中川 義實

中川義實は明治時代頃に活動した岡山県出身の金工師です。

義實について残された資料は少なく、明治時代頃までの金工師をまとめた『古今金工一覧』と父・正阿弥勝義の手紙の宛先と内容からその活躍を知る事が出来ます。
『古今金工一覧』によると「夏雄門中川氏十四代目ナリ東京後ニ京師住」とあります。ここから加納夏雄に師事した中川家の14代目である事が見受けれます。加納夏雄は京都の名工として知られ、中川家は父・正阿弥勝義の生家で岡山の金工師の名門として知られます。また、勝義との手紙から東京や京都・大阪にいたことは間違いありません。手紙の内容から神戸に光村家という顧客を抱えており、刀装具を依頼されていたことが分かります。

義實の作品は刀装具のほかに鉄瓶や香炉から仏像まで広く残されています。そのいずれも美麗であり、細緻に富んだ仕上がりとなっております。

残念ながら世にあまり認知されておらずインターネットでは海外向けの販売サイトのみヒットし日本語のサイトが全く出ない人物となっております。少しでも中川義實が世に広まり、緑和堂にお持ちいただけることを心よりお待ちしております。

正宗

「正宗(まさむね)」は、「相模国さがみのくに(神奈川県)」で鎌倉時代頃から南北朝時代頃にかけて活躍した刀工で、通称「五郎入道正宗(ごろうにゅうどうまさむね」とも称します。
名工として「享保名物帳(きょうほうめいぶつちょう)」(刀剣書)にて天下三作のひとりとしても選定されています。
享保名物帳とは、江戸時代徳川幕府8代将軍であった「徳川吉宗(とくがわよしむね)」の指示によって「本阿弥家(ほんあみけ)」が調査し、作成した名物日本刀一覧のことです。
上、中、下の三部となり約250振りが掲載されています。これは江戸時代の武士たちの名刀の指針にもなったものとされ、天下三作が上に記載されていたことから別格だと扱われていたとされています。天下三作とは、熱心な名刀収集家であった豊臣秀吉が愛したとされる名物三作を指します。三作には粟田口吉光、五郎入道正宗、郷義弘がおります。

正宗は1264年に鎌倉鍛冶の名工、藤三郎行光の子として生まれます。1280年新藤五国光の門下に入り、各地の技術研究を行い、「相州伝」を完成させます。
以後、正宗の作風は影響を与えていき「正宗十哲(まさむねじってつ)」と呼ばれる正宗の影響を強く受けた10人の刀工によって日本全国に作刀技術は拡大し、刀の歴史を大きく変えてきました。
書物に1343年81歳にて逝去したと記されています。

丹波守吉道

丹波守吉道は、桃山期・江戸期に活躍した刀工です。

吉道の初代は関の名工「兼道」の三男であり、兄に伊賀守金道・和泉守来金道、弟には越中守正俊がおります。

もとは美濃に住んでいましたが、のちに父・兼道と兄弟たちとともに京に移住します。やがて「三品派」という兼道を祖とする刀工の一派を形成し、江戸時代を通して京で繁栄することとなりました。ちなみに「三品」というのは、兼道の苗字から取られています。
四兄弟に近江守久道を加えた五人は「京五鍛冶」と呼ばれ、その中で丹波守吉道は独自の刃紋「簾刃」を開発したことで有名になりました。

簾刃(すだれば)は、簾を思わせるような独特な刃紋です。砂流から着想を得たといわれるように、刃先と並行する紋の流れが特徴的です。
吉道の二代目以降もこの技法を受け継ぎ得意としましたが、代を重ねるごとに誇張された傾向があり、初代吉道の作った刀身は簾刃の主張が落ち着いたものであると言われております。

同田貫

同田貫(どうだぬき)とは室町時代から活躍する刀工の一群です。

九州肥後国菊池の同田貫という地名に本拠地を置き、加藤清正のお抱えであったと伝えられています。

同田貫の刀には装飾をいくど施さず質素な作柄の出来の物が多いです。

名工の作品も多数存在し高価ではありますが、美術的価値(鑑賞)においての評価は低いです。

「折れない、曲がらない」をうたい余分な物は省き頑丈な造りで叩き切る。

まさに剛刀と呼ぶに相応しい刀工の一群です。

 

そして同田貫にはその”強靭さ”を示す有名なエピソードがございます。

それは明治天皇の前にて行われた天覧兜割りです。兜に刀を切り込むのですが何人もが兜に弾き返され敗れる中、最後に登場した榊原健吉が握る同田貫で挑んだところ見事に兜の切り込みに成功。

このエピソードもまた同田貫の強靭さ世間に知らしめることとなりました。

着飾ることのない、決して派手な刀ではございませんが頑丈さ強さに振り切ったスタイルは今でも刀剣収集家の中でも人気の高い刀です。

 

 

長運斎綱俊

1798年(寛政10年)に生まれる。
父は加藤和泉守国秀でその三男として生まれ育ち、出羽国米沢藩主上杉家の藩工となる。兄に山形藩工の加藤綱秀がいる。
水心子正秀に師事したとされ、その後江戸に移住して修行し、さらに大阪に上がり、鈴木治國に師事したのち西国を遊歴。そして熊本に駐槌。

1823年(文政六年)頃より江戸麻布にあった上杉家中家敷1856年(安政三年)には長運斎を息子の是俊、二代綱俊に譲り、銘を長寿斎と改め1823年(文政六年)頃より江戸麻布の上杉家中家敷に住み、1863年(文久三年)十二月六十六歳で没しました。

浜野 直随

浜野 直随は江戸時代中期から後期の装剣金工家です。

1745年に生まれ、本姓は遠山といいます。
当初では中村直矩(なおのり)の下で学んでおりましたが、後に親戚関係でもあった浜野派の初代浜野矩随(のりゆき)の下で弟子として学んできました。
浜野派とは、浜野政随(まさゆき)を祖としており、矩随や直随などの弟子を育成してきた町彫りを代表していた流派です。この頃浜野派・奈良派・横谷派の江戸での装剣金工三派として一躍有名となりました。

町彫りは室町時代から江戸時代にかけて将軍家に仕えていた後藤家以外の金工が製作する小道具のことです。絵画のような彫刻製作を行ったことから町彫りの始まりとされています。

20歳の時独立をして江戸・浅草に開業を致しました。
作品としては赤銅や四分一を用いて高彫り色絵(裏面から輪郭を打ち出し、表面には図柄を加工する金工作品の基本となる技法)にて人物を彫りいれた鐔や小柄がを製作しており、得意としてきました。
浜野派を代表するほどの優工ともされてきました。のちに甲府や越後(新潟県)などにも訪れ、晩年では信濃(長野県)に住まれました。多くの作品を作られてきましたが、1819年に逝去されました。

隅谷 正峯

隅谷 正峰(すみたに まさみね1921年1月24日‐1998年12月12日)日本の日本刀匠です。日本美術刀剣保存協会元理事であり全日本刀匠会元理事長でもある。石川県松任市(現在は白山市)出身。立命館大学理工学部機械工学科 …

堀川 国広

堀川国広は1531年に宮崎県で代々(国広は三代目)刀鍛冶を営んでいた家に生まれます。 日向国の戦国大名、伊東義裕(いとうよしすけ)に刀鍛冶として仕えますが、伊東家が敗北、後に病死してしまい、旅をしながら作刀を続け、京都を …

高橋 貞次

19002年4月14日~1968年8月21日、日本の刀匠で、愛媛県出身。重要無形文化財保持者になります。1919年東京の中央党見解養成工となり、以後大正年間より古刀の作風を研究し、五ヶ伝に精通しました。1936年故郷松山 …

肥前 保廣 日本刀

元村 保廣

日本刀は江戸期の佐賀藩の主要産業の一つに数えられますが、その中で特に重要な地位を占めたのが御用刀工であった肥前国忠吉です。肥前刀の特徴である「小糠肌」と呼ばれる地鉄を生み出し、多くの弟子を輩出しました。 元村保廣もこの肥 …

天田 昭次

現代における刀匠としての最高位である重要無形文化財保持者(人間国宝)の一人が天田昭次です。昭和2年に本田村(現岐阜県)に生まれ、日本刀鍛錬伝習所に入門、若くから頭角を表し、新作名刀展で3度の正宗賞の受賞、20年ごとに行わ …

宮本 包則

宮本包則は鳥取県倉吉市に醸造家の次男として生まれました。 郷里が輩出した平安末期の名匠である伯耆安綱を慕って刀工を志し、1851年、22歳の時に岡山県瀬戸内町を訪ねて、長州藩と関係の深い横山祐永の門を叩きますが拒絶されて …

月山 貞一(初代)

月山貞一(初代)は滋賀県で塚本家の子として生まれましたが7歳の時に大阪で活躍していた刀匠の月山貞吉に養子として引き取られます。11歳から作刀を始めた貞一の上達ぶりは凄まじく、16歳の時に制作した「月山貞吉造之嫡子貞一十六 …

加納 夏雄

加納夏雄は幕末明治の日本で、その高い技術を駆使し活躍した金工師です。 1828年、京都の米屋に生まれますが、間もなく刀剣商・加納治助の養子となりました。身近にあった刀剣の中でも鍔や柄の美しさに魅かれ、自分で作ることを試み …

野田 繁慶

野田繁慶(通称・野田善四郎)は江戸時代初めに活躍した刀工です。 出身は三河(愛知県)で、江戸に出た後、幕府の御用鉄砲鍛冶・胝(あかがり)惣八郎に入門しました。鉄砲鍛冶としては「野田清堯」の名で制作を行っています。徳川家康 …

孫六 兼元

孫六兼元は室町時代後期の美濃の刀工です。兼元の名は現代まで27代続いていますが、その中でも特に2代兼元が孫六とつけて呼ばれます。備前と並ぶ刀の名産地であった室町末期の岐阜・関周辺の刀工の中でも和泉守兼定と並び、当時から非 …