表千家十代 祥翁宗左 吸江斎

表千家十代 祥翁宗左 吸江斎についてご紹介いたします。

主な功績としては、千利休の二百五十回忌を主催したことや、若くして家元を継承し、徳川治宝から茶の教わりつつ19歳の時に皆伝を授かるなど、若くから表千家を支えたことが挙げられます。

吸江斎は久田家七代 皓々斎宗也の次男として生まれ、表千家九代・了々斎の甥にあたります。
了々斎には嫡男がいましたが早世してしまい、了々斎もまたその2年後に病死してしまいます。そこで表千家は後継問題に直面することとなりました。

養子として表千家に迎えられた吸江斎は了々斎の亡き後、わずか8歳の齢にして表千家十代家元を襲名します

十歳になると、かつて了々斎も仕えた紀州徳川家十代藩主 徳川治宝に出仕し、1836年には治宝から真台子の点前の皆伝を受けるという異例の待遇を受けました。

吸江斎が幼少で家元を継いだため、皆伝は一時的に先代の了々斎から治宝に預けられていました。その後、吸江斎に返されたという経緯があります。

1839年には、二十歳前後にして千利休の二百五十回忌を主催します。この行事を通じて、利休の精神を後世に伝えることに貢献し、茶道文化の継承と発展に寄与しました。

この様に吸江斎は若くして千家の茶の湯を引き継ぎ、表千家の活動に精力的に取り組みました。

好み物としては、溜二重棚手付桐煙草盆などが知られています。

 

 

表千家九代 曠叔宗左 了々斎

表千家九代 曠叔宗左 了々斎についてご紹介いたします。

主な功績としては、十代藩主・徳川治宝の茶頭として仕え、紀州徳川家との深い交流から現在の表千家の表門を拝領したことや、代楽 旦入と共に紀州御庭焼の製陶に携わり、茶道具の発展に貢献したことなどが挙げられます。

 

了々斎は、久田家六代家元・挹泉斎宗溪の長男として生まれます。
表千家八代家元 啐啄斎が後嗣の男子に恵まれなかったため、了々斎はその婿養子となり、34歳の頃に表千家の九代家元を襲名しました
その時啐啄斎は60歳程の年齢であり、入れ替わる形で隠居の身となりました。

了々斎は紀州徳川家十代藩主・徳川治宝の茶頭として仕え、治宝から深い信頼と庇護を受けます。
治宝は歴代藩主の中でも特筆して茶道に深い造詣を持ち、了々斎の指導のもと、利休茶道の免許皆伝を受けるまでになります。

 

1819年(文政2年)には十代楽旦入と共に紀州御庭焼の製陶に携わり、他にも赤楽や黒楽の茶碗など、多くの茶道具を自ら制作しました
また、当時の千家十職のうち、楽家の楽了入や永楽家の永楽了全など、了々斎から「」の字を受けて名乗った職人もおり、その影響力の大きさがうかがえます。

晩年の1822年には、治宝を家元にむかえ茶事を執り行いました。了々斎は二条屋敷にあった武家門を拝領し、それが表千家の表門として今もなお、由緒ある門として表千家の風格を表しています。

了々斎の好み物としては、代表的なもので赤楽・黒楽茶碗が挙げられます。七代の如心斎に強い影響を受けていることから、自作の茶道具にもその精神性が反映されています。
手造 黒茶碗「長袴」という作品が残されており、手造りの筒茶碗は非常に珍しい作品となります。長男・与太郎の6歳の袴着の祝儀に際して作られ、「長袴」と命名されました。
 
他にも華やかな蒔絵を施した棗や打合盆など、了々斎の好み物の種類は多岐にわたります。

表千家八代 件翁宗左 卒琢斎

今回は表千家八代 件翁宗左 卒琢斎についてご紹介致します。

卒琢斎は表千家七代 天然宗左 如心斎の長男として生まれます。

功績としては、天明の大火から家元を復興させたことや、その後に利休二百年忌の茶事を執り行ったことが挙げられます。

卒琢斎は8歳という幼い齢で父如心斎と死別することになります。しかし、後見を受けた川上不白らの援助や、叔父の裏千家八代 又玄斎に師事することで、茶人として成長していきます。

14歳の頃に表千家を継承し、歴代と同じく、紀州徳川家の茶頭を勤めることになります。同年、卒琢斎は千宗旦百年忌の茶事を見事に成功させました。
彼は50年以上も代継ぎをした、歴代でも特に長い宗匠にあたります。

1788年、京都を襲った大規模な火災である天明の大火が起こります。
表千家の施設も天明の大火によって焼失したと言われており、伝来道具を除く、茶室や道具類の多くが被害に遭いました。
また、卒琢斎自身の資料もその際に失われており、火災が起こる前のおよそ30年間の活動履歴は残っておりません。

しかし卒琢斎は、父如心斎が確立させた家元制度のおかげもあり、多くの人から協力を得て火災から一年での復興を果たしました。

復興の後、すぐさま利休二百年忌の茶事を盛大に執り行い、災害の余波をものともせず精力的に活動していきます。
また他にも、宗旦百五十年忌如心斎五十年忌を行うなど、長い間家元ととして活動してきたからこそ大きな催しに多く携わることとなりました

60歳で家督を婿養子である九代 了々斎へと譲り、自身は隠居します。
その際、宗旦という三代と同じ名を名乗ります。この時から、表千家では隠居後に宗旦と名乗ることが慣例となったそうです。
 
卒琢斎の好み物としては、啐啄斎手造の赤樂の茶碗「慈童」が残されています。他には、溜真塗丸卓や丸香台利休や宗旦がかつて好んだ造りの茶室が挙げられます。

表千家七代 天然宗左 如心斎

今回は表千家七代 天然宗左 如心斎についてご紹介致します。

如心斎は表千家六代 原叟宗左 覚々斎の長男に生まれ、初めは宗巴や宗員と名乗ります。
弟には、裏千家七代家元の竺叟宗室 最々斎と同八代家元の一燈宗室 又玄斎がおり、それぞれ千家を継ぐ優秀な兄弟が揃います。

如心斎の残した功績としては、又玄斎らと七事式」と呼ばれる茶の修練に必要な七つの式作法を制定したことや、現在の茶道における家元制度の基盤を築いたことが挙げられます。

 

17世紀の終わりごろから江戸時代は中期に入り、武力にとって代わる、学問を中心とした政治が社会に泰平をもたらします。財政も安定し、産業や文化の発達と共に人々の暮らしもまた、次第に豊かになっていきました。

町人などの富裕層が広がるにつれ、茶道人口は増大していきます。そのような時代の流れの中、茶の湯を遊芸とする風潮が徐々に高まりを見せます。

そこで如心斎達は、茶の湯の間口を狭めることなく遊芸性を取り入れ、そして利休以来伝承されてきた教えも失われないよう、「七事式」でその二つを見事に両立させました

七事式はそれぞれ、「茶カブキ」、「廻り炭」、「廻り花」といった千利休の時代から伝わる3つの式と、「花月」、「且座」、「一二三」、「数茶」の新たに加えられた4つの式で成り立ちます。
七事式という名前の由来は、無学和尚が碧巌録の『七事随身』から用いて名付けたとされています。

「花月」に由来する「花月楼」と呼ばれる茶室は、七事式に最適な八畳床付の造りとなっており、稽古の実践の場として重宝されました。
その他に、大坂の豪商・鴻池了瑛が大徳寺玉林院に建造した茶室「蓑庵」は、特に如心斎好みのものとされています。

 

如心斎は亡くなる数ヶ月前、息子で後に表千家を継ぐ啐琢斎に宛てた「云置」という書き置きを残します。
そこには千家の後継者をより明確にし、象徴とした存在にさせるような、厳格な決まり事が記されていました。

これが家元制度の基盤となり、千家が確固たる茶の名家として存続していくことに繋がります。

また、表千家四代江岑宗左や五代随流斎がそうしたように、千家に伝来する茶道具や記録を整理し、極書を行いました。
こうした様々な活躍もあり、如心斎は千家中興の祖という名声を得ています。

如心斎の好み物としては、前述の「花月楼」や「蓑庵」といった茶室の他にも、ツボツボ大棗などの蒔絵を用いた棗が好み物として多く残されています

 

表千家六代 原叟宗左 覚々斎

表千家六代 原叟宗左 覚々斎についてご紹介いたします。

 

覚々斎は久田家三代家元 久田宗全の実子でありながら、表千家五代家元 良休宗左 随流斎の養子となり、18歳という若さで表千家を継いだ人物です。

実父の久田宗全は随流斎と兄弟の関係にあり、久田家が茶家として本格的に活動し始めた代の人物でもあります。彼もまた目覚ましい功績を残した御人です。

 

覚々斎は襲名前、宗員と名乗っておりました。随流斎が後嗣に恵まれなかったため、12歳の頃に養子として迎えられます。
しかし、そのおよそ二年後に随流斎は亡くなってしまいます。
その後、大徳寺の大心義統から禅を学び、叔父であり千宗旦の弟子であった藤村庸軒から薫陶を受けます。

18歳で正式に表千家を継承すると、紀州徳川家に仕官し、五代徳川頼方の茶頭を務めます。その頼方こそ「享保の改革」で良く知られる、江戸幕府 八代将軍 徳川吉宗になります。

享保8年(1723年)には吉宗より唐津焼の茶碗を拝領し、桑原茶碗」と呼ばれるそれは、覚々斎が残した茶道具の中でも特に有名です

覚々斎は吉宗に仕えた後、紀州徳川家六代藩主の徳川宗直に仕えます。
当時は参勤交代の制度があり、お供として覚々斎も江戸へと赴きました。
その時、吉宗の意を受けた側近の桑原権左衛門によって、覚々斎のもとに茶碗が届けられました。その桑原権左衛門にちなんで「桑原茶碗」と名付けられたそうです。

桑原茶碗は、茶碗の腰と高台が一体化している風変わりな造りになっています。それはまさしく、茶の湯に対する「自由」な姿勢を貫き続けた覚々斎本人を表しているかのようです。

その自由な考え方も当初は、批判の声が上がっていました。しかし、茶の湯を楽しむ心を重視する在り方は門下生を始め、次第に多くの人から賛同を得ることとなります。

また、覚々斎自身も手作りの茶碗を多く残しており、「流芳五十」と呼ばれる50口の赤茶碗と黒茶碗が存在します。中には樂家に焼かせた作品もあり、現在それらの作品は「樂美術館」や「表千家北山会館」にて拝見する事ができます。

 

覚々斎には、如心斎(表千家7代)竺叟宗乾(裏千家7代)一燈宗室(裏千家8代)といった、後に千家の家元となる子供が多く存在します。
彼らも多かれ少なかれ、覚々斎の影響を受けて育ったと言えるでしょう。

 

 

表千家五代 良休宗佐 随流斎

表千家五代 良休宗左 随流斎についてご紹介致します。

随流斎は表千家四代家元 江岑宗左 蓬源斎の養子にして、表千家五代家元となった人物です。
随流斎延紙ノ書』という自筆の茶書を残したことで有名ですが、彼自身についての記録は少なく、表千家の中でも謎が多い人物だとされています。

 

隋流斎は久田家二代 久田宗利千宗旦の娘・くれの間に生まれます。まだ幼い時に、江岑宗左の養子として迎えられました。
江岑は後嗣の男子に恵まれなかったため、後継者として妹の甥っ子に白羽の矢が立ちました。

初めは宗巴という名でしたが、後に江岑と同じように表千家が代々襲名する「宗左」を名乗ります。
しかし、随流斎は人偏を使う「宗佐」の方を好んで用いたため、「人偏宗佐」という異名で呼ばれることがあります。

義父の江岑は利休以来千家に受け継がれてきた茶の教えを筆録し、随流斎のためにも『千利休由緒書』や『江岑夏書』といった書物として残しました。

そこで随流斎自身もまた、叔父であり裏千家4代家元でもある仙叟宗室など、周りの知り合いから聞いた茶の湯に関する話を書きとめ、『随流斎延紙ノ書』という覚書を残しています。
過去の茶人にまつわる話や茶道具の話など、その詳細は表千家のホームページ(表千家 茶の湯 こころと美)にも一部取り上げられています。

 

他にも、『随流斎寛文八年本』や『随流斎寛文十年本』という書が残されており、そこには千少庵千道安に関する伝承がまとめられています。
その二人に関しても、残されている資料は少なく、大変貴重な記録だと言えます。

このように随流斎は、自らの足跡だけを残すのではなく、茶の湯界全体の歴史を後世へと残すことに尽力しました。その功績からは、どこか献身的な性格が窺えます。

随流斎は奇しくも、江岑と同じく後嗣の男子に恵まれなかったため、久田家三代 久田宗全の当時12歳だった長男(表千家六代 覚々斎)を養子にとります。
しかしその二年後、42歳という若さでこの世を去ってしまいました。

随流斎の好み物として伝わっているものは少なく、真塗の手桶水指竹尺八花入の他、黒茶碗赤茶碗の物が現在も残っております。

随流斎の残した箱書きの作品も少なくはなく、高く評価が付く場合がございます。

 

千道安

千利休の実子であり、「道安風炉」などで知られる千道安についてご紹介致します。   道安は天文15年(1546年)、千利休と三好長慶の妹である宝心妙樹(お稲)の間に長男として生まれます。初名は紹安。 母の宝心妙樹 …

千少庵

千小庵についてご紹介致します。 少庵を養子として迎えた父の千利休、実子であり三千家の祖となった千宗旦、その二人と比べると少庵は知名度も乏しく目立つような功績も多くはありません。 しかし、実は彼の尽力によって千家が現存して …

千利休(千宗易)

今回は日本史によく登場する千利休(千宗易)について、経歴と共に彼が茶道史にどのような影響を与えたのかを紹介いたします。 千利休は16世紀、名だたる戦国武将が群雄割拠していた時代において、「茶の湯(わび茶)」を大成させた茶 …