有朋元帥騎馬像」などがあり、戦後は平和や自由、宗教などを題材に制作をしており、長崎の平和祈念像や広島市民の為の「飛躍」などの多くの平和祈念像を作成しました。長崎の平和祈念像を制作した年には文化勲章を受章するといったようにこの作品は北村西望を語るうえで欠かせないものとなったことでしょう。
武蔵野市の都立井の頭公園内にアトリエを建築し、東京都には約500点の作品を寄贈しており、その作品群は井の頭自然文化園の彫刻館に陳列されております。

清水 多嘉示

清水多嘉示 裸婦

 長野県諏訪郡出身の彫刻家で武蔵野美術大学の教授も務めました。人物をモチーフにした作品を手掛け、躍動感溢れる動きを見事に表現した作品はとても魅力的です。清水多嘉示の作品は、学校や公園などの公共施設に多数展示されている為各地で見る事ができます。

 健康上の理由により旧制諏訪中学を中退した後は画家を目指しており、洋画家である岡田三郎助・藤島武二が設立した「本郷洋画研究所」で絵画を学びました。同時期洋画家として下落合にアトリエを構えていた中村彜に師事し技術を磨きました。絵画を学ぶ為1923年からパリに渡りますが、そこでオーギュスト・ロダンの弟子アントワーヌ・ブールデルの作品に出合い、その事をきっかけに彫刻家の道を志します。ブールデルに師事してからは、フランスの美術展覧会に作品を出品し続け1927年まで連続で入選しました。帰国後はブロンズ作品を院展や春陽会などに出品し高い評価を得ました。1980年に文化功労者となり、同年には清水多嘉示の作品を集めた八ヶ岳美術館をオープンしました。翌年には正四位勲二等瑞宝章を授与されました。