河井創太(かわい そうた)は、 曽祖父に 河井寛次郎 を持つ、民藝運動や用の美の精神を現代へと受け継ぐ流れの中で活動している陶芸家です。
彼は民藝運動で重要視されていた「用の美」「普段使いの美」「手仕事の誠実さ」を重んじる精神を持ち合わせ、その理念をただ模倣するのではなく、現代での美意識・日常性を見つめ直した形で受け継いでいます。
また、曾祖父である寛次郎の作風を受け継ぎつつも、そこから現代の美意識を反映させた独自の世界観を展開しています。
主な作品は「呉須」「辰砂」「灰釉」などの釉薬を用い、登り窯で焼成されています。これにより、素朴でありながら格調高い質感を持つ茶碗や花器、陶彫、酒器などが作陶されます。
作家活動も個展を中心に、自身のペースで制作し発表を重ねており、派手さよりも“内側にある美”を追求している作家だと言えるでしょう。
1907年に満州大連市で生まれた喜多村氏は、小学4年まで大連で過ごした後、父の転勤で日本に移り住み、そのまま京都の小学校を卒業します。その頃、学校近くに居を構えて活動していた鹿子木孟郎の写生する姿に強く憧れを覚え、彼は画家を志すようになります。
中学卒業後は、美校受験のために川端画学校へ入学し、東京美術学校を受験するも惜しくも合格を逃してしまいます。それでも諦めず独自の画風を研鑽し続け、1930年、22歳の時に若くして帝展初入選を果たします。
以降、様々な展示会への発表と修練を積み重ね、独自の色遣いと表現方法を確立していきました。
一見すると、喜多村の作品は抽象性を帯びているかのように感じられますが、それは彼自身心で直に感じたものを、その大胆な筆触でありのままに描き出しているからだと考えられます。
その心根が伝わってくる作風こそ、魅力だと言えるでしょう。
高光崖は石川県の伝統工芸である九谷焼の陶芸家であり、「九谷光崖窯」の初代として知られる作家です。
彼は特に金を用いた上絵付の技法である金襴手(きんらんで)に秀でており、その中でも極細密金襴手の第一人者として有名です。
1945年頃、九谷焼の金襴手技術が発展した石川県小松市高堂趙に窯を開き「すべて手作り手書きを基本とする」という伝統精神を確立し、市販の金粉を使用せず、金箔から独自の金粉を精製するなど徹底した手仕事にこだわったことで知られています。
彼の作品は緻密に施された豪華絢爛な金彩を背景に人物や風景、花鳥などのモチーフが鮮やかな色絵で極細密に描かるのが特徴です。その卓越した技術と柔らかな輝きを放つ金彩の芸術性は、現代の九谷焼においても高く評価されています。
小松 幸清は、木工の茶道具を専門とした作家です。
彼は、1931年に生地師の家に生まれました。
幼い頃から父親の厳しい指導を受けて育ち、その父親が亡くなると、二代目幸清を継ぎました。
独自の方法で、主に「黒柿 神代杉」などを使った茶道具を制作しました。
代表的な玄々斎好写の作品は、『蜑小舟香合』です。
蜑小舟(あまおぶね)とは、海で魚や貝などの漁をする小舟のことです。
上部は皮付きのままで、舟形のまわりは紅溜塗に千鳥蒔絵が施されています。
朱漆で「雪能花月裳清見屋田子浦」(雪の花月も清見や田子の浦)という漢字の俳句が書かれています。
彼の作品には、木がもつ本来の美しさを活かしたものや、上品な光沢感のある漆塗りに蒔絵が施された、玄々斎好の写しなどがあります。
南部吉英は、富山県南砺市(旧井波町)出身の漆芸家です。
家業は塗師屋(漆塗師)で、彼はその四代目にあたります。若い頃には 陸軍工科学校 に進学するなど異色の経歴を持ち、戦時中の教育を経て復員後に地元・井波に戻り、家業を継ぎました。
戦後は伝統的な塗師屋の仕事だけでなく、日展や現代工芸展などの美術展にも積極的に出品し、「漆は芸術の世界でしか生きていけない」と語った通り、漆=伝統工芸 から 漆=現代美術 への転換を体現した作家です。
彼の作品には漆絵額やパネルなどがあり、井波漆の伝統を土台に、独自の造形を追求しました。