佐野寛は昭和期から現代にかけて活動した日本の金工作家です。
1950年(昭和25年)に名古屋市立工芸高校金工科を卒業後、安東七宝店に入社しました。1953年(昭和28年)からは人間国宝の金工作家・関谷四郎に師事し、彫金や金属造形の技術を深めます。
金属素材の質感を生かした造形に七宝による色彩や七宝象嵌などの装飾を取り入れ、伝統の技法に基づきながら現代工芸としての表現を追求しました。人間国宝の関谷四郎に師事して修得した彫金や鍛造、打出しなどの伝統的な金工技法と、安藤七宝店で培った七宝技法を融合させた点に特徴があります。
新工芸家連盟の会長を務め、佐野工芸研究所を開いて後進への技術継承や指導なども行いました。自身の制作のみならず、現代工芸の発展と普及にも携わる作家です。
レオナルド・ウェーバーは、20世紀に活躍したアメリカ出身の風景画家です。
ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで絵画を学んだ後、長年にわたり美術教育に従事しました。その過程で日本の水墨画からインスピレーションを受け、都市や街並みの景観を横長の構図を用いて描く作風を確立しました。
世界各地の都市や自然景観を題材とし、繊細な筆致と淡く透明感のある色彩を用いて表現しています。精細な色調と奥行きのある空間構成を組み合わせることで、対象となる地域の空気感や空間の広がりを緻密に捉えた水彩画や版画作品を展開しました。
1995年以降は幾度となく来日し、開催された展覧会で人気を博しました。葛飾北斎を深く敬愛していることでも知られ、来日時には横浜の風景をはじめとする作品を数多く制作しています。
荒木 十畝(あらき じっぽ)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本画家です。現在の長崎県に生まれ、後に帝室技芸員にも選ばれる荒木 寛畝に師事し、後に養嗣子となりました。
伝統的な画法に基づく精緻な花鳥画を得意とし、官展を中心に作品を発表しました。画業前期にはその鮮やかな色彩が特徴的ですが、次第にぼかしの技法や光・影による空気感を取り入れ、深みのある空間表現を確立しました。伝統的な型を守りつつ、静寂や東洋的な精神性を感じさせる画風へと深化させていった点が特徴です。
日本画会の創立に参加したほか、文展や帝展の審査員、女子高等師範学校の教授などを歴任し、1937年には帝国芸術院会員に選出されました。東京画壇の重鎮として、後進の指導・育成にも尽力した人物です。
楽得入(らく とくにゅう)は、江戸時代中期に活躍した京都の陶工で、千家十職の一つである樂家の八代当主です。
七代長入の長男として生まれ、1762年(宝暦12年)に家督を継ぎ八代・楽吉左衛門を襲名しました。しかし病弱であったため1770年(明和7年)に弟・九代了入に譲り隠居、1774年(安永3年)に亡くなります。「得入」の号は没後におくられたものです。
父・七代長入の作風の影響を受けながら、楽焼の伝統を受け継いだ若々しい作が特徴的です。独自の繊細な感性が表現されており、丁寧な高台の削りなどに技術的な特徴が見られます。
早世のため作陶できた期間が極めて短かったことから、歴代の楽家当主の中でも現存する作品が非常に少ないことで知られています。
楽長入(らく ちょうにゅう)は、江戸時代中期に活躍した京都の陶工で、千家十職の一つである樂家の七代当主です。
六代左入の長男として生まれ、1728年(享保13年)に七代・楽吉左衛門を襲名しました。1762年(宝暦12年)に家督を八代得入に譲って隠居し、以降「長入」と号しました。
大振りで重厚な作品が多く、おおらかさを感じる作風が特徴です。黒楽茶碗では艶やかな漆黒釉が、赤楽茶碗においては、独自の白みが残る釉や細かい貫入を用いるなどの特徴が見られます。今日、初釜で使われる嶋台茶碗(金と銀の箔を施した大小二つの茶碗が一対となった重ね茶碗)は当時の表千家七代如心斎が長入に作らせたものが広まったという説もあります。
また、歴代楽吉左衛門の中でも特に彫塑に秀でており、茶碗にとどまらず香合や置物、花入、敷瓦など造形において優れた作品を残しています。
楽宗入(らく そうにゅう)は、江戸時代中期に活躍した京都の陶工で、千家十職の一つである樂家の五代当主です。
京都の呉服商・雁金屋三右衛門の子として生まれましたが、四代一入の養子となり、1691年(元禄4年)に五代・楽吉左衛門を襲名しました。画家・陶芸家として知られる尾形光琳・乾山兄弟とは従兄弟の関係にあたります。1708年(宝永5年)に婿養子の六代左入に家督を譲って隠居し、以降は「宗入」と号しました。
従兄弟たちの華やかな作風とは異なり、初代長次郎への回帰を追求した、装飾性をそぎ落とした侘びの思考を感じられる作品が多く残されています。「カセ釉」と呼ばれる、光沢を抑えた独特の黒釉を用いた重厚な黒楽茶碗を得意としました。
さらには楽家の系図や歴史をまとめた重要な史料「宗入文書」を書き残すなど、楽家の伝統と伝承の確立にも大きな足跡を残しました。