森狙仙は、江戸時代後期に大阪で活躍した絵師です。狩野派や円山派を踏襲した写実を基調とする独自の画風によって知られています。はじめ、勝部如春斎について狩野派の技術を学び、如寒斎と号しました。天明4年(1784年)師の如春斎が没するあたりから、沈南蘋や円山応挙の影響を受けて画風を変え、写実を重視するようになり、猿画の名手として評判が高くなったと考えられます。猿をはじめとする動物画を得意としていました。柔らかな体毛の質感を表現や、生命感に満ちた動物たちの表現、現代においても高く評価されています。
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前田昭博は「白磁」で国の重要無形文化財に認定された陶芸家です。
1954年に鳥取県に生まれた前田昭博は、小学校2~3年生の際に学校の教員をしていた父が木版画を始め、その後ろ姿を見てモノを夢中になっているところがうらやましいと感じるようになり、その頃から図画工作が好きになり、高校では美術部に入り、大阪芸術大学に進学後は陶芸専攻するようになりました。大学では先生が大きな土の塊と格闘していることに感動をし、そこで白磁を初めて制作し、その白さに感動したとのことです。大学を卒業後は、故郷である鳥取県にて納屋を改造して窯を築き、作陶を初めていきました。
その後は1979年に日本陶芸展に入賞したことを皮切りに数々の賞を受賞し、その功績が称えられ、2007年には紫綬褒章を受章、2013年には「白磁」にて国の重要無形文化財に認定されました。
前田昭博の作風として簡素的でありながら形の美しさや存在感と品格を意識した作陶により今後も人々を魅了し続けるのではないでしょうか。
現代フランス画壇を代表し、日本と繋がりが深い画家としても知られている人気作家といえば、カシニョールでしょう。
1935年にパリに生まれたカシニョールは父親が高級衣服店を経営していたこともあってか、幼少期よりモデルの女性たちと過ごしていたそうです。そういった経験からカシニョールの作風を代表する優雅で艶美な女性をモチーフとした作品が生まれていったのではないでしょうか。
13歳の時にはドーヴィルの海岸で砂の芸術コンクールに参加して一等賞になるといった功績を残し、新聞で報じられたりしました。そういった功績から10代の頃には画壇で活躍するようになり、24歳の時にはフランスで毎年秋に開催されている「サロン・ドートンヌ」の会員に推挙されるほどでした。
来日経験も豊富で、女優の黒柳徹子には前述の砂の芸術コンクールのエピソードも笑いながら話したりしていたとのことです。また、1990年代にはボリジョイ・バレイ団の衣装と舞台装置の制作も手掛けるなど新しい分野にも挑戦しているカシニョールの作品は、とても人気の高いものとなっております。
(初代)宮川香山は1842年、京都の真葛ヶ原に陶工・真葛宮川長造の四男として誕生します。幼名は虎之助。
19歳(1861)の時に父と兄を亡くし、陶工の家を継ぐことになった虎之助は生前父が朝廷用の茶碗等を制作していた際に「香山」の称号を受けていたため、虎之助は初代、香山を名乗り、父の得意としていた色絵の陶器や磁器の作陶を始めました。
香山の腕前は評判を呼び25歳(1867)の時には幕府から御所献納の品物を依頼されるほどとなります。29歳(1871)の時に薩摩の御用商人である梅田半之助、実業家の鈴木保兵衛に招かれ翌年、30歳(1872)の時に横浜に輸出向けの陶磁器を作る工房として真葛窯を開きます。
しかし、当時の関東地方には陶磁器の土が無く、有名な窯が京都や中国地方に集中していたため、かなりの苦労を伴うこととなりました。この頃、香山は輸出用の薩摩焼を研究しいくつもの作品を制作。「真葛焼(横浜焼)」と名付けて輸出しましたが、薩摩焼は金を多量に使用し、多額の資金を必要とするため、作陶が困難となり、「高浮彫(たかうきぼり)」という新しい技法を生み出します。これは金を使用して表面を盛り上げる薩摩焼の代わりに、彫刻を彫り込むことで表現する技法で、薩摩焼に変わる新しい技法を生み出しました。
彫刻による精密な表現が必要となるため、香山は庭に鷹や熊を飼育し、より精密な表現を追求しました。
35歳(1876)の時にフィラデルフィア万国博覧会に高浮彫の真葛焼(横浜焼)を出品すると多くの国に絶賛され、宮川香山の名を世界に知らしめました。
55歳(1896)の時に帝室技芸員を拝命します。
帝室技芸員となった香山ですが、高浮彫は生産が難しいだけでなく、細部にこだわるほどに完成まで何年もかかるという生産効率の低さが問題となり、生産効率を上げるために、香山の作風は以後一変します。
真葛窯の経営を二代目となる養子の宮川半之助(二代目宮川香山)に任せ、自らは清朝の磁器を元にした釉薬、釉下彩の研究を重ね、その技法を身に着けました。この技法のおかげで、新たな魅力を得た真葛焼は生産効率も上がり、輸出産業の主役の一つとして持てはやされました。
1916年、逝去。75歳でした。
初代、宮川香山の死後、二代、三代と受け継がれましたが、1945年の横浜大空襲により、窯は閉鎖され、四代目香山の復興もむなしく、真葛焼(横浜焼)香山の歴史の幕は閉じられました。このような歴史的背景もあり、真葛焼(横浜焼)は「幻のやきもの」と称されました。
ジャンセンは1920年アナトリア(現在のトルコ)にて生まれました。父はアルメニア人、母はトルコ人と当時のオスマン帝国の情勢では非常に危うい立場でした。家族は危険な故郷を離れ、ギリシャに移り、その後フランスへと渡りました。
フランスで過ごす中でジャンセンは画家にになることを決め、パリの装飾美術学校の他、デッサン学校やアトリエで絵について学んでいきます。
1939年以降はフランスを代表する美術展であるサロン・ドートンヌ展を始め、多くの展覧会に出品しています。1950年代からは定期的にイタリアを訪れ制作を行いました。その実力が認められ、1960年代には世界各地で個展を開くようになります。2002年にはアルメニア正教会1700年記念として、アルメニア国立美術館にて「虐殺展」を開催し、アルメニア国家勲章を受章し、2003年にはフランスの最高勲章 レジオン・ドヌール勲章の受賞をするなど世界に認められた作家の一人です。
ジャンセンの作品は、自らの目で対象を見て、ありのままの姿を描いた作品で、デッサンを重視しています。線画家であったジャンセンの作品は、彼の目に映る世界をそのままに映し出しています。
主なシリーズ作品は、バレリーナ・ベニス・闘牛・マスカラード(仮面舞踏会)・虐殺と多くのシリーズものを残しています。
日本でもジャンセンの評価は高く、1993年には長野県にある安曇野にジャンセン専用美術館がたてられています。
クリスチャン・ラッセンはアメリカのカリフォルニア州、海沿いの町であるメンドシーノ出身の画家です。
ラッセンが11歳の時にハワイ・マウイ島へ家族で移住し、1976年より作品を発表します。幼少のころハワイに移り住んだラッセンは海の魅力に魅せられ、海・イルカ・自然への愛情を膨らませました。
ラッセンの作風はハワイの海中風景やイルカなどの海洋生物を主要なモチーフとして、南洋の自然観を鮮やかな色彩の画風で描き、「マリンアート」と称されます。その作品は安価な版画やリトグラフ、ジグソーパズルとして大衆的人気を得ました。特に日本ではバブル期に一世を風靡し、大きな知名度を持つ作家となりました。
1990年頃からは環境保護活動を行っており、作品の収益の一部を環境問題に投じるなど、自身の愛した自然への孝行的な一面も見られます。