清巌 宗渭は、江戸時代前期に活動した臨済宗の僧です。
近江(滋賀県)に生まれ、9歳で大徳寺の「玉甫紹琮」について得度しました。
師が亡くなると「賢谷宗良」のもとにつきました。
のちに大徳寺第170世を務め、多くの寺院の開創に関わりました。
清巌は書をよく行いました。
南宋の書家である「張即之」の影響を強く受けていたとされています。
また、茶の湯にも通じており、「清巌禅師十八ヶ条」という茶の湯に関する書を残しています。
千利休の孫である「千宗旦」の参禅の師でもあり、彼に教えを説きました。
清巌の作品は、茶席の掛物として高い人気を誇り、その一行書は現代においても高い評価を得ています。
小堀 遠州は、江戸時代初期に活躍した茶人・作庭家・建築家です。
「遠州」という名前は通称であり、本名は「小堀 政一」です。
1579年、近江国(現在の滋賀県)に生まれた遠州は、父親から英才教育を受けて育ちました。
1593年より「古田織部」から茶の湯を学び、茶道や建築など様々な分野で活躍しました。
「名人になる」と織部に評価され、古田や千利休の流派を基盤とした「遠州流」という流派を確立しました。
簡素な中に華やかさを交えた小堀独自の美意識は、「綺麗さび」という言葉で知られています。
生涯で400回もの茶会を開催し、幅広い階層の人々と交流を深めました。
彼が建築や造園に携わった代表的な作品には、『南禅寺金地院』『桂離宮』『仙洞御所』などがあります。
表千家九代 曠叔宗左 了々斎についてご紹介いたします。
主な功績としては、十代藩主・徳川治宝の茶頭として仕え、紀州徳川家との深い交流から現在の表千家の表門を拝領したことや、十代楽 旦入と共に紀州御庭焼の製陶に携わり、茶道具の発展に貢献したことなどが挙げられます。
了々斎は、久田家六代家元・挹泉斎宗溪の長男として生まれます。
表千家八代家元 啐啄斎が後嗣の男子に恵まれなかったため、了々斎はその婿養子となり、34歳の頃に表千家の九代家元を襲名しました。
その時啐啄斎は60歳程の年齢であり、入れ替わる形で隠居の身となりました。
了々斎は紀州徳川家十代藩主・徳川治宝の茶頭として仕え、治宝から深い信頼と庇護を受けます。
治宝は歴代藩主の中でも特筆して茶道に深い造詣を持ち、了々斎の指導のもと、利休茶道の免許皆伝を受けるまでになります。
1819年(文政2年)には十代楽旦入と共に紀州御庭焼の製陶に携わり、他にも赤楽や黒楽の茶碗など、多くの茶道具を自ら制作しました。
また、当時の千家十職のうち、楽家の楽了入や永楽家の永楽了全など、了々斎から「了」の字を受けて名乗った職人もおり、その影響力の大きさがうかがえます。
晩年の1822年には、治宝を家元にむかえ茶事を執り行いました。了々斎は二条屋敷にあった武家門を拝領し、それが表千家の表門として今もなお、由緒ある門として表千家の風格を表しています。
了々斎の好み物としては、代表的なもので赤楽・黒楽茶碗が挙げられます。七代の如心斎に強い影響を受けていることから、自作の茶道具にもその精神性が反映されています。
手造 黒茶碗「長袴」という作品が残されており、手造りの筒茶碗は非常に珍しい作品となります。長男・与太郎の6歳の袴着の祝儀に際して作られ、「長袴」と命名されました。
他にも華やかな蒔絵を施した棗や打合盆など、了々斎の好み物の種類は多岐にわたります。
1901年、小田雪窓は鳥取県に生まれました。
1913年、12歳で故郷鳥取の廣徳寺にて得度し、臨済宗の僧となります。その後、修行を重ね、1921年には18歳で京都へ移り、妙心寺に落ち着きました。
1947年、師である瑞巌老師が大徳寺の管長(代表者)に任じられ、僧堂師家の地位に就きます。その後、1955年には臨済宗大徳寺派の管長に就任しました。1966年、小田雪窓は僧侶として、また能書家として卓越した才能を発揮しながら65歳でその生涯を閉じました。
臨済宗の僧侶として最高位に就いた雪窓は、指導者として後進の育成に尽力するとともに、能書家としての活動も活発に行いました。その書は素朴ながらも格調高く、幽玄な雰囲気を漂わせる筆致が特徴です。書画のほか、雪窓の書付のある茶道具作品が現存しています。
また、茶の湯にも造詣が深かった雪窓は、茶杓や蓋置などの茶道具の制作にも携わりました。これらの作品は、彼の美意識と茶道に対する深い理解を物語っています。
立花大亀は臨済宗の僧侶であり、茶道や書道、禅の世界で名を馳せた人物です。
大阪府に生まれた大亀は、22歳の時に南宗寺で得度(僧侶になるための出家)します。その後は臨済宗大徳寺派の徳禅寺住職を経て、大徳寺の住職まで務めました。1982年から1986年までは、花園大学の学長として仏教教育にも力を注ぎました。
茶道の世界では、大徳寺と茶道の深い関係を背景にその精神を広め、伝統を受け継ぎながら新たな発展をもたらしました。書家としても優れた作品を数多く残し、禅の思想を体現したその書風は高く評価されています。
また、政治家や実業家とも深く交流し、その鋭い洞察と助言から「政界の指南役」とも称され、多くの人々から信頼を集めました。
茶道と書道に深い造詣を持ち、茶杓や茶掛などの作品が多く残っております。
今井宗久は、戦国時代に堺で活躍した豪商および茶人です。
千利休、津田宗及と並び「天下三宗匠」と呼ばれました。
彼の出自は明確ではなく、近江国高島郡の今井氏や大和国の今井荘という地域の出身という説があります。宗久は若い頃に堺に移住し、納屋宗次という商人の元で経験を積みました。納屋宗次は堺の代表的な商人であり、宗久は彼の元で力をつけ、独立後は納屋業に加えて鉄砲の製造にも手を広げました。
宗久は商才に恵まれており、鉄砲の製造や南蛮貿易を通じて巨万の富を築き上げました。特に、鉄砲の大量生産により堺は日本有数の鉄砲産地となり、宗久の影響力は大きくなりました。彼は堺の自治組織である会合衆の一員となり、商人としての地位を確立しました。
商人として成功を収めた宗久は、茶の湯の世界にも足を踏み入れました。彼は武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し、茶の湯の技量を磨きました。紹鴎の娘と結婚し、その財産や茶器を引き継いだことで、宗久は堺を代表する茶人となりました。彼は千利休や津田宗及とともに、信長の茶頭としても活躍しました。
宗久の人生において重要な転機は、織田信長との出会いでした。1568年、信長が上洛を果たした際、宗久は単独で信長に謁見し、名物茶器を献上しました。この行動により、宗久は信長の信頼を得て、堺の豪商たちを代表する立場となりました。信長は堺の商人たちに戦費として矢銭を要求しましたが、宗久はこれを仲介し、商人たちを説得して信長の要求を受け入れさせました。この功績により、信長は宗久に多くの特権を与えました。
1582年に信長が本能寺の変で亡くなった後、宗久は豊臣秀吉に仕えることになりました。しかし、茶の湯の世界では千利休の影響力が次第に強まり、宗久は次第にその活動を控えるようになりました。秀吉の北野大茶会以降、宗久は茶の湯の世界に顔を出さなくなり、1593年に74歳で生涯を終えました。
今井宗久は、商才と茶の湯の技量を兼ね備えた稀有な人物でした。彼の商業活動は、堺を日本有数の商業都市に押し上げる一因となり、信長の成功にも大きく寄与しました。宗久のような政商は、戦国時代の日本において重要な役割を果たしました。彼の生涯は、商人としての成功と茶人としての優れた技量が交錯する、戦国時代の一つの象徴といえます。