墨運堂

墨運堂は奈良県奈良市に本社を置く書道具用品製造メーカーです。

起源は1805年に墨屋九兵衛氏が奈良市にて墨の製造を始めたことに始まり、松井墨雲堂、松井墨運堂を経て現在の株式会社墨運堂へと名称が変わりました。

おおよそ200年も前より墨の製造を行っており、「書道文化」の発展・継承を目指し日本文化に貢献することを理念とし日々奮闘されております。

墨展を全国主要都市にて開催し、墨の知識を深めたりPR活動にも積極的です。

墨運堂の製造する墨に百選墨という有名な墨がございます。

墨は体質と色彩を掛け合わせることで無数の墨色を創ることができるのですが、その中より特に良いと思うものを百選墨として発表した物になります。

色彩を掛け合わせると申しましたが、墨なので全て黒色には変わりないのです。

百選墨は二次流通でも高額でお取引されておりますが、墨運堂が長年研究し培ってきた確かな技術、墨色は間違いなく書道を愛する者、コレクターに重宝されています。

書道具 墨

墨は書道具においてなくてはならない存在ですが、墨の歴史は文字の歴史といっても過言ではありません。

日本に文字が伝来した年代と墨が伝来した年代は同じだと言われていますが、伝来した元の中国での墨の歴史は遥かに長く、紀元前1500年前の殷王朝が始まりと言われています。漢の時代になると固形のものが現れ「松煙」「石墨」に膠(にかわ)や香料も使われていたと言われます。また、油を燃やして採煙した煤を使用した「油煙」は唐や宋の時代に登場したと言われますがはっきりとしていません。

中国の墨のことを「唐墨」と呼びますが唐墨の製墨家が数多く台頭した文化大革命の頃の墨は非常に珍重されており、墨はできたてでは粘り気があり色も弱いことが多く20年から100年にかけてが使い頃だと言われる為文革前の墨はまさにその時期に当たることも人気の所以となっています。

 

唐墨以外では、漢字だけでなくひらがなも用いる日本の墨はより繊細な動きが求められる為独自に発展していきました。

日本の墨(和墨)は唐墨に比べて膠の比率が低いものの粘り気の強い物が使われており、墨のおりが早く、強い黒が出せるようになっています。そうした背景には日本と中国とで水質も違う事も挙げられ、唐墨も軟水と硬水で擦るのでは色味が違うといわれます。

また、湿度の高い日本で独自に発展した和墨はひび割れしにくく保存がきくことから書家からも重宝されています。

端渓硯

中国文人の文房趣味とされる硯、墨、筆、紙の四つの文房具のことを文房四宝(ぶんぼうしほう)といい、文房四宝の硯の中でも最高峰とされているのが今回ご紹介する端渓硯になります。

中国の硯は唐硯(とうけん)と呼ばれ中国四大名硯として種類は端渓硯(たんけいけん)、歙州硯(きゅうじゅうけん)、洮河緑石硯(とうがりょくせきけん)澄泥硯(ちょうでいけん)の大きく4つに分けられます。
この他にも代表的なもので松花江緑石硯(しょうかこうりょくせきけん)、羅紋硯(らもんけん)があります。

唐硯全体の特徴としては装飾が豪華なものが多いという点と、硯に天然石が持つ紋様が表れるという点にあります。
この紋様のことを石紋(せきもん)といい、天然石特有の多種多様な紋様が、観賞価値を高めるためには非常に重要なものとなっております。
石紋で有名なものが、青花(せいか)、蕉葉白(しょうようはく)、冰紋(ひょうもん)臙脂暈(えんじうん)翡翠(ひすい)石眼(せきがん)金、銀線(きん、ぎんせん)等多くの種類が存在します。

画像の物は硯全体が壷型の形をしており、二体の獅子が彫刻された珍しいお品物であり、機械で彫刻されたものではなく手掘りの作品で、こちらが老坑と呼ばれる珍しい石を使っていたり石の紋様である石紋というものがあれば高値の評価額が期待できるお品物になっております。

この他にも、中国骨董は中国人バイヤーの方にも大変人気があり、中国で起きた文化大革命(1966年~1977年)以前のお品物でしたら、書道具に限らず高値の評価額が期待できます。

古梅園 松井家

古梅園とは、天正5年(1577年)松井道珍が始めた製墨業が起源とする日本最古の製墨会社です。松井堂珍から続く松井家は当代が16代で400年以上の歴史を持っております。古梅園という名前は、2世道慶の庭の一隅に梅の古木があり、来訪する文人たちが賞揚したので、これを園号としました。
古梅園の長い歴史の中には多くの出来事があり、徳川の時代には幕府の用達を受け江戸に駐し、明治時代には宮内庁御用達となりました。そこに至るまでの道のりは、歴代の墨匠が開発し作り上げた墨の種類からうかがい知ることができます。そのころから墨と言えば古梅園といわれるようになり、今でも多くの文人が古梅園の墨を利用し愛し続けています。

北大路 魯山人

北大路魯山人(本名・房次郎)は波乱万丈の人生と、その多才な才能を生かした作品が知られる人物です。作品は篆刻や陶芸、絵、書、漆芸など多岐に渡る他、美食家としても有名です。

魯山人は1883年に京都に生まれますが、生まれる前に父が自殺。母も間もなく失踪し、その後は養家が次々変わるなど、厳しい家庭環境にありました。この環境は6歳の頃ようやく落ち着き、京都の木版師の元で生活する事になりました。小学校卒業後は丁稚奉公となりますが、この時竹内栖鳳の絵を目にし、関心を持ちます。しかし画学校への進学は叶わず、養父の家業を手伝うこととなりました。木版技術を身につける一方で、書道の才能も開花し、書道展にて賞を取る程の腕前をみせました。
1903年、実母に会う為に東京へ赴き、そのまま東京に残ることを選びます。1905年には岡本太郎の祖父、岡本可亭に入門しますが2年後には独立しました。1910年、朝鮮を旅しつつ、朝鮮総督府で職を得て大陸で暮らし、現地の有名書道家などとも面会しました。日本に帰国後は福田大観の名で制作に打ち込み、絵や篆刻などの作品を残しました。また、竹内栖鳳の知己を得たことで、日本画の巨匠達とも接点を持ちます。1916年、実家の家督を継ぎ北大路姓となりました。さらに料理にも関心が高まり、会員制の「美食倶楽部」を発足、自作の食器に自らの手料理を振舞いました。

1927年、魯山人窯芸研究所を設立、荒川豊蔵を招き本格的な作陶を開始します。百貨店での作品展は好評を博し、戦後は外国人からも人気となりました。1954年には海外で展覧会も行っています。

性格は気難しかったようですが、その技量と優れた芸術的感覚から生み出される作品は多くの人々に愛されました。

雨宮 静軒

雨宮静軒は甲斐雨端硯の名工です。

1892年、代々続く雨畑硯の硯職人の11代目として生まれた静軒(本名・弥兵衛)は、家業を継ぎ硯職人となりました。青年時代には東京美術学校付属工芸講習所で学び、日本画家・竹内栖鳳にも師事し、日本画の図案を学びます。またイタリアへも留学し、本場の石材彫刻も学んでいます。父の死後は、後に総理大臣となる書道家でもあった犬養毅(号・木堂)の元で修行し、時にはともに中国大陸まで赴くこともあったようです。

実用品である硯の中にたかい芸術性をもおさめたその作品は、近代の書道家や芸術家の間で高く評価されることになります。また、従来の中国的な硯から脱却し、日本独自の硯の世界を作り上げることにも成功しました。