東皐 心越

東皐 心越は、江戸時代初期に中国から渡来した禅僧です。

心越は、1639年に中国浙江省で生まれました。
幼い頃より仏門に入り、1676年に清による圧政から逃れるため、日本へ亡命しました。

長崎に移住し、日本各地を訪れていた彼は、清のスパイと疑われ幽閉されました。
しかし、半年ほど経った頃に水戸藩の「徳川光圀」の尽力により釈放されます。
その後は水戸に移り、中国の文化を伝えるとともに光圀との親交を深めました。

心越と光圀に関するこんな逸話も残されています。

『ある日光圀は、心越の力量を試すため茶室に呼んだ。
心越がお茶を口にしようとした瞬間、準備しておいた鉄砲を家来に一発放たせた。
しかし、心越は落ち着いて一滴もこぼさず飲み干した。

光圀が「失礼した」と詫びると、「鉄砲は武門の常、ご配慮無用」と答え、安心した光圀はお茶を飲もうとした。
その時、心越は「喝」と大声で一喝。光圀の手は思わず震え、茶碗を落としてしまうが、心越は「喝は禅家の常でございます」と言った。』

と、このように心越を試そうとしたのにかえって自分が試されてしまったのです。

彼は、詩文書画篆刻などに優れており、中国の様々な文化を日本に伝え、日本の発展に貢献しました。
また、日本における琴楽の中興の祖とされています。

織田 一磨

織田一磨は、主に都市の風景を描いたことで知られる版画家です。

生まれは東京ですが、12歳の頃に大阪へ移りました。
16歳になると、石版画工をしていた兄から石版画の技術を学びました。
その後1903年に東京へ戻り、川村清雄から洋画を学びました。

さらに「オットマン・スモリック」「金子政次郎」から石版画を学んだとされています。

葛飾北斎をはじめとした浮世絵の世界に心酔し、浮世絵の研究をしながら自身の作品制作の参考にもしていました。

彼は、時代とともに移り変わる街並みを作品に残しました。
主に東京を題材にしたものが多く、大震災前後の異なる姿が描かれた2つの作品は、織田の代表作として知られています。

代表作には『東京風景』『大阪風景』『憂鬱の谷』などがあります。

周徳

周徳は、雪舟の優秀な弟子であり、雪舟流を正統に受け継いだ画僧です。

惟馨(いけい)と号し、山水画や人物画を得意としました。

周徳の生没年については明らかにされておらず、遺された作品などから16世紀初頭に活動していたとされています。

はじめは東福寺(京都府)に住んでいましたが、雪舟の死後は「雲谷庵(山口県)」を継いで、二代目庵主になったとされています。

周徳は、仏画や花鳥画などを題材とした幅広い作品を手掛けました。

墨の滲みやぼかし、濃淡を巧みに使い、立体感や自然の空気感を表現しています。

静かな美しさを感じさせるような、落ち着いた構図も魅力的です。

代表作には『山水図』『紙本墨画布袋図』などがあります。

木島 櫻谷

木島櫻谷は、1877年生まれの四条派の日本画家です。
京都に生まれ京都で育ち、幼少より周囲の影響で日本画をはじめとした文化の造詣を深めました。青年になると京都画壇を代表する作家・今尾景年に師事し、以降四条派の伝統を汲んだ作風が確立していきました。

櫻谷は初期から動物画を多く描きました。1899年に全国絵画共進会に『瓜生兄弟』を出品し、こちらが宮内省買い上げとなり、人気を確立することとなります。その後は山水や花鳥、人物なども描くようになり、文展を中心に活躍しました。
京都画壇では竹内栖鳳と人気を二分するほどに注目されますが、やがて画壇と反りが合わなくなり、筆致に対して評価は落ち着いていきました。
晩年は衣笠に隠棲し、街に下りず晴耕雨読の日々を送ったといいます。

四条派を正統に継承しながら、モチーフのくまない観察と自身のイメージの投影によって明瞭かつ精緻な画風をとるのが櫻谷の特徴です。究めた写生能力は動物、自然、人物等ジャンルを問わず発揮され、現在も多くの日本画ファンを魅了しております。