井戸川豊(いどがわ ゆたか)は、東京都生まれの陶芸家であり、広島大学大学院人間社会科学研究科の教授としても活躍しています。
彼は、伝統的な技法を現代的な感覚で表現する作品で知られ、特に「銀泥彩磁(ぎんでいさいじ)」技法を用いた作品が特徴です。
彼の作品は、身近な野菜や植物をモチーフにしたものが多く、カイワレ大根、トウガラシ、アスパラガス、ホオズキなどが描かれています。これらのモチーフは、彼の作品に瑞々しさと生命力を与えています。
伝統と現代性を融合させた独自の美学を持ち、陶芸の新たな可能性を切り開いています。彼の作品に触れることで、日本の陶芸の深さと広がりを感じることができるでしょう。
古川隆久(ふるかわ たかひさ)は、益子焼の伝統を受け継ぎながらも、独自の感性で彩り豊かな作品を生み出してきた陶芸家です。
東京都に生まれ、東京藝術大学を卒業後、岐阜県の陶磁器試験所や栃木県の塙陶苑で研鑽を積みました。1973年には栃木県益子町に自らの窯を築き、本格的に陶芸活動を開始します。
1976年に、日本工芸会の正会員に認定されます。晩年には画家としても活動しており、表現の幅を広げていきました。
作風の特徴は、伝統的な益子焼の土味を活かしつつ、釉彩による優雅な絵付けで現代性を獲得した造形です。白釉上に描かれる筆跡は静謐である一方、色の勢いや構成には鮮烈な印象が宿ります。
伝統を受け継ぎつつ、若手作家による現代的な作品も多く、暮らしに寄り添う器として幅広い世代に支持されています。
大國 寿郎は、明治時代に生まれた鋳物師であり、龍文堂の名工です。
1856年に大國 柏斎の長男として生まれ、父親に師事しました。
大國家は大阪で代々続く鋳物師の家系で、江戸時代には大砲を鋳造し、のちに茶釜の製造を始めたとされています。明治時代に柏斎の代になると、鉄瓶も手掛けるようになりました。1925年のパリ装飾美術博覧会では一等を受賞し、当代随一の釜師として「京の大西、浪速の大国」と称されました。
寿郎は、鉄瓶に煎茶の趣向を取り入れた作風が特徴的で、特に花鳥風月や漢詩をあしらった作品は高く評価されています。
坂 高麗左衛門は山口県萩市の窯元で、坂窯の当主が代々襲名している陶芸家の名跡です。
坂家は、毛利元輝によって朝鮮半島から招かれた李兄弟の弟・李敬が、二代目藩主毛利綱広から名乗ることを許された事から始まります。その後も、二代目から七代目までは「助八」や「新兵衛」という通称を使用していましたが、八代目からは高麗左衛門と名乗っています。
十二代坂高麗左衛門は、従来の萩焼に自らが得意とする日本画の絵付けを施した作品を作るなど、新しい萩焼の形を生み出しました。また、歴代の高麗左衛門は温和な性格で人当たりがとても良い人物として知られています。
倒幕運動が起こった頃には、今まで援助をしていた窯に対して援助をとりやめる動きがありましたが、各地の会に出品して評価を上げ、徐々に知名度を上げていきました。
「一楽二萩三唐津」という言葉があるように、昔から茶人は萩の茶碗を好んで使用してきました。長く使用していく中で変化が生まれる事や、素朴な味わいが人気の理由と考えられます。
坂 高麗左衛門は襲名され続け、現在の十四代まで続いています。400年という長い歴史の中で、伝統を継承しながらも新たな作品を生み出し続けています。
和田 鱗司は、京都で三代続く竹芸師の家系で、唐物の籠などの茶道具を得意としています。竹の目が細かく、機能性と芸術性を兼ね備えた作風が特徴的です。
初代は京都に生まれ、和田鱗司と名乗って唐物の制作を行いました。しかし記録があまり無く、初代と二代目は生没年不詳となっています。
三代目鱗司は、初代の跡を継いだ二代目鱗司(修蔵)の四男で、幼少期から茶道具の制作に励みました。二代目の死去により、三代目としての名を継承し、現在まで活動を続けています。その作品は、初代から受け継がれた技術と精神を現代に伝える重要な役割を果たしています。
明治から昭和にかけて営業されていたと考えられる鉄瓶メーカー「光玉堂」は、京都を中心に品物を販売していました。
佐藤提という名人がおり、龍文堂や亀文堂に並ぶほどの丁寧な作りこみが特徴です。佐藤提の作品について、その特徴として挙げられるのが岩肌、そして丸形です。余分なものは一切無く、真摯に鉄と向き合い作品を作り続けた職人の姿が垣間見えます。
また一般的なものとは違った、獣口の物や象嵌入りも見つかっており、その造りは素晴らしいの一言に尽きます。特に銀象嵌や金象嵌の作品は数が少なく、見つかれば大変希少な品と言えるでしょう。