黒川大介は、吹きガラスを中心に制作を行う日本のガラス作家です。
黒川は福岡県に生まれ、2001年に千葉大学工学部デザイン工学科へ進学しました。その後、2005年に東京ガラス工芸研究所へ入学し、2006年には「高岡クラフトコンペ」にて特別賞を受賞しました。2007年の同研究所卒業時には、卒業制作展において大賞および大衆賞を受賞しています。
卒業後は「グラススタジオmoi」のスタッフを務め、さらに文化財修復などでも知られる「株式会社猿江ガラス」に勤務し、熱心に研鑽を積みました。また、2010年には「グラスクラフトトリエンナーレ」にて2点入選、2011年には「第五回 酒の器展」に入選するなど、着実に実績を重ね、2014年よりフリーの作家として本格的な活動を開始しました。
制作技法は主に「吹きガラス」で、器や酒器、花器、硝子球など多岐にわたるお品物を手掛けています。ガラスが持つ変幻自在な魅力と光による表情の変化を巧みに捉え、小さな器の中に壮大な世界観を表現することを得意としています。
彼の作品の最大の特徴は、夜空に輝く月や銀河、星雲、太陽といった「宇宙の情景」をテーマにしている点です。手のひらに収まるような酒器や硝子球の中に、満天の星空や壮大な小宇宙を閉じ込めたかのような、神秘的な世界観が描き出されています。 主に高温で溶けたガラスを操る吹きガラスの技術をベースに、緻密な金属の加飾や、冷却後の高度な切削・研磨技術を組み合わせることで、宇宙にきらめく星々や星雲の複雑なグラデーションを表現しています。
黒川大介は、専門機関や工房での研鑽を経て培った技術を背景に、ガラスを用いて手のひらの中に壮大な小宇宙を表現し続ける、現代ガラス工芸界を代表する作家の一人といえます。
鷹取 閑山(たかとり かんざん)は1924年生まれの備前焼の作家です。
古くから備前焼の伝統を守り続けてきた「備前焼窯元六姓」の一つである寺見家に生まれ、実兄である名匠・森宝山の元で修行し、後に人間国宝の藤原啓にも師事しました。
閑山の作品は、端正な形作りと備前焼ならではの力強さ、土と炎が織りなす素朴な美しさが魅力です。しっかり焼き締まった硬質な地肌に、炎の当たり方で色が変わる「窯変(ようへん)」が印象的な作品を残しています。
鷹取 閑山が構えた登り窯は現代も使われており、彼の弟子たちが多くの作品を発表しています。今なお多くの骨董・陶芸ファンに親しまれている作家です。
山本広巳は、三重県四日市市に伝わる伝統工芸 萬古焼 を、実用工芸の枠を超えた芸術作品へと昇華させた現代陶芸家の一人です。
萬古焼の代名詞ともいえる「紫泥」の魅力を極限まで追求した作品は、一切の過度な装飾を排した端正な造形でありながら、金属器を思わせるような硬質感と、手仕事ならではの柔らかな曲線美を兼ね備えています。
特筆すべきは、その圧倒的な肌合いの美しさです。厳選された良質な土を長い時間をかけて練り上げ、焼成後も丹念に磨き込むことで、シルクのように滑らかで吸い付くような独特の質感を実現しています。使い込むほどに艶が深まり、経年変化を楽しめる点も高く評価されています。
また、茶器、特に急須制作においては、注ぎ口の水切れや蓋の精密な密閉性など、実用面でも極めて完成度が高く、煎茶愛好家や海外コレクターからも高い人気を誇ります。
伝統的な萬古焼の技術を継承しながら、現代的な洗練を纏わせた山本広巳の作品は、日本の手仕事文化の美意識を体現した逸品として高い評価を受けています。
大田垣蓮月は、幕末から明治初期にかけて、和歌・書・陶芸を通じて活躍した文化人です。
大田垣は、武家の血筋に生まれ、幼少期に大田垣家の養女として迎えられました。40代前半までに夫や子どもを次々と失い、こうした不幸を経て出家し、「蓮月尼」と名乗り、和歌や書、陶芸の分野で活動しました。その後は和歌を中心に文芸活動を行い、同時に自作の陶器に自詠の歌を刻む独自の作風を確立しました。素朴な器形に平明な言葉で詠まれた和歌を組み合わせた作品は『蓮月焼』として知られ、文学と工芸を融合させた表現として評価されています。
彼女の作品は、和歌・書・陶芸が一体となった総合的な表現に特徴があり、流麗でやわらかな仮名書と、型を用いず手びねり(手づくね)によって成形された温かみのある造形に独自の魅力が見られます。また、日常的な器に和歌を刻むことで実用性と芸術性を兼ね備えており、贈答品や交流の媒介としても機能していました。
大田垣蓮月は、自らの表現によって活動の場を広げた文化人ともいえます。
高岡銅器は、約400年前より主に富山県高岡市で生産されている金工品です。
江戸時代初期、二代目加賀藩主・前田利長公が高岡城を築いた際、城下繁栄の新たな産業政策として、7人の鋳物師や刀装彫金師を招いたことが始まりとされています。
鋳物師たちを中心に鋳造工場を富山県高岡市に作り、当初は鍋や釜等の日用品や農作業用の鍬や鋤などの実用的な鉄鋳物を製作していました。
江戸時代中期になると、生活や文化の水準が向上し、仏具や梵鐘、灯篭、大仏のような大型のものなど「唐金鋳物」が盛んに作られるようになります。特に仏具は、一般家庭にも仏壇が普及したことにより需要が高まり、高岡の鋳物産業は大きく発展しました。
「唐金鋳物」とは、主に銅に錫を加えた青銅を基本とする合金鋳物で、用途に応じて鉛などを加える場合もあります。銅合金は鉄に比べて流動性が高く、複雑で繊細な造形が可能であるとともに加工性にも優れ、美術工芸品に適した素材です。
こうした特性を生かし、美術品や仏具、花器、茶道具など、美術性の高い製品が数多く作られるようになりました。
さらに、品種の増加により、着色や象嵌、彫金といった加飾技術も発展し、装飾性豊かな工芸へと展開していきます。
刀装具に用いられていた彫金や象嵌といった精密な装飾技法が取り入れられたことで、高岡銅器は生活用品を超え、美術品としても高く評価されるようになりました。
明治時代には、パリやウィーンで開かれた万国博覧会にも出品され、高い評価を受けました。これにより世界でも知られるようになり、輸出工芸品として美術銅器は確固たる地位を確立しました。
製造工程は、原型作りから始まり、鋳型の作成、溶解した金属の鋳込み、冷却・型外しを経て、研磨や彫金、着色といった仕上げ加工が施され完成します。
それぞれの工程は専門の製作所や職人による分業制で行われており、一つの地域でその工程が完結する点は、他産地にはあまり見られない高岡銅器の大きな特徴です。
「高岡銅器」という名称ではありますが、真鍮や青銅などの銅合金以外に加え、アルミ合金・錫・鉄・金・銀など様々な金属も用途に応じて用いられています。
1975年には、国の伝統工芸品指定を受けました。
力強さと繊細さ、そしてしなやかさを併せ持つ造形は高岡銅器の大きな魅力であり、時間の経過とともに生まれる風合いの変化も楽しむことができます。
幹山伝七は、尾張瀬戸出身ながら京都で活躍した陶工で、加藤孝兵衛の第三子として生まれました。
幼名は繁次郎、のちに孝兵衛を襲名し、製陶においては「伝七」の名を用いました。
1863年(文久3年)には「幹山」または「松雲亭」と号し、加藤幹山として知られるようになりますが、1872年(明治5年)にはこれらを廃し、「幹山伝七」を正式な姓名としました。
はじめは彦根藩の御用窯である湖東焼に招かれて従事し、同窯の廃窯まで勤務。その後、1862年(文久2年)9月に京都・東山霊山へ移り、磁器製造を開始しました。京都において磁器を専業とした先駆者とされています。
作品には「幹山精製」「大日本幹山」などの銘を用い、特に「大日本」の表記は海外輸出を意識したものでした。また、明治天皇の御用品には特別に「幹山」や「幹山欽製」といった銘を高台内の縁に小さく記すことが許されていました。