「川之邊一朝」は幕末から明治時代の幸阿弥派の伝統的な蒔絵を伝承した蒔絵師です。
「川之邊一朝」の代表作品として11年もの歳月を費やして完成させた超大作「菊蒔絵螺旋御用棚」があります。
「川之邊一朝」は幼児期より書籍を好み書籍に親しみ書籍の模写をしていました。
その姿を見た両親は蒔絵師にしようと考えました。
その後、「川之邊一朝」が12歳の時に徳川将軍家細工所棟梁幸阿弥因幡長賢の仕手頭である武井藤助に入門を勧められて通い弟子になり修行を重ねました。
「川之邊一朝」は21歳で独立した際に初めて一朝と名乗ります。
その2年後には徳川家の蒔絵方となり文久1年に婚礼調度に携わる等の活躍致しました。
明治維新直後は、幕府が滅亡し辛酸をなめましたが北上する旧幕府脱走兵の韮山笠40~50個に金粉を蒔絵したり横浜貿易のハンカチ箱や食卓、花瓶等に蒔絵を施して生活をし飢えや空腹を凌いだとのことです。
その後は、明治6(1873)年のウィーン万国博「富士十二景蒔絵書棚」出品。
第1回内国勧業博覧博・花紋賞、第2回内国勧業博覧博・妙技賞、明治33年にはパリ万国博覧博・名誉大賞等の内外の博覧会で活躍しております。
11年もの歳月を費やした御一聖一個の書棚(菊蒔絵螺旋書棚)は明治36(1903)年に完成させます。
その功績を高く評価された「川之邊一朝」は漆工会の発展に貢献したとして正六位の位階を受けております。
明治43(1910)年、81歳で没し、良隠院探微一朝日充居士として今戸の妙高院に葬られました。
骨董品・古美術の作家一覧
河井 寛次郎
「河井寛次郎」という名をみなさん聞いた事はありますか?
大正・昭和にかけて京都を拠点に活動した日本を代表する陶芸家の一人が「河井寛次郎」さんです。
河井寛次郎氏は島根県に生まれ中学生のころから陶芸家を目指していました。
その夢を叶える為に東京高等工業高校(現東京工業大学)窯業科に進学し、その後、京都市立陶器試験場に入所しました。
後に共に民藝運動を行う「濱田庄司」氏とは東京高等工業高校では寛次郎氏が2学上の先輩として出会い、その後の京都市立陶器試験場では同僚として、共に釉薬の研究に切磋琢磨してお互いを磨き上げていきました。
京都市五条坂に工房「鐘渓窯」を住居とともに構えた河井寛次郎は東洋古陶磁の技法を使った作品を初めての個展で発表し大変好評を博しますが、次第に自らの作陶に「このままで良いのか?」と疑問を抱き始めます。
追い打ちをかけるように疑問を抱き始めたと同じタイミングで柳宗悦から酷評を受けさらにその考えに拍車がかかりました。
その後、その疑問は濱田がイギリスから持ち帰ったストリップウェアという陶器を見た事で解消への一歩を踏み出します。
それが日用の器に自分の進む道を見出した事です。
それより、河井寛次郎の作品は一変し、暮らしに溶け込む「用の美」といった作品を多数生み出していきました。
第二次世界大戦で一時作陶を中断しますが大戦後に作陶を再開した時には、大戦の経験を糧に生命感にあふれた力強い作品や、不思議な造形を手掛ける等の新たな美の作風の作品を作り出していきました。
河井寛次郎氏のその芸術性は国内のみならず海外でも高く評価され、人間国宝や文化勲章の授与等もありましたが辞退し、一陶工として焼き物に生涯向き合い続ける事を選択しました。
現在、東山五条に河井寛次郎記念館が建てられています。
酒井 抱一
「酒井抱一」は江戸琳派を代表する絵師で俳人の一人です。尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風と俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻弄したことでとても人気となり、江戸時代琳派の祖となった人物です。
酒井抱一は、1761年、姫路藩主・酒井忠恭の孫として神田小川町に生まれました。彼が生まれた酒井雅楽頭家は、代々文芸を重んじる家柄であったため、幼いころから芸術に親しむ環境にありました。
37歳の時、抱一は西本願寺にて出家し、その後、権大僧都となりますが、間もなく職を辞し、下谷根岸に「雨華菴」を構えて、書画や俳諧に親しむ生活を送るようになります。
49歳の頃には、雨華菴にて谷文晁をはじめとする文化人たちと交流を深め、見識と人脈を広げていきました。
酒井抱一の功績は非常に多く、特に知られているのは、尾形光琳に私淑し、その画風の再興に尽力したことです。1815年には、光琳の百回忌を記念して《光琳百図》および《尾形流略印図》を作成し、1823年には《乾山遺墨》を刊行するなど、琳派の継承と発展に大きく貢献しました。
酒井抱一の画風は情緒的でありながら洒脱な画風をしています。
画業の始まりは狩野高信から狩野風を学んだことから始まり、琳派の装飾的な技法を受け継ぎつつ、宋紫石について沈南蘋の写生画風、歌川豊春から浮世絵、さらに土佐派・円山派の技法の習得、伊藤若冲の技法も積極的に取り入れる等の多数の技法を習得し、独自の画風を確立していきました。
ロイヤルコペンハーゲン
デンマークの陶磁器メーカーであるロイヤルコペンハーゲン(Royal Copenhagen)は、正式名称「ロイヤル・コペンハーゲン陶器工房」と言います。1775年にデンマーク国王保護のもと創立しました。
絵付けは全て手書きで、製品の裏側にはロイヤルコペンハーゲンのマークとアーティストのサイン、シェーブナンバーが入れられています。
マークは王冠と三本の鮮かなプルーの波型ラインで構成され、波線は、デンマークを囲む3つの海峡を現し、その上に王室御用達を意味する王冠が輝きます。
当初はデンマーク王室に製品を納入する唯一の会社でした。食器類のほか、人形などの置物類も販売しています。
古くから日本の古伊万里染付の影響を強く受けており、手描きによるコバルトブルーの絵柄が特徴的です。1868年から制作されている下絵の手描きのブルーバターン「ブルーフルーテッド」はベストセラーのひとつになります。またブランドの特徴である唐草模様パターンとレース技術は繊細で格調高く、世界中で愛されており、中でも特に日本人の人気を集めています。1908年以来欠ける年なく続いているイヤープレート(クリスマスプレート)も人気商品のひとつです。
青木 木米
青木木米は、江戸後期の陶工,南画家です。
京都祇園の茶屋「木屋」に青木左兵衛の子として生まれました。俗称は八十八、縮めて米と称し、屋号の木を取ってあわせ木米と名乗りました。字は佐平、号は九々麟・百六散人・古器観・聾米などがあります。
幼少時から文雅の道に興味を抱き、諸々の老大家とすでに交遊をはじめ、文政3(1820)年4月には自伝をまとめています。それによると,本来は陶工ではなく、文人墨客の家で古器を観賞することを趣味としていたといい、大坂の代表的文化人木村蒹葭堂の書庫で清の朱笠亭が著した『陶説』を見て陶工たらんことを心に期したとあります。
奥田頴川(おくだえいせん)を師とし、享和年間(1801~04)にはすでに陶工として世にその名が聞こえていたと言われています。
加賀前田侯の招きで九谷焼を再興し、作陶の指導,文人陶工として一家をなしました。
1824年(文政7)彼が58歳の頃、作画や作陶がもっとも円熟した時期に耳が不自由になり聾米(ろうべい)の号を使い始めました。南画では、東京国立博物館に展示している『兎道朝暾図(うじちょうとんず)』や『新緑帯雨図』『騰竜山水図』などが有名です。
三代 徳田 八十吉
三代徳田八十吉は、昭和から平成にかけて活躍した九谷焼の陶芸家です。
初代徳田八十吉の孫として生まれ、金沢美術工芸大学短期大学工芸科陶磁専攻を中退してからは祖父である初代と二代目に師事し作陶を学びました。1988年に三代目を襲名してからは、国際陶芸展でグランプリ受賞や日本陶芸展で出品した「創生」がグランプリ秩父宮賜杯受賞など多くの功績を残しました。1997年に「彩釉磁器」で人間国宝に認定されます。
従来の山水画や花鳥図を作品に描く九谷焼とは違い、色の配色によるグラデーションのみで作品を仕上げる「彩釉」という技法を生み出しました。発色を良くする為に一般的な焼成温度よりも高い温度で焼成を行うのも特徴のひとつです。形も多種多様あり、一般的な花瓶の形状から幾何学な印象を受ける多面的な作品も手掛けます。
青や緑の美しい色合いや独創的な形状の作品は、日本だけでなく海外からも多くの支持を受けております。
先崎 栄伸
先崎栄伸(せんざき えいしん)は、昭和初期にその頭角を現した仏像彫刻家です。わずか18歳にして帝展入選という快挙を成し遂げるほどの腕前は、当時の人々にも驚かれました。その後も文展や日展、正統木彫家協会展などで数々の受賞歴 …
東郷 青児
戦後日本の洋画界において、その独特な美人画で存在感を示した画家・東郷青児。対象を大きくデフォルメし、淡い色彩と柔らかな輪郭線で描かれる女性像は、従来の美人画の常識を大きく崩すものでした。 東郷青児(本名・鉄春)は1897 …
林 恭助
天目茶碗の最高峰とされる「曜変天目」。黒の器に散らばる虹色の輝きはとても美しく、古くから多くの日本人を魅了してきました。作られたのは中国・南宋時代、しかしその記録は無く、詳細は謎に包まれています。世界に存在する完全なもの …
藤原 雄
藤原雄は人間国宝にも認定された備前焼の名工です。 1932年、父・藤原啓も備前焼人間国宝に認定されている陶芸家一族に生まれます。しかし生まれつき視力が非常に弱く、左目はまったくみえなかったといいます。ですが、父・啓の教育 …
笹倉 鉄平
笹倉鉄平は兵庫県出身の、1990年にデビューした風景画家です。 「光の情景画家」と称され、柔らかな筆致で描き出される情景とパステル調の幻想的な色合いは、日常の一コマへ物語を与え、観る者を引き込むような作品となっています。 …
島岡 達三
島岡達三は「縄文象嵌」の人間国宝となっている益子焼の陶芸家です。 1919年に東京愛宕の組紐師である父の元に生まれますが、高校生時代に訪れた日本民藝館で、濱田庄司や河井寛次郎の作品に惚れ込みます。こうして陶芸家になること …
藤田 喬平
藤田喬平は、日本のガラス工芸の第一人者として活躍した人物です。 1921年に東京・新宿に生まれ、東京美術学校に入学し、当初は彫金を学んでいました。しかしガラスの美しさに魅せられ、ガラス工芸家へと転向します。1947年に岩 …
隠崎 隆一
隠崎隆一は長崎出身の備前焼作家です。グラフィックデザイナーから陶芸家に転じるという異色の経歴をもつ人物ですが、その独創的な作品は高い評価を受けています。 隠崎は1950年に長崎県の福江市に生まれ、大阪芸術大学にてデザイン …
鯉江 良二
鯉江良二は愛知県常滑市の陶芸作家です。アルバイト中の事故で、右手の指を2本失うというハンデを抱えながらも、精力的に制作に取り組み続け、その独創的な発想で、従来の焼き物の枠組みを超えた自由な作風が特徴となっています。 青年 …
金重 陶陽
ここでは、備前焼と金重陶陽の作品の特徴について説明します。 備前焼の土は大きく分けて干寄せとよばれる田土と山土があり、田土の特徴としては粘りが強く可塑性が高い土として知られています。 水田を3mほど掘ると出てくる黒い …
入江 光人司
ここでは入江光人司の作品についてご説明します。 備前焼で主に宝瓶(ほうひん)を制作している数少ない作家です。 宝瓶とはお茶を入れる急須の一種であり、取っ手が無いので片手で両端を持ってお茶を注ぐ茶器のことです。 入江氏の作 …
酒井田柿右衛門
ここでは、酒井田柿右衛門の伝統と作品の特徴についてご紹介致します。 17世紀に酒井田喜三右衛門が赤絵の焼成を成し遂げ、初代酒井田柿右衛門を 名乗ります。 柿右衛門の作品は白い美「濁手(にごしで)」が非常に特徴的です。 佐 …
柳 海剛
柳海剛(ユ・へガン)は、高麗青磁を復活させたことで有名な、韓国陶芸界を代表する陶芸家です。1894年、首都・漢城(現在のソウル)に生まれます。少年時代に目にした高麗青磁の美しさに惚れ込み、1911年頃から陶芸技法を本格的 …
月岡 芳年
最後の浮世絵師・月岡芳年 生涯浮世絵を描き続け、日本の浮世絵史に残る数々の名作を生み出した人物です。 月岡芳年(本名・吉岡米次郎)は1839年に江戸新橋の商人の家に生まれました。間もなく浮世絵師・月岡雪斎の養子となり、絵 …
石黒 光南
石黒光南(本名:昭雄)は金工・銀工作家として非常に有名な人物です。ふんだんに使われた金や銀の豪華さがある一方、その作品の姿は端麗に仕上げられており、素材に比して非常にシンプルなつくりとなっています。 また、石黒光南は初代 …






