樋口対山は、明治から大正にかけて活躍した尺八演奏者であり、明暗流尺八の中興の祖です。
対山は愛知県名古屋市に生まれ、本名は樋口孝道、旧姓は鈴木治助といいます。尺八を兼友西園に師事し、西園流の本曲を修めました。のちに明暗教会の訳教師(尺八指南役)となり、全国に散らばって消えかけていた各地の尺八古典本曲を熱心に収集しました。これらを独自の解釈や奏法、記譜法で整理・統合し、現在の「明暗対山流」を体系化しました。
彼は数々の古典本曲を整理しており、なかでも『虚空』および『虚空下巻(虎嘯虚空)』は、普化(ふけ)尺八の根源とされる重要な曲です。元々は一つの長大な曲でしたが、対山が独自の解釈で前編・後編(下巻)の2曲に整理しました。これらは『虚鈴』や『霧海篪』と並び、根源的な「三本曲」に位置づけられています。また、対山は一尺九寸などの非常に太い尺八を好んで使用したことでも知られています。
現在、彼の墓所は京都の大谷祖廟にあり、彼が整理した数々の古典名曲は、「吹禅」の精神とともに現代の尺八演奏家に受け継がれています。
横山勝也は、昭和から平成にかけて国内外で広く活動した尺八奏者です。
横山は静岡県に生まれ、琴古流・吾妻流尺八を祖父・横山篁邨、父・横山蘭畝に学んだ後、福田蘭童や海童道祖にも師事し、独自の芸風を築き上げました。
1961年に「東京尺八三重奏団」を結成し、さらに1964年には、後に人間国宝となる初代山本邦山、2代青木鈴慕とともに「尺八三本会」を結成しました。これらの活動を通じて、それまでの流派の垣根を越えた尺八三重奏という新たな演奏スタイルを切り開きました。
また、1967年には小澤征爾指揮のニューヨーク・フィルハーモニックとともに、武満徹作曲『ノヴェンバー・ステップス(November Steps)』の世界初演で尺八ソリストを務めました。西洋のオーケストラと日本の伝統楽器を融合させるという斬新な試みは国内外で高く評価され、尺八の魅力を世界へ広く紹介する大きな契機となりました。
彼は古典本曲の深みのある演奏から現代音楽、さらにはゲーム『鬼武者』の『交響組曲 RISING SUN』における尺八ソリストとしての演奏にいたるまで、幅広い分野に足跡を残しました。
『ノヴェンバー・ステップス』をはじめとする歴史的な名演を通じて、尺八の国際的な評価の向上に大きく貢献した横山勝也の功績と表現力は、今もなお国内外の多くの奏者に受け継がれています。
原粋鏡(はらすいきょう)は、茨城県を拠点に活動する尺八の製管師です。
原は、尺八製管師である玉井竹仙に師事し、先人の技術を基礎としながら独自の技法を確立しました。「原粹鏡尺八工房」において「粋鏡」銘の尺八を製作しており、修理などのメンテナンスも手掛けています。
粋鏡銘の尺八は一本一本丁寧に製作されており、作品によって仕様は異なりますが、朱漆による鏡面仕上げや、歌口の金巻・銀巻、中継ぎの銀三線籐巻などを採用した作例も見られます。
原粋鏡は、伝統技術を深く継承しながらも独自の音響美を追求し、多くの演奏家や愛好家から高い評価を得ています。
村田萌山は、京都を拠点に活動する都山流の尺八演奏家であり、製管師です。
村田は京都府に生まれ、16歳の時に尺八演奏家の三好芫山に師事し、以来、50年以上にわたり演奏技術を修得・研鑽してきました。尺八の製作技術においては、玉井竹仙に師事し、伝統的な製作の技を学びました。現在は、自身のブランドである「萌山銘尺八」の制作工房を京都府南丹市に構え、全国で演奏活動や学校公演なども行っています。
萌山銘の尺八の特徴は、演奏家としての長年の経験と、伝統的な製作技術を融合させて作られている点にあります。最も出しにくいとされる「大甲レ」の音が的確に出るように製管師自らが製作・調整されているところや、「籐巻(とうまき)」など細部まで妥協のない丁寧な仕上げにより、耐久性と和楽器としての美しさを兼ね備えている点も大きな魅力です。
総じて村田萌山は、演奏家と製管師という二つの視点を融合させた尺八作家といえます。
素川欣也は、国内外で幅広く活躍する尺八演奏家、および尺八製管師です。
素川は兵庫県神戸市に生まれ、尺八の演奏を横山勝也に、尺八の製管(製作)を玉井竹仙に学びました。NHK邦楽オーディションに合格し、NHK邦楽技能者育成会(27期)を卒業後、1981年から1990年にかけて日本音楽集団に所属しました。日中韓の民族楽器で構成された「オーケストラ・アジア(ORA)」の団員として、尺八古典本曲を軸とした国内外での演奏活動を展開するほか、スタジオミュージシャンとして演歌、ゲーム音楽、映画音楽、CM音楽など、多岐にわたる分野で活動しています。
また、演奏家と製管師の両面から培った経験を生かし、竹製尺八の製作に加え、塩化ビニル管(PVC管)を用いた尺八の製作・普及にも取り組んでいます。
竹よりも安価で製作しやすいPVC尺八を活用したワークショップや、自身のウェブサイトを通じた製作方法の発信などを行い、教育現場や一般の愛好家に向けた尺八文化の普及にも尽力しています。
また、2012年にはアメリカ・ニューヨークにて自身の尺八リサイタルを開催するとともに、現地の音楽ファンや研究者を対象とした「尺八演奏・制作のワークショップ」を主宰し、国内外に向けて尺八の構造や文化を伝える活動を続けています。現在は宮地楽器をはじめとする音楽教室で尺八講師を務めており、初心者から経験者まで後進の育成と尺八の普及に努めています。
黒沢琴古は、日本の伝統楽器である尺八の二大流派の一つ「琴古流(きんこりゅう)」の創始者(流祖)です。
黒沢は筑前国(福岡県)に生まれ、本名は黒沢幸八といいます。少年の頃から尺八の才能に恵まれており、武士の身分を捨てて禅宗の一派である普化宗(ふけしゅう)に入宗し、尺八を吹きながら諸国を巡る虚無僧(こむそう)となりました。その後、全国を行脚して各地の寺院に伝わる30曲あまりの尺八曲を収集・整理し、編曲や新作の作曲を行うことで「琴古流本曲36曲」を制定し、流派の基礎を築きました。また江戸へ移住した後は、幕府の庇護のもとで虚無僧寺である一月寺(いちがつじ)などの指南役を務め、尺八の製作にも優れた手腕を発揮するなど、その名を世間に広く知られるようになりました。
二代目は、初代幸八の実子で本名は黒沢雅十郎(のちに幸右衛門、のちに幸八)といいます。父の後を継いで一月寺や鈴法寺の吹合(指導役)を行い、初の一般人対象の尺八教授所を江戸市中に設けて普及に尽力しました。「琴古流」の名称もこの頃から用いられ始めたと言われています。
三代目は、二代目宗家の実子で本名は黒沢雅次郎(のちに幸八)といいます。尺八吹合所(稽古場)を設け尺八教授を行い、江戸における尺八の名手として門人も多く、久松風陽ら逸材を輩出しました。尺八を手掛けたほか、新曲の創作も多く、三代目が執筆した『琴古手帖』は当時の琴古流のことを知る貴重な史料といわれています。
四代目は、三代目に実子がいなかったため、その弟である黒沢音次郎(のちに幸八)が継ぎました。しかし、技量や求心力の不足から、後見役の久松風陽らの支えも虚しく門弟は離散してしまいました。その後、後継者不在などの理由から黒沢家による直接の家元統治は一度途絶えることとなります。
しかし、散らばった優秀な弟子たちが全国で伝統を守り続けたため、流派自体は明治以降も存続し、1969年(昭和44年)には「琴古流協会」が設立されるなど、現代まで尺八の二大流派の一つとして大発展を遂げています。なお、黒沢家の墓誌(多磨霊園)には、五代目から七代目までは「琴古」の名は刻まれていませんが、八代目の黒沢貞一は多摩琴古流尺八会に関わったため「琴古」の名が刻まれました。
総じて黒沢琴古は、それまで法器(修行道具)としての側面が強かった尺八を、高い芸術性を持つ音楽へと昇華させ、現代に続く伝統の基盤を築いた最大の功労者といえます。