河内 國平は、「現代の名工」として表彰された刀匠で、刀鍛冶としてだけでなく書にも精通しています。
國平は、1941年に第14代刀匠 河内守國助(かわちのかみ くにすけ)の次男として大阪で生まれました。
関西大学法学部在学中に考古学者の「末永雅雄」に師事し、卒業後は人間国宝の「宮入昭平」に入門し相州伝(そうしゅうでん)を習いました。
1972年に独立し、奈良県東吉野村に鍛刀場を設立。その後は刀工の隅谷正峯に入門し、備前伝を習います。
現在の玉鋼(たまはがね)では不可能といわれていた、古刀の特徴である地紋の「乱れ映り」の再現に成功し、刀剣界の最高賞と言われる賞を受賞しています。
時代ごとに求められる姿が変わる刀に対し、人生を掛けて真摯に向き合う職人の姿はとても美しくその魅力から目が離せません。
正直は、岐阜県関市で刀を作っていた刀工(刀の作り手)です。
本名は中田勝郎です。
関市は昔から刀作りの盛んな場所として知られており、今でも「関の孫六」で有名です。正直は養父の中田兼秀に学び、丈夫でよく切れる刀を手がけました。
刀に刻まれている「関住」とは「関に住んでいた」という意味で、「正直」がその刀工の名前です。
丈夫で切れのある現代刀は、新作名刀展でも多数入賞するなど実用的でありながら見た目の美しさも楽しめるのが特徴です。
居合道では特に戸山流の人々に好んで使用され、方々からの注目を集めております。
中川義實は明治時代頃に活動した岡山県出身の金工師です。
義實について残された資料は少なく、明治時代頃までの金工師をまとめた『古今金工一覧』と父・正阿弥勝義の手紙の宛先と内容からその活躍を知る事が出来ます。
『古今金工一覧』によると「夏雄門中川氏十四代目ナリ東京後ニ京師住」とあります。ここから加納夏雄に師事した中川家の14代目である事が見受けれます。加納夏雄は京都の名工として知られ、中川家は父・正阿弥勝義の生家で岡山の金工師の名門として知られます。また、勝義との手紙から東京や京都・大阪にいたことは間違いありません。手紙の内容から神戸に光村家という顧客を抱えており、刀装具を依頼されていたことが分かります。
義實の作品は刀装具のほかに鉄瓶や香炉から仏像まで広く残されています。そのいずれも美麗であり、細緻に富んだ仕上がりとなっております。
残念ながら世にあまり認知されておらずインターネットでは海外向けの販売サイトのみヒットし日本語のサイトが全く出ない人物となっております。少しでも中川義實が世に広まり、緑和堂にお持ちいただけることを心よりお待ちしております。
「正宗(まさむね)」は、「相模国さがみのくに(神奈川県)」で鎌倉時代頃から南北朝時代頃にかけて活躍した刀工で、通称「五郎入道正宗(ごろうにゅうどうまさむね」とも称します。
名工として「享保名物帳(きょうほうめいぶつちょう)」(刀剣書)にて天下三作のひとりとしても選定されています。
享保名物帳とは、江戸時代徳川幕府8代将軍であった「徳川吉宗(とくがわよしむね)」の指示によって「本阿弥家(ほんあみけ)」が調査し、作成した名物日本刀一覧のことです。
上、中、下の三部となり約250振りが掲載されています。これは江戸時代の武士たちの名刀の指針にもなったものとされ、天下三作が上に記載されていたことから別格だと扱われていたとされています。天下三作とは、熱心な名刀収集家であった豊臣秀吉が愛したとされる名物三作を指します。三作には粟田口吉光、五郎入道正宗、郷義弘がおります。
正宗は1264年に鎌倉鍛冶の名工、藤三郎行光の子として生まれます。1280年新藤五国光の門下に入り、各地の技術研究を行い、「相州伝」を完成させます。
以後、正宗の作風は影響を与えていき「正宗十哲(まさむねじってつ)」と呼ばれる正宗の影響を強く受けた10人の刀工によって日本全国に作刀技術は拡大し、刀の歴史を大きく変えてきました。
書物に1343年81歳にて逝去したと記されています。
丹波守吉道は、桃山期・江戸期に活躍した刀工です。
吉道の初代は関の名工「兼道」の三男であり、兄に伊賀守金道・和泉守来金道、弟には越中守正俊がおります。
もとは美濃に住んでいましたが、のちに父・兼道と兄弟たちとともに京に移住します。やがて「三品派」という兼道を祖とする刀工の一派を形成し、江戸時代を通して京で繁栄することとなりました。ちなみに「三品」というのは、兼道の苗字から取られています。
四兄弟に近江守久道を加えた五人は「京五鍛冶」と呼ばれ、その中で丹波守吉道は独自の刃紋「簾刃」を開発したことで有名になりました。
簾刃(すだれば)は、簾を思わせるような独特な刃紋です。砂流から着想を得たといわれるように、刃先と並行する紋の流れが特徴的です。
吉道の二代目以降もこの技法を受け継ぎ得意としましたが、代を重ねるごとに誇張された傾向があり、初代吉道の作った刀身は簾刃の主張が落ち着いたものであると言われております。
同田貫(どうだぬき)とは室町時代から活躍する刀工の一群です。
九州肥後国菊池の同田貫という地名に本拠地を置き、加藤清正のお抱えであったと伝えられています。
同田貫の刀には装飾をいくど施さず質素な作柄の出来の物が多いです。
名工の作品も多数存在し高価ではありますが、美術的価値(鑑賞)においての評価は低いです。
「折れない、曲がらない」をうたい余分な物は省き頑丈な造りで叩き切る。
まさに剛刀と呼ぶに相応しい刀工の一群です。
そして同田貫にはその”強靭さ”を示す有名なエピソードがございます。
それは明治天皇の前にて行われた天覧兜割りです。兜に刀を切り込むのですが何人もが兜に弾き返され敗れる中、最後に登場した榊原健吉が握る同田貫で挑んだところ見事に兜の切り込みに成功。
このエピソードもまた同田貫の強靭さ世間に知らしめることとなりました。
着飾ることのない、決して派手な刀ではございませんが頑丈さ強さに振り切ったスタイルは今でも刀剣収集家の中でも人気の高い刀です。