藤林徳扇は延宝8年(1681年)より宮内庁御用達の錦の御旗の織り匠として代々名を継承している着物作家です。その中でも12代藤林徳扇は着物の製作だけではなく絵画なども世界で評価されています。
また芸術界のノーベル賞と表現されるユネスコ・パリ 本部認定のユネスコ・グリーティング・アーティストとして連続して選出されるなど、トップアーティストとして活躍していました。
徳扇の描く絵は特徴的でキャンバスには本金糸や本プラチナ糸が使われており、時がたっても変色が少ないです。また五大宝石をパウダー状にした上で絵の具化するなど独自の特殊な技法で様々な着物やアートを創作しております。
創作理念は「優雅」「格調」「貴品」、そして「見つめられる着物」として創作されており藤林徳扇の作品はどれも思わず見とれてしまうような作品が多く見受けられます。ローマ法王の前で弥勒菩薩像のアートも収蔵しており、世界でも著名な作家であることがうかがえます。
由水十久は、1913年に石川県金沢市生まれの加賀友禅作家です。
1927年に京都に出て、紺谷静焦のもとで10年以上友禅染めを学び、1938年に独立しました。1947年には地元金沢市へ戻り活動してきました。1966年頃になると、日本各地での個展を開催しました。1975年に「加賀友禅由水十久作品集」の出版もされました。技術の高さを評価されて1977年に伝統工芸士、1978年には石川県の指定無形文化財加賀友禅技術保持者に認定されました。
その後は、日本のみではなく、アメリカなどの海外でも個展を開催し、活動の場を広げてきました。活躍を評価され、1984年の「ユニセフ・グリーティングカード」の84年版デザインに染絵集「うなゐ」から2点の作品が選ばれました。 1988年に生涯を終えますが、息子が二代目由水十久として活躍しています。
加賀友禅では人物画を用いることはあまりなく、他の作家との違いに対するこだわりが感じます。十久は「あくまでも着る人が主役」というこだわりを持ち、着物を着た時に360度どこから見ても美しく見えるように製作したそうです。
世界的に高い評価を受けている由水十久さんの作品は、新作が望めないことやファンやコレクターが多いことから高値の取引がされることがあります。
大澤光民は「鋳金」にて国の重要無形文化財に認定された金工師で、高岡銅器の伝統的な技法である「焼造鋳造」に熟練しており、さらに「鋳ぐるみ」という独自の技法を確立させたことで世間から高く評価をされました。
鋳ぐるみとは鋳型に、銅線やステンレス線、白銅線などの異なる金属を配置し、溶けた銅合金を流し込み、異質な金属同士を包み込む技法です。
冷えて固まった後にヤスリやサンドペーパーなどで表面を磨きあげると、金属の線や点が文様として浮き出てくるのが特徴で、制作の過程では、鋳型の土くずれ、焼き方、地金の配合、融解温度の加減、異質金属の膨張具合の見極めなどが難しく、長年の経験と勘が頼りとなり、とても難しい製法となります。
大澤光民は高岡銅器の伝統の技術を受け継ぎながらも時代に合った作風や、自然の美しさをみずみずしく捉える感覚を大事にしております。銅線の赤は太陽を、白のステンレスは水をイメージしており、朝日や夕日の美しい景観や太陽と水が織りなす神秘的な造形を表現しているその作品は現在の人々に評価されていることでしょう。
桂盛仁は2008年に「彫金」にて国の重要無形文化財(人間国宝)に認定された金工師です。
江戸時代初期より続いている彫金の一派である柳川派の流れを汲み、煙草入れなどの装身具で明治~昭和期にかけて人気を博した桂光春や二代豊川光長を輩出した装剣金工の流派の内の一派であり、叔父である桂光春を継いだのが桂盛行でした。その桂盛行の息子として生まれた桂盛仁は、父である盛行のもとで修業をし、1968年に武蔵野美術短期大学を卒業後には第11回伝統工芸新作展、第1回日本金工展、第18回日本伝統工芸展に入選を果たし、その後は数々の賞を受賞する功績を残します。1995年には第25回伝統工芸日本金工展にて文化庁長官賞を受賞し、2008年には「彫金」にて国の重要無形文化財(人間国宝)に認定されました。
桂盛仁は四分一といった銅3、銀1という配合の合金を使用した作品作りを得意としております。この四分一という合金は硬い上に熱に弱い為、細かな表現をするのは非常に難しいといわれており、この卓越した技術を持った桂盛仁の作る作品は人々を魅了していくことでしょう。
江戸小紋にて人間国宝に認定された小宮康孝という方をご存知でしょうか。
始めに江戸小紋とは遠目には無地に見えるほど細かな柄を一色のみの型染で染めた文様のことをいいます。
ルーツとしては平和になった江戸時代に諸大名がこぞって着物に贅をつくし、それをよくないことだと江戸幕府が規制をしました。
そこで大名たちは遠目からは柄が見えにくいように細かくして染色の技術が発達していきました。そのおかげでできた技術を江戸小紋と呼ぶようになったとのことです。
模様により格の違いもあり、武士が裃(かみしも)として着用していた格の高い文様は各大名が自分の藩の文様を決めて他の藩が着用することを禁止していたそうです。
小宮康孝も人間国宝の小宮康助の厳しい修行を経て江戸小紋の技術を継承し、1978年には小宮康孝も人間国宝に認定される実績を残しました。
人間国宝に認定された後も、江戸小紋の制作や普及に尽力した小宮康孝ですが、人間国宝に認定される前の1960年代後半からは型地紙の制作も始めます。
「よい型彫師がいなければ江戸小紋は滅びる運命だ」という父の教えから型彫師の喜田寅蔵との関りも大事にしたといいます。
江戸小紋の発展に尽力した小宮康孝の作品は今も人々を魅了することは間違いないでしょう。
室町時代の辻が花に魅了され、その復刻に全身全霊を懸けて研究に励んだ久保田一竹という方をご存知の方も多いかと思います。
辻が花とは縫締め絞りを主たる技法とした文様染めのことであり、縫締め絞りとは文様を表したい部分を縫った糸で引き締めて縮めて染める技法のことを言います。
室町時代に隆成を極め、後に豊臣秀吉などの武家に好まれたこともあり高級品として一世を風靡しましたが友禅染の出現により衰退していったといわれています。
久保田一竹は20歳の時にこの辻が花の小裂に魅了されて、模倣、再現するだけでなく現代にも通用する独自の技法として復活できるように少しずつ研究を開始していきました。
ですが、45歳の時に技術的に辻が花の復興は難しいと判断した久保田一竹は「一竹辻が花」という独自の技法を発展させていくこととなります。
そして20歳から研究を開始して40年たった60歳の時に「一竹辻が花」を世に発表し、その後国内外にて個展が開催されてこともあり久保田一竹の作品は国内外から高い評価を受けることになりました。