ふくよかで温かみのある人物像、画家・金森宰司の描く人物は観るものに安心感を与えるような作品となっています。色彩感覚にも優れ、巧みな色の調和が作品にユーモアを与えています。
金森は1949年、長野県に生まれました。東京藝術大学に進学し油彩画を学び、1978年に同大学の研究生を修了しています。在学中には、油画科の成績優秀者が選定される大橋賞を受賞しています。
卒業後は新制作協会展への出品を行い、1981年の初入選を皮切りに複数回の受賞記録を持っています。1989年には文化庁の芸術家在外研修員に選抜され、フランスへ1年間滞在しました。翌年にはパリで個展も開催しています。またガラス立体作品の制作にも着手し、ガラスアートの本場・イタリアのベネチアも訪れています。
1999年、絵本『くろいマントのおじさん』を刊行。これが翌年のイタリア・ボローニャ国際児童図書賞で子供フィクション大賞を受賞しました。
現在も数多くの作品を発表しつづけており、全国各地の美術館、百貨店などで個展が開催されています。
美人画浮世絵の大家として有名な浮世絵師・喜多川歌麿。いまや海外にも多くの作品が存在し、その知名度も世界的なものとなっています。
歌麿の生年や出生地は、現在もはっきりした史料がなく、研究者の間で論争が続いています。死亡時の年齢から1753または54年に、川越もしくは江戸市中で生まれたのではないかとされていますが、今後の研究次第では変わるかもしれません。
浮世絵師・鳥山石燕に師事し、1775年頃より絵師として仕事を得るようになります。間もなく後の代名詞となる美人画も描くようになりました。さらに江戸での狂歌絵本の流行に乗って、歌麿もこれを製作。大手版元の蔦屋重三郎がついたことでその評判は大きく広まります。間もなく独自の画風で美人画を描くようになり、全身を描かない美人大首絵が大ヒットとなります。歌麿によって描かれた女性はたちまち町の有名人となっていたことからも、当時の熱狂ぶりが伝わります。
しかし、こうした盛り上がりを幕府は良しとせず、取り締まりの強化に乗り出しました。歌麿は屈することなく制作を続けますが、1804年に、禁止されていた豊臣秀吉題材の作品が原因で捕縛され、手鎖50日(手枷をはめて自宅謹慎)の処分を受けることとなります。この刑が原因となり体調が悪化。2年後亡くなりました。
開国と共に海外流出した作品も多く、それらは現在海外の有名美術館で大切に保管されています。特にアメリカのボストン美術館には300点以上が非常に良いコンディションで収蔵されています。
洋画から日本画へ転向した異色の画家、小杉放庵。西洋と東洋の双方を見た彼が描く絵は、画壇でも評価され続けました。
小杉放庵は1881年、栃木県の日光に生まれました。1896年より地元の洋画家・五百城文哉に弟子入り、1900年より上京し、小山正太郎の不同舎で学びます。当初は小杉未醒の号で活動し、漫画や小説挿絵が評判となりました。日露戦争では従軍記者として戦地に渡り、漫画や戦争画を描いています。
1910年、文展出品作が3等に入賞したのが始まりとなり、翌年には『水郷』が2等を獲得します。1913年、フランスに留学しますが、現地で目にした池大雅の作品に大きく影響され、逆に日本画への関心を高めました。帰国後は横山大観と親交があったことから、日本美術院の再興にに協力し、洋画部を主宰します。その後は友人とともに春陽会を結成し、活動の主軸を移しました。昭和になると日本画作品も多く手掛けるようになり、日本芸術院の会員を辞してからは晩年まで日本画制作に専念しています。
元来洋画に東洋的趣向を取りいれていましたが、フランス留学で、西洋にとって東洋は新しいものと見られることに気づき、その後は油絵でも日本画に近い見た目になるものを、題材も日本の古典を元にしたものが増えていきます。
代表作は『水郷』や『神橋』の他、東大安田講堂の壁画などが存在します。
1999年には故郷日光に、「小杉放庵記念日光美術館」が開館しました。
戦後日本の現代美術に大きな影響を与えた「もの派」。その中心的位置にいたのが現代芸術家・関根伸夫です。
1942年埼玉県大宮に生まれ、高校卒業後は多摩美術大学の油絵科に進学します。このとき指導をうけた現代美術家の斎藤義重に大きく影響を受けます。1968年大学院を卒業すると、この年の現代日本野外彫刻展にて《位相―大地》を発表。地面に穴を掘り、堀った土を穴と同じ円柱状にして横に並べたその作品は、多くの人に衝撃を与えました。これを目にした韓国人美術家・李 禹煥により「もの派」が始まります。
関根自身は1970年にヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表となったのを機に渡欧し、2年間ヨーロッパで過ごしました。帰国後は環境美術研究所の設立の他、多くのパブリックアートの制作に携わっています。世界各地の美術館で多くの展覧会も開催されましたが、2019年に体調を崩し、アメリカ・カリフォルニアで亡くなりました。
代表作には《位相―大地》の他、《位相―スポンジ》、《空相》などがあります。
畠中光享はArtist Group―風メンバーである日本画家です。
1947年に奈良市に生まれた畠中光享は大谷大学文学部史学科、京都市立芸術大学専攻科修了した後、1971年にパンリアル展(パンリアル協会)に出品しました。
1973年には山種美術館賞展(75年、77 年、89年)に出品したことを始め多くの絵画展に出品をし、1977年にはシェル美術大賞を受賞。
1978年には第1回東京セントラル美術館日本画大賞展にて大賞を受賞。以後数々の賞を受賞します。1
984~1993年には横の会、2012年からはArtist Group―風の結成に参画しており、2004年には京都府文化賞功労賞を、2014年には京都美術文化賞を受賞しております。
畠中光享の作風は描線と平面性、形の追求を核として、顔料の持つ美しさを引き出し、写生を基礎にした象徴性のある造形となっています。
また、インドの美術、特に絵画・染織・彫刻などの研究者でもあり、歴史的な作品の研究を通じてテーマを見出し、その本質や生き方を考えることを絵の制作時の信条としております。
日本を離れフランスで活躍した画家、藤田嗣治。晩年、フランスに帰化しレオナール・フジタとなった彼の人生は波乱万丈に満ちたものでした。
藤田は1886年、東京牛込の医者の家に生まれます。子供の頃からよく絵を描き、旧制中学卒業後は画家になることを志します。1905年に東京美術学校の西洋画科に入学しますが、当時流行していた写実主義や印象派になじめず成績は伸び悩みました。卒業後は国内の美術展に出品していますが、当時はほとんど評価されませんでした。
1913年、藤田はフランス行きを決意します。妻を残し単身パリへ渡り、新人画家が多く住むモンパルナスに自身もアトリエを構えました。この頃のパリでは印象派に代わりキュビズムやシュールレアリズムといった新しい絵が現れており、藤田の作風に大きな影響を与えています。しかし、間もなく第一次世界大戦が勃発。絵は売れず生活は困窮しました。戦争も終わりを迎える頃ようやく絵が売れ始め、徐々に人気も高まっていきます。同時に藤田の面相筆による線描を多用する画風も確立されました。間もなく藤田はフランス全土に知られるような有名人となり、1925年にはフランス政府から勲章を授与されています。
1931年、個展開催に伴い南アメリカを訪問。ここでも藤田の人気は高く、多くの観客を集めました。1933年には日本に戻り5度目の結婚。さらに従軍画家として日中戦争の取材を行っています。1939年に一度パリに戻るも、間もなく第二次世界大戦が勃発。再度の帰国を余儀なくされ、日本で陸軍美術協会副会長に就任します。『アッツ島玉砕』などのリアリズムに描かれた作品を残しますが、戦後はGHQの調査対象として追われ、戦争協力者と批判されます。1949年、藤田は日本を捨て三度、パリへ向かいます。
1950年、11年ぶりのパリの街は大きく変わっていましたが、藤田はここに永住することを決意。1955年にフランス国籍を取得し、日本国籍を抹消しています。また最初の渡仏で出会ったパブロ・ピカソとも再会し、晩年まで交友を続けました。
1959年、カトリックの洗礼を受け、その名をレオナール・フジタとします。1968年、スイスで亡くなり、自身が設計したフランス・ランスの「フジタ礼拝堂」に埋葬されました。
独特な線描で描かれる裸婦や猫、藤田自身の姿。フランスで最も有名な日本人とまで呼ばれた藤田作品の人気は、今や世界中で非常に高く、多くのファンが存在します。生涯に描いた作品数も多く、代表作は世界各地の有名美術館に存在するなど、世界的な芸術家となっています。