小松 幸清は、木工の茶道具を専門とした作家です。
彼は、1931年に生地師の家に生まれました。
幼い頃から父親の厳しい指導を受けて育ち、その父親が亡くなると、二代目幸清を継ぎました。
独自の方法で、主に「黒柿 神代杉」などを使った茶道具を制作しました。
代表的な玄々斎好写の作品は、『蜑小舟香合』です。
蜑小舟(あまおぶね)とは、海で魚や貝などの漁をする小舟のことです。
上部は皮付きのままで、舟形のまわりは紅溜塗に千鳥蒔絵が施されています。
朱漆で「雪能花月裳清見屋田子浦」(雪の花月も清見や田子の浦)という漢字の俳句が書かれています。
彼の作品には、木がもつ本来の美しさを活かしたものや、上品な光沢感のある漆塗りに蒔絵が施された、玄々斎好の写しなどがあります。
南部吉英は、富山県南砺市(旧井波町)出身の漆芸家です。
家業は塗師屋(漆塗師)で、彼はその四代目にあたります。若い頃には 陸軍工科学校 に進学するなど異色の経歴を持ち、戦時中の教育を経て復員後に地元・井波に戻り、家業を継ぎました。
戦後は伝統的な塗師屋の仕事だけでなく、日展や現代工芸展などの美術展にも積極的に出品し、「漆は芸術の世界でしか生きていけない」と語った通り、漆=伝統工芸 から 漆=現代美術 への転換を体現した作家です。
彼の作品には漆絵額やパネルなどがあり、井波漆の伝統を土台に、独自の造形を追求しました。
永楽妙全(えいらく みょうぜん)は京都の女性陶芸家です。
千家十職のひとつである土風炉師・焼物師である十四代永楽善五郎(得全)の妻として永楽家を支えた人物として知られています。
明治維新後の茶道衰退期という困難な時代に夫の得全とともに永楽家を支えました。得全が早くに亡くなった後も彼女は家業を守り続け、十五代となる甥・正全の育成に尽力するなど永楽家の存属に大きく貢献した人物です。善五郎の名は襲名しませんでしたが、その技量と作品への評価は非常に高く得全と並び称される存在です。
作風は夫の得全が雄渾な赤絵を得意としたのに対し、女性らしい優美で雅な世界観が特徴とされています。
彼女は三井家などからの支援も受け1914年に三井高棟より「妙全」号を拝領しました。困難な状況下で家業を守り抜き、優れた作品を数多く残した永楽妙全は、十四代の妻としてではなく独立した一人の陶芸家として現代でも高い評価を得ています。
横山蘭畝は、昭和期に活動した琴古流尺八奏者・尺八製作者です。
製管は父の横山篁邨から習い、演奏は篁邨と福田蘭童に習いました。
また、昭和後期に人気を集めた製管師・横山勝也氏の父でもあります。
戦時中は、航空隊の特攻隊員に向けて自作曲「英霊に捧ぐ」を演奏されたことで知られております。
製管数が多い方ではなく、昭和期の作家であることから二次流通市場ではアンティーク的な人気を獲得しております。
鉄隕石(ニッケル隕石)とは、鉄とニッケルを主成分とする隕石の一種です。
ニッケル隕石は太陽系ができた約40億年前にできたとされています。ウィドマンシュテッテン構造という、鉄とニッケルの合金がかなり時間をかけて冷却されたことで形成される、特徴的な模様です。この模様は鉄とニッケル以外の地球上にはない物質も含まれて生成されている為、ほぼ再現が不可能とまで言われています。その為、錆の有無などの保存状態が良好かつ大きさが伴ってくる鉄隕石は数少ない為、希少性が高く注目度も高い傾向にあります。
井戸川豊(いどがわ ゆたか)は、東京都生まれの陶芸家であり、広島大学大学院人間社会科学研究科の教授としても活躍しています。
彼は、伝統的な技法を現代的な感覚で表現する作品で知られ、特に「銀泥彩磁(ぎんでいさいじ)」技法を用いた作品が特徴です。
彼の作品は、身近な野菜や植物をモチーフにしたものが多く、カイワレ大根、トウガラシ、アスパラガス、ホオズキなどが描かれています。これらのモチーフは、彼の作品に瑞々しさと生命力を与えています。
伝統と現代性を融合させた独自の美学を持ち、陶芸の新たな可能性を切り開いています。彼の作品に触れることで、日本の陶芸の深さと広がりを感じることができるでしょう。