天野善孝は静岡県静岡市出身の現代アート作家・イラストレーターです。
1967年にタツノコプロに入社し、「タイムボカン」シリーズのキャラクターデザインを手がけました。担当したキャラクターを上げればキリはありませんが、代表となるところでは「ガッチャマン」「ヤッターマン」「みなしごハッチ」など多くの有名作品を手掛けていました。
1982年にタツノコプロからフリーランスとなりSFやファンタジー系のイラストを手掛けることが多くなります。独立後初期の作品は夢枕獏の「キマイラ」や菊池秀行の「吸血鬼ハンターD」などが挙げられます。
1987年にはスクウェア(現スクウェア・エニックス)に参加し「ファイナルファンタジー」シリーズのキャラクターデザインを手がけたことでさらに注目を集めました。ファイナルファンタジーシリーズにはⅥまではメインで関わってきましたが、それ以降は役職を辞任し、原案やイメージイラストといった形の関わり方となっています。
タイムボカンシリーズのようなコミカルな画風から、ファイナルファンタジーシリーズのようなSF要素のある幻想的な画風も手掛け、両方の面で大きな人気を集めています。
ゲームやアニメの人気と共に、日本だけでなく海外でも高い支持を受けており、ニューヨークやパリ・ロンドンなどでも個展を開き、成功を収めております。
現代フランス画壇を代表し、日本と繋がりが深い画家としても知られている人気作家といえば、カシニョールでしょう。
1935年にパリに生まれたカシニョールは父親が高級衣服店を経営していたこともあってか、幼少期よりモデルの女性たちと過ごしていたそうです。そういった経験からカシニョールの作風を代表する優雅で艶美な女性をモチーフとした作品が生まれていったのではないでしょうか。
13歳の時にはドーヴィルの海岸で砂の芸術コンクールに参加して一等賞になるといった功績を残し、新聞で報じられたりしました。そういった功績から10代の頃には画壇で活躍するようになり、24歳の時にはフランスで毎年秋に開催されている「サロン・ドートンヌ」の会員に推挙されるほどでした。
来日経験も豊富で、女優の黒柳徹子には前述の砂の芸術コンクールのエピソードも笑いながら話したりしていたとのことです。また、1990年代にはボリジョイ・バレイ団の衣装と舞台装置の制作も手掛けるなど新しい分野にも挑戦しているカシニョールの作品は、とても人気の高いものとなっております。
斎藤 真一 1922年7月6日~1994年9月18日
瞽女(ごぜ)を題材にした作品を多く描いた事で有名な画家といえば斎藤真一でしょう。
瞽女とは盲人の女性旅芸者を指す言葉であり、各地を転々と旅しながら三味線で説話やその土地の歌を歌って生計を立てていた人たちでした。その歴史は室町時代に遡りますが、明治から昭和の初期には新潟県を中心に活動しておりましたが近代化の波にのまれて衰退していったそうです。
斎藤真一の描く瞽女を題材にした作品は社会になにか訴えかけているような、そんなイメージを持ってしまうようなインパクトの強い作品が多いですね。
始めてご覧になった方にはもしかすると怖いイメージを持たれる方もいらっしゃるかもしれませんが、それだけメッセージ性の強い作品が多いとも言えるでしょう。
瞽女が主体となった作品や越後の厳しい行道を瞽女が移動する様を描いた作品は没後30年近く経った今でも多くの人々に強いメッセージを残し続けているのは間違いないでしょう。
熊本県の阿蘇山や富士山を描いていた画家として創造するのはなんといっても田崎広助でしょう。
1898年に福岡県に産まれた田崎広助は子供の頃より画家を志していたそうでしたが両親の反対があった為、美術学校への進学を諦めて福岡県師範学校を卒業しました。しかし、22歳の時に両親の反対を押し切って上京しそこで安井曾太郎に師事します。1932年よりパリにて西洋の美を学びますが、帰国後は日本の本来の美を追求していきます。
1973年には東郷青児と共に日伯現代美術展を主催し、その功績が称えられてかブラジル政府のグラン・クルーズ賞、コメンダドール・オフィシアール賞を受賞します。それ以降も数々の賞を受賞し、1968年には勲三等瑞宝章を、1975年には文化勲章を受章し文化功労者となりました。
田崎広助の作品は山の風景を描いた物が有名です。
中でも朱富士と呼ばれる朱色の富士山は非常に人気が高い物となっております。
また、田崎広助の作品は遠近法を使用しておらず平面で山の風景を描くことにより自身が感じた事を最大限表現と考えていたのではないでしょうか。
丁紹光(ティンシャオカン)は中華人民共和国出身の画家であり、国際派現代中国絵画の大巨匠です。
1939年に中国陝西省に生まれた丁紹光は1962年に北京中央美術工芸学院を最高成績で卒業し、昆明雲南芸術学院にて教授を務めました。その後、中国政府より依頼を受けて北京人民大会堂に「麗しき神秘的西双版納」を制作しました。
その後アメリカに移住し1986年にはアメリカSEAGAL社と契約して本格的にシルクスクリーンの制作を始めていきます。1992年のクリスティーズオークションにて岩彩画が東洋作家史上最高価格で入札、さらに1993年には国連公認作家に任命されアメリカでの評価も非常に高い作家となっています。
丁紹光の作品は「女性」や「母子」を題材にしたものを想像される方が多いかと思います。直線が多く用いられることにより中国の古来からの作風を踏襲しつつ、華麗な色彩は「ティン・ブルー」と呼ばれ多くの人の心に安らぎを与えてくれます。
ジャンセンは1920年アナトリア(現在のトルコ)にて生まれました。父はアルメニア人、母はトルコ人と当時のオスマン帝国の情勢では非常に危うい立場でした。家族は危険な故郷を離れ、ギリシャに移り、その後フランスへと渡りました。
フランスで過ごす中でジャンセンは画家にになることを決め、パリの装飾美術学校の他、デッサン学校やアトリエで絵について学んでいきます。
1939年以降はフランスを代表する美術展であるサロン・ドートンヌ展を始め、多くの展覧会に出品しています。1950年代からは定期的にイタリアを訪れ制作を行いました。その実力が認められ、1960年代には世界各地で個展を開くようになります。2002年にはアルメニア正教会1700年記念として、アルメニア国立美術館にて「虐殺展」を開催し、アルメニア国家勲章を受章し、2003年にはフランスの最高勲章 レジオン・ドヌール勲章の受賞をするなど世界に認められた作家の一人です。
ジャンセンの作品は、自らの目で対象を見て、ありのままの姿を描いた作品で、デッサンを重視しています。線画家であったジャンセンの作品は、彼の目に映る世界をそのままに映し出しています。
主なシリーズ作品は、バレリーナ・ベニス・闘牛・マスカラード(仮面舞踏会)・虐殺と多くのシリーズものを残しています。
日本でもジャンセンの評価は高く、1993年には長野県にある安曇野にジャンセン専用美術館がたてられています。