浅見 隆三(あさみ りゅうぞう、1904年9月26日 – 1987年7月23日)は、昭和時代を代表する日本の陶芸家であり、日展参事を務めた人物です。
京焼の名家である三代目・浅見五良助の次男として生まれ、祖父である二代目五良助のもとで育ちました。祖父からは、土造りや轆轤挽き、窯焚きなどの技術を学び、作陶の基礎を築きました。
浅見の作風は、中国宋時代の青白磁を基調にしつつ、現代的な感覚を取り入れた独自のものです。特に、象嵌技法や泥漿(でいしょう)による装飾が特徴的であり、これらの技法を用いて、抽象的でありながらも力強い作品を生み出しました。
彼の作品は、現在も多くの美術館や個人コレクションに所蔵されており、その革新的な作風と技法は、現代陶芸の重要な一翼を担っています。
おかや木芸は、島根県で1952年に創業された木芸品の工房です。
「日常生活で使うもの」をテーマに、伝統技術を用いながらも現代的なデザインをしているのが特徴です。
主に希少銘木の「黒柿」を用いた作品を手掛けており、原木の仕入れや製材、木材の乾燥、製作までの全てを自社で行っています。
40年ほど前におかや木芸を継いだ五代目・岡 英司は、「漆芸デザイナーの中村富栄と出会ったことで現代的なデザインに目覚めた。様々な黒柿の銘品を見て、島根の優れた木工品を継承していくべきだと感じた。
そして復刻を手掛けるなかで学んだ、かつての名工たちの苦労や工夫、制作のポイントがデザインを考える際に活かされている。」と話しています。
また、「手しごとのすばらしさ」をコンセプトにした店内ギャラリーや、木工の世界を身近に感じられるワークショップスタジオなども運営しています。
1956年、裏千家十五代汎叟宗室鵬雲斎の長男として誕生し、同志社大学文学部心理学科卒業後の2002年12月に鵬雲斎家元の跡を継ぎました。
今現在でも多種多様な活動を行っている玄黙宗室は、文筆家としての活動も盛んに出版作業を行っております。茶人としても多数の作品を展示しており、襲名から僅か半年の間に50点以上の作品や好み物を発表し、活発的な活動から様々な作品の製作意欲の高さを感じさせられます。
現在は若い茶道人の育成と、茶道文化を明確化することに力を注いでいます。
長次郎(初代 樂 吉左衛門)は、安土桃山時代に活躍した陶芸家で、「樂焼」の創始者として知られています。
樂焼のルーツは中国・明時代の三彩陶にあり、日本で三彩釉が流行し始めた頃、長次郎は既にその技術を持っていたとされています。
1574年には「二彩獅子像」を制作し、天正年間に茶人・千利休と出会います。
そして「わび茶」の理念に沿った、茶の湯に特化した茶碗制作に取り組み始めました。
これまでの茶碗とは一線を画す、素朴でありながら力強い美を追求し、その作品は当時の人々に新鮮な驚きを与えました。
樂焼は軟質施釉陶器といい、手捏ねやへら削りによる成形、黒釉や赤釉が特徴です。
長次郎の精神と技術は後世の樂家当主に受け継がれ、現在も茶道文化に深く根付いています。
加藤家は、名古屋城下の鋳物師の職人町である旧鍋屋町に四百年以上にわたり居を構え、江戸中期以降は尾張藩お抱えの釜師として名を馳せた名門です。
初代は尾張国東春日井郡守山村の出身で、鋳物師として藩主に招かれ清洲へ移住。その後、慶長16年(1611年)の名古屋城築城に伴い、名古屋市東区鍋屋町(現在の泉二丁目)に移りました。
五代目忠三郎の代から「御釜師」の称号を受け、代々尾張徳川家に仕えました。苗字帯刀や上下着用も許され、以降、世襲で加藤忠三郎を名乗り、現在の十三代に至ります。
代々受け継がれてきた伝統の意匠を感じさせる鉄釜や鉄瓶といった道具は、茶人をはじめ現在でも多くの人々に愛されております。
吉向十三軒は、江戸時代末ごろに大阪市で開窯し、現在八代まで続く陶芸家の名跡です。
初代・治兵衛は1784年に生まれ、京都の窯元にて初代・高橋道八や初代・清水六兵衛といった名手に師事しました。その後独立する際、人目に付きやすいという理由から大阪の十三村に開窯しました。
初代が三十三歳の時、依頼で徳川十一代将軍・徳川家斉に品物を献上しました。家斉は治兵衛の作品をいたく気に入り、結果として当時の寺社奉行・水野忠邦から「吉向」の窯号、そして金印・銀印をいただくなど、治兵衛にとって大きな転機となりました。
その後吉向窯は二代、三代、四代と続いてゆきます。四代には二人の子がおり、兄が「吉向松月」、弟が五代「吉向十三軒」を継ぐことで吉向窯は二家に分窯することとなりました。
五代・十三軒の血筋は当代の八代まで続いており、大阪府の東大阪市の陶房にて茶陶をおこなっております。歴史ある名跡の伝統を継ぎながらもモダンさを取り入れた作風は、多くの人を魅了しております。