楽得入(らく とくにゅう)は、江戸時代中期に活躍した京都の陶工で、千家十職の一つである樂家の八代当主です。
七代長入の長男として生まれ、1762年(宝暦12年)に家督を継ぎ八代・楽吉左衛門を襲名しました。しかし病弱であったため1770年(明和7年)に弟・九代了入に譲り隠居、1774年(安永3年)に亡くなります。「得入」の号は没後におくられたものです。
父・七代長入の作風の影響を受けながら、楽焼の伝統を受け継いだ若々しい作が特徴的です。独自の繊細な感性が表現されており、丁寧な高台の削りなどに技術的な特徴が見られます。
早世のため作陶できた期間が極めて短かったことから、歴代の楽家当主の中でも現存する作品が非常に少ないことで知られています。
楽長入(らく ちょうにゅう)は、江戸時代中期に活躍した京都の陶工で、千家十職の一つである樂家の七代当主です。
六代左入の長男として生まれ、1728年(享保13年)に七代・楽吉左衛門を襲名しました。1762年(宝暦12年)に家督を八代得入に譲って隠居し、以降「長入」と号しました。
大振りで重厚な作品が多く、おおらかさを感じる作風が特徴です。黒楽茶碗では艶やかな漆黒釉が、赤楽茶碗においては、独自の白みが残る釉や細かい貫入を用いるなどの特徴が見られます。今日、初釜で使われる嶋台茶碗(金と銀の箔を施した大小二つの茶碗が一対となった重ね茶碗)は当時の表千家七代如心斎が長入に作らせたものが広まったという説もあります。
また、歴代楽吉左衛門の中でも特に彫塑に秀でており、茶碗にとどまらず香合や置物、花入、敷瓦など造形において優れた作品を残しています。
楽宗入(らく そうにゅう)は、江戸時代中期に活躍した京都の陶工で、千家十職の一つである樂家の五代当主です。
京都の呉服商・雁金屋三右衛門の子として生まれましたが、四代一入の養子となり、1691年(元禄4年)に五代・楽吉左衛門を襲名しました。画家・陶芸家として知られる尾形光琳・乾山兄弟とは従兄弟の関係にあたります。1708年(宝永5年)に婿養子の六代左入に家督を譲って隠居し、以降は「宗入」と号しました。
従兄弟たちの華やかな作風とは異なり、初代長次郎への回帰を追求した、装飾性をそぎ落とした侘びの思考を感じられる作品が多く残されています。「カセ釉」と呼ばれる、光沢を抑えた独特の黒釉を用いた重厚な黒楽茶碗を得意としました。
さらには楽家の系図や歴史をまとめた重要な史料「宗入文書」を書き残すなど、楽家の伝統と伝承の確立にも大きな足跡を残しました。
楽一入(らく いちにゅう)は、江戸時代中期に活躍した京都の陶工で、千家十職の一つである樂家の四代当主です。
三代道入の長男として生まれ、1662年(寛文2年)に四代・楽吉左衛門を襲名しました。1691年(元禄4年)に婿養子の五代宗入に家督を譲って隠居し、以降は「一入」と号しました。
作風は、父である道入の斬新な装飾技法を吸収しつつも、初代長次郎や二代常慶が重んじた「侘び」の原点へと回帰している点が特徴です。技法面においては、黒釉と赤釉が混ざり合う「朱釉(しゅぐすり)」と呼ばれる技法を完成させるとともに、光沢が少なくマットな落ち着いた色合いも特徴の一つ。
また、豊潤な質感を持つ朱楽茶碗なども手がけ、楽家の伝統をさらに深化させていきました。
田中宗慶(たなか そうけい)は、安土桃山時代に活躍した京都の陶工です。千利休の意向を受け、楽焼の初代長次郎とともに楽焼の工房を営み、後の千家十職の一つである樂家成立に深く関わりました。
1535年(天文4年)頃の生まれと言われ、初代長次郎の妻の祖父にあたります。京都を拠点に千利休を支える傍ら、豊臣秀吉から「天下一」の称号を授けられたと伝えられています。
長次郎とも共通する、伝統的な手づくねの技法を用いながら中国の陶磁器に影響を受けた三彩(複数の色釉を用いる技法)も取り入れた、独自の装飾性と造形美が特徴です。
「三彩獅子香炉」をはじめ、樂美術館所蔵の「香炉釉阿古陀形菊文水指」などが田中宗慶の作と言われています。
常慶(じょうけい)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した京都の陶工で、千家十職の一つである樂家の二代当主です。
田中宗慶の子であり、初代長次郎の没後に楽焼の工房を統率して今日の樂家の基礎を築きました。常慶の代より、樂家では代々「吉左衛門」を名乗るようになります。「樂歴代随一の名工」と称される三代道入は、この常慶の長男です。
初代長次郎の造形を踏襲しつつも、慶長期に流行した古田織部好みの沓形(くつがた)など、動きのある大振りな造形を積極的に取り入れました。また、従来の赤楽・黒楽の二種の釉薬に加え、新たに白釉(香炉釉)を考案して作風を広げました。
本阿弥光悦と深い交流があったほか、二代将軍・徳川秀忠より「樂印」を拝領したとされています。