平安 香山は、昭和の日本を代表する鉢の作家として知られています。
様々な技法を用いた、歪みの少ない緻密な作風から「カミソリ香山」の異名が付けられました。
香山は、1905年に岐阜県で生まれ、大正期に盆栽鉢の製作を始めました。
1928年頃より本格的に活動を開始し、登り窯での作陶を行います。
戦後は約2年の休眠期を経て、電気窯を用いた作品を手掛けたとされています。
1973年になると「香山」の名を息子に譲り、自身は「香翁」と名乗るようになりました。
休眠期を除く約40年ものあいだ精力的に活動を続けた香山の作品は、今でも多くの愛好家から支持されています。
また、戦前と戦後どちらの作品なのか、銘が「香山」「香翁」のどちらなのかによってかなり評価額が変わるとされており、一般的には「香山」の銘入り、そして戦前の作品が高く評価される傾向にあります。
福岡県出身の松尾氏は、画家を目指す為に一度上京します。その後は武者修行の為、ヨーロッパの各地を回っていると、その道中で「料理」について興味を持ち始めました。そして1975年に帰国した後、フランス料理家に転向します。
メディア活動にも精力的に取り組んでいた一方、自身の料理を盛りつける器を探すもあまり当てはまらず、それならばと多方面に器の提案を行ったそうです。そして、最終的には自身で制作するようになっていきました。この出来事がきっかけで、陶芸家としての名前が世に知れ渡りました。
50歳という若さでご逝去された松尾氏の想いは大勢の作家や作品に引き継がれています。独自性を極めた料理と、自身が手掛けた美しい陶器との相性は、正に芸術性に優れた唯一無二の作品と言えるものだったでしょう。
坂田 泥華は、代々続く萩焼の名家(深川萩四家の一つ)として知られています。
荻焼は、朝鮮李朝の陶工・李勺光が文禄・慶長の役(1592~1598年)の頃に来日したことから始まりました。その後、始祖である李勺光の流れをくんで、代々技術が受け継がれてきました。
十二代まではあまり記録が残っていませんが、「泥華」という名号は比較的近代以降で確立されたものです。八代目からは「坂田」という姓が使われています。
十三代 坂田 泥華は、1915年に十二代 坂田泥華の長男として山口県長門市に生まれました。山口県立萩商業学校を卒業後、父に師事して家業に従事し、1950年に十三代坂田泥華を襲名します。
1972年には山口県指定無形文化財に認定され、個展に出品した作品は二度も宮内庁に買い上げられました。以降、山口県選奨(芸術文化功労)や紫綬褒章など、数多くの受賞歴を重ねていきます。
そして1994年には「全国豊かな海づくり大会」で、山口県より天皇陛下献上の茶碗を制作しました。
2004年、長男・慶造が早世した為に十五代坂田泥華を追贈し、自らは「泥珠」と号しました。
坂田泥華は、井戸茶碗に深い感銘を受けて研鑽を重ね、「泥華井戸」と称される独自の豪快な作風を確立しました。
焼成時に釉薬を剥ぎ取る事により御本風の柔らかい斑文を表現した「剥離釉」などの新しい技法の開発にも取り組み、現代の萩焼を語る上で欠かす事のできない重鎮です。
樋渡 陶六は、繊細な彫刻を施した作品で知られる陶芸作家です。
樋渡は、1913年に愛媛県伊予郡砥部町で生まれました。
砥部工業学校を卒業後、地元の窯元を経て柿右衛門窯に入ります。そこで約20年にわたり彫刻の腕を磨き、のちに独立して白磁の緻密な彫刻を中心に活動を展開しました。特に観音像や花瓶などを多く手がけています。
その後も多くの受賞歴を重ね、1983年には山内町重要無形文化財(陶磁器彫刻技法保持者)に指定されました。
樋渡の作品には、白磁だけでなく青白磁も多く見られます。
青白磁は中国を起源とする焼き物で、主に陶石やカオリンを原料とし、素焼きした器に鉄分を含む釉薬を施して焼成します。青磁器は他の陶磁器よりも釉薬を多く用いるため、焼成時に強い負荷がかかって割れやすく、製作が難しいとされます。
伝統を尊重しながら研鑽を重ねる樋渡の姿勢は、後進にとって大きな指標となりました。彼の作品は、澄んだ青磁の美しさと独自の造形感覚によって、今なお多くの人々を魅了し続けています。
浅蔵 五十吉は三代続く陶芸家として知られています。
二代 浅蔵 五十吉は、1913年、石川県能美郡寺井町(現能美市)に生まれました。
小学校を卒業後、父である初代 浅蔵五十吉より陶芸を習い、15歳の頃から初代徳田八十吉に師事しました。1946年からは九谷焼の巨匠であった北出塔次郎にも師事し、色絵の技術を磨きました。
1946年の第1回日本美術展覧会(通称日展)で入選を果たし、以降も入選を続け、1977年の第9回日展では内閣総理大臣賞を受賞しました。
1992年には文化功労賞受賞、1996年には文化勲章を受章しています。
能美市九谷焼美術館敷地内に浅蔵五十吉記念館があり、設計は親交のあった建築家の池原義郎が担当しており、代表作を間近で見ることができます。
10年ごとに作品の様式を大きく変える行動力を持ち、木々や動植物等のモチーフはそのままに形や技法はまったく別の作者かのように変遷していきます。
初期の作品は黄色いものが多く、年代を経るごとに緑や銀彩へと変化していきます。最晩年である1993年ころからは白釉に挑戦するなど、生涯を通して新たな技法・作風を追い求めました。
また、1999年には後継者が三代目を襲名し、九谷焼伝統の絵付けの技法を受け継ぎつつ、現代的な器を制作しています。
井上 康徳は、白磁を代表する作家の一人として広く知られています。
彫りや釉薬の掛け分けなどの技法を駆使して白磁の表現を追求し、「生活の中にとけ込み、見て使って楽しめる器」をテーマに幅広く活躍しました。
1958年、佐賀県有田町にて、人間国宝・井上萬二の長男として誕生。
幼少期から白磁に親しみ、その世界に次第に魅了されていきます。
父の跡を継ぐにあたり、井上は「陶芸以外の様々な経験をして、それを作陶に活かしたい。それは大学卒業後でも遅くない。」と考えました。
そして大学卒業後、父からろくろ技法を学び、1983年には「日本伝統工芸展」に初入選。その後も数々の入賞・受賞を重ね、着実に実績を築いていきます。
白磁の美しさに現代的なデザイン感覚を融合させた作品は、「人間国宝の息子」という重圧を超え、独自の魅力を放ちました。
その確かな技術と感性は、国内外で高く評価されています
さらにその情熱は次世代へと受け継がれ、三代目の井上祐希は、ストリートカルチャーと伝統を融合させた新たな白磁表現を切り開いています。