岡本 豊彦

岡本 豊彦は、江戸時代後期に活躍した画家として知られています。

岡本は、1773年に備中国(現在の岡山県)に生まれ、幼い頃より南画家・黒田綾山に絵を学びました。
19歳の頃には福原五岳に師事し、25歳で妻子とともに京都へ移ります。
その後は四条派の祖・松村呉春の門下に入り、呉春の作品を写して技術を磨きながら、穏やかで情緒豊かな画風を身につけていきました。

呉春の没後は、「澄神社」という画塾を開き、多くの門弟を育てることで四条派の継承と発展に貢献しました。

岡本は、花鳥画・人物画など幅広く手掛けましたが、特に山水画を得意としました。
同門の松村景文と並び評されることも多く、「花鳥は景文、山水は豊彦」と称されるほど高く評価されています。

代表作には『松下鹿蝙蝠図』『泊舟』『富士山図屏風』などがあります。

任 頤

任 頤(任 伯年)は、清末に活躍した中国の画家です。
花鳥・人物・山水画を得意とし、中国の伝統と西洋絵画の要素を融合させた独自の作風が特徴です。
また、海上派の蒲華、虚谷、呉昌碩とともに「海派四傑」と称されています。

任頤は、1840年に浙江省紹興府山陰県航塢山の農村に生まれました。
父の任鶴声、伯父の任熊・任薫も画家という環境で育ち、幼い頃から彼らの影響を受けていました。
15~16歳で叔父の作品を模写して売りはじめますが、叔父に知られた際には、怒られるどころか「才能がある」と弟子に招かれたという逸話が残っています。

太平天国の乱では旗手として活躍し、天京(南京)陥落と共に故郷に戻りました。
その後は上海にて「古香室」という扇子店を開き、文人画家たちと交流しながら画家としての活動を続け、1895年に肺炎で亡くなっています。

東皐 心越

東皐 心越は、江戸時代初期に中国から渡来した禅僧です。

心越は、1639年に中国浙江省で生まれました。
幼い頃より仏門に入り、1676年に清による圧政から逃れるため、日本へ亡命しました。

長崎に移住し、日本各地を訪れていた彼は、清のスパイと疑われ幽閉されました。
しかし、半年ほど経った頃に水戸藩の「徳川光圀」の尽力により釈放されます。
その後は水戸に移り、中国の文化を伝えるとともに光圀との親交を深めました。

心越と光圀に関するこんな逸話も残されています。

『ある日光圀は、心越の力量を試すため茶室に呼んだ。
心越がお茶を口にしようとした瞬間、準備しておいた鉄砲を家来に一発放たせた。
しかし、心越は落ち着いて一滴もこぼさず飲み干した。

光圀が「失礼した」と詫びると、「鉄砲は武門の常、ご配慮無用」と答え、安心した光圀はお茶を飲もうとした。
その時、心越は「喝」と大声で一喝。光圀の手は思わず震え、茶碗を落としてしまうが、心越は「喝は禅家の常でございます」と言った。』

と、このように心越を試そうとしたのにかえって自分が試されてしまったのです。

彼は、詩文書画篆刻などに優れており、中国の様々な文化を日本に伝え、日本の発展に貢献しました。
また、日本における琴楽の中興の祖とされています。

織田 一磨

織田一磨は、主に都市の風景を描いたことで知られる版画家です。

生まれは東京ですが、12歳の頃に大阪へ移りました。
16歳になると、石版画工をしていた兄から石版画の技術を学びました。
その後1903年に東京へ戻り、川村清雄から洋画を学びました。

さらに「オットマン・スモリック」「金子政次郎」から石版画を学んだとされています。

葛飾北斎をはじめとした浮世絵の世界に心酔し、浮世絵の研究をしながら自身の作品制作の参考にもしていました。

彼は、時代とともに移り変わる街並みを作品に残しました。
主に東京を題材にしたものが多く、大震災前後の異なる姿が描かれた2つの作品は、織田の代表作として知られています。

代表作には『東京風景』『大阪風景』『憂鬱の谷』などがあります。

曾我 蕭白

曾我 蕭白は、江戸時代中期に活躍した絵師です。
独特で強烈な画風が特徴的で、「奇想の絵師」と呼ばれました。

彼に関する詳細な資料はほとんど残されておらず、その生涯は不明な点が多いです。

1730年に京都の商家に次男として生まれ、「高田敬輔」に師事したとされています。
両親と兄妹がいましたが、彼が11歳の時に兄が亡くなり、その3年後に父親、また3年後に母親が亡くなりました。

彼は、二十代~三十代にかけて伊勢や播州を巡りながら作品を制作しました。

大胆にデフォルメされ、荒々しく奇抜に描かれた作品はどこか妖しげな印象を与え、ある種の恐ろしさすら感じさせます。
このような作風は、当時から現代においてもなお、見た人が忘れられなくなるほどの衝撃を与え続けています。

代表作には『群仙図屏風』『旧永島家襖絵』などがあります。

周徳

周徳は、雪舟の優秀な弟子であり、雪舟流を正統に受け継いだ画僧です。

惟馨(いけい)と号し、山水画や人物画を得意としました。

周徳の生没年については明らかにされておらず、遺された作品などから16世紀初頭に活動していたとされています。

はじめは東福寺(京都府)に住んでいましたが、雪舟の死後は「雲谷庵(山口県)」を継いで、二代目庵主になったとされています。

周徳は、仏画や花鳥画などを題材とした幅広い作品を手掛けました。

墨の滲みやぼかし、濃淡を巧みに使い、立体感や自然の空気感を表現しています。

静かな美しさを感じさせるような、落ち着いた構図も魅力的です。

代表作には『山水図』『紙本墨画布袋図』などがあります。

木島 櫻谷

木島櫻谷は、1877年生まれの四条派の日本画家です。 京都に生まれ京都で育ち、幼少より周囲の影響で日本画をはじめとした文化の造詣を深めました。青年になると京都画壇を代表する作家・今尾景年に師事し、以降四条派の伝統を汲んだ …