楽左入(らく さにゅう)は、江戸時代中期に活躍した京都の陶工で、千家十職の一つである樂家の六代当主です。
元々は商人の次男として生まれましたが、その優れた才能を見込まれて五代宗入の養子となり、1708年(宝永5年)に六代・楽吉左衛門を襲名しました。1728年(享保13年)年に家督を六代長入に譲って隠居し、以降「左入」と号しました。この「左」の文字は表千家六代覚々斎宗左より授かったと言われています。
左入は楽家の伝統的な技法を受け継ぎながらも、釉薬の研究に深く取り組みました。特に「左入黒」と称される、光沢の中に多様な変化を見せる黒釉を用いた黒楽茶碗や、的確なヘラ削りによる端正な造形が特徴です。
表千家七代如心斎から非常に信頼され、享保18年(1733年)には「左入二百」と呼ばれる200碗の連作を制作するなど、数多くの名碗を残しました。
小嶋千鶴子は、イオンの前身であるジャスコの創設に携わり、イオングループの礎を築いた経営者です。
1916年、千鶴子は四日市岡田家・岡田屋の六代目当主・岡田惣一郎、田鶴夫妻の二女として、三重県四日市市に生まれました。両親は呉服店を株式会社化し、企業としての基盤を築きました。
1927年に父・惣一郎が亡くなると、経営を引き継いだ母・田鶴が従来の座売り方式から立ち売り陳列方式へと改めるなど、革新的な経営を実践しました。
四日市高等女学校時代の千鶴子は、陸上競技の短距離選手として活躍する一方で、小林多喜二や宮本百合子のプロレタリア文学に親しみました。卒業後は東京の大学への進学が決まっていましたが、世界恐慌後の金融不安の影響により断念しています。その後、母が亡くなり岡田屋呉服店の経営を支える立場となったことで、従業員の生活を守るため会社の運営に尽力するようになりました。
1939年に23歳で株式会社岡田屋呉服店の代表取締役に就任し、第二次世界大戦後の混乱期には、第一次世界大戦後のドイツで起きたハイパーインフレを教訓として物資を確保し、新円切替時にもその判断によって資産の目減りを抑えたと伝えられています。
1954年には岡田屋の監査役に就任し、30代の頃から抱いていた「アメリカのショッピングセンターを見たい」という思いを実現するため、1961年に若手経済学者とともに約1か月間にわたるアメリカ小売業の視察旅行を行いました。
そして1969年に岡田屋・フタギ・シロの3社合併によってジャスコが誕生し、千鶴子はその取締役に就任しました。
さらに、業界初となる企業内大学「ジャスコ大学」を創設し、労働法や賃金論、国際情勢などの専門家を講師に迎え、高等学校卒業の社員を対象に、心理学や文学を含む幅広い教養教育を実施しました。
この人材育成は、合併後も出身企業の違いによる人事上の摩擦を最小限に抑えることにつながったと、イオン関係者から評価されています。
その後も長年にわたりイオングループの発展を支え、1980年代半ばに経営の第一線を退きました。
退任後は70代から独学で陶芸を始め、自宅のアトリエで制作に励み、82歳頃には目標としていた3,000点の作品を完成させたとされています。
現在では、「小嶋千鶴子」名義の茶碗や花入などの陶芸作品が市場で流通しています。
楽 直入(らく じきにゅう)は、現在も活躍する京都の陶工で、千家十職の一つである樂家の十五代当主です。
十四代覚入の長男として生まれ、東京藝術大学彫刻科を卒業した後、イタリアへ留学し、1981年(昭和56年)十五代・楽吉左衛門を襲名しました。2019年(令和元年)に家督を長男の当代・十六代楽吉左衛門に譲り隠居し、以降「直入」と号します。
伝統的な樂茶碗の伝統を継承しながらも、枠にとらわれない大胆で彫刻的な作品が特徴です。「焼貫(やきぬき)」の技法を用いた作品を展開し、国内外で高い評価を得ています。
2007年(平成19年)滋賀県にある佐川美術館「樂吉左衞門館」の設計・監修を手掛けました。隠居以降は京都の山間部に居を構え、今もなお精力的に作陶活動を送っています。
林 沐雨(はやし もくう)は、1901年に京都で生まれた陶芸家で、清水焼の陶工・林祥山を父に持ちます。
1916年より父に陶業を学び、1921年からは宮内省御用品製造所・娯情堂で磁器製造を学びました。
しかし、関東大震災により製造所が閉鎖されたため、1925年に独立します。その後は、林家に伝わる仁清・乾山様式を基調とした作風で作品を制作しました。
1932年に五代清水六兵衛に師事し、同年「沐雨」と号しました。
師の没年までの4年間研鑽を積み、その後は京都府工芸美術展などに入選するなど、京焼作家として活躍しました。
1938年にハワイの商社からの依頼を受けて以降、海外向けの作品を多く制作するようになりましたが、第二次世界大戦中は海外への輸出が途絶えました。
終戦後の1949年には輸出装飾品の製造を依嘱され、海外向けのデザインや成形などを考案しました。
ハワイの商社を通じてロサンゼルスやシカゴ、ニューヨークなどへ進出し、各地の食器店内に沐雨個人のスペースが設けられるほどの人気を博しました。1970年には西ドイツ・フランクフルトで開催された国際見本市などにも出品し、ヨーロッパでも高い評価を得ました。
また、低火度の赤火色透明釉を新たにつくり出すなど独自の釉薬開発を行うほか、小動物や魚、花、鳥などを題材とした置物も数多く制作しています。1948年には京都府から伝統工芸技術保持者に認定されました。
京焼の伝統を守りながらも、海外市場を意識した陶磁器の制作に取り組みました。伝統的な意匠にモダンな感覚を取り入れた作風は、多くの人々に親しまれ、日本のみならず海外でも高い評価を受けました。
また、息子の林康夫は戦後を代表する前衛陶芸家として知られています。
楽了入(らく りょうにゅう)は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した京都の陶工で、千家十職の一つである樂家の九代当主です。
七代長入の次男として生まれ、1770年(明和7年)に病弱だった兄から家督を継ぎ九代・楽吉左衛門を襲名しました。1811年(文化8年)に家督を十代旦入に譲り隠居し、以降「了入」と号します。
楽家の歴代当主の中でも特に卓越した技量を持つ名工として知られています。巧みな箆削り(へらけずり)による大胆かつ的確な造形が大きな特徴であり、黒釉や赤釉の改良、さらには様々な釉薬の研究を行うなど、高度な技術と多様な作風を展開しました。
天明の大火の被害に遭い先祖代々の陶土などを失う苦難にも見舞われましたが、三代道入(ノンコウ)と並ぶと称される腕前、65年に渡る長い作陶期間により「楽家中興の祖」とも呼ばれています。
楽 惺入(らく せいにゅう)は、大正から昭和初期に活躍した京都の陶工で、千家十職の一つである樂家の十三代当主です。
十二代弘入の長男として生まれ、1919年(大正8年)に家督を継ぎ十三代・楽吉左衛門を襲名し、1944年(昭和19年)に亡くなりました。後の十四代覚入はこの時出征の為不在で、復員後家督を継ぐことになります。「惺入」の号は没後におくられたもので、この「惺」の文字は表千家十二代惺斎より授かったと言われています。
戦時下の多難な時代ではありましたが、そのなかでも文化芸術の研究に通じ「茶道せゝらぎ」という茶道研究誌を刊行するなど陶芸に留まらない活動を行いました。
伝統的な楽焼の技法を遵守しつつも、釉薬や鉱物の科学的な研究に取り組み、新たな色彩表現を試みるなど独自の作風を展開しました。