ヨシタケ シンスケは、日本の絵本作家・イラストレーターです。
ヨシタケは神奈川県に生まれ、筑波大学大学院(芸術研究科)を修了後、当初はスケッチや立体制作、デザインなど幅広い分野で活動し、その後、絵本制作へと軸足を移しました。2013年に刊行されたデビュー作『りんごかもしれない』でMOE絵本屋さん大賞第1位など複数の賞を受賞し、その後も『りゆうがあります』『もうぬげない』『このあと どうしちゃおう』などの作品を発表し、国内外で広く読まれています。
彼の作品は、日常の些細な疑問や違和感を起点に発想を広げ、「もしかしたら〜かもしれない」と多角的に想像を展開する構成が特徴とされます。明確な結論を示さず、読者に考える余地を残す点に特色があり、子どもから大人まで幅広く読まれています。
この点から、ヨシタケシンスケは、日常の小さな疑問や悩みを前向きに捉え直すヒントを与えてくれる作家だと感じられます。
児島善三郎は、昭和期に活躍した洋画家です。
1893年、福岡県福岡市の紙問屋に生まれました。
中学生の頃から油絵に熱中し、頻繁に写生に出かけていたそうです。また校内で絵画同好会「パレット会」をつくり、中心メンバーとして活躍しました。この同好会には、のちに洋画家となる中村研一や中村琢二も所属していました。
1912年に長崎医学専門学校薬学科に入学しますが、画家を志して翌年上京します。東京美術学校受験のため本郷洋画研究所に一時学びましたが、正規の美術教育機関には進まず、その後は独自に研鑽を重ねました。
1915年頃、過労から結核を患い、療養のため故郷福岡に戻ります。約5年間に及ぶ療養期間は、制作は限られていたと考えられています。
回復後は、画家になるため再び上京しました。
1921年、二科展に出品し初入選を果たし、翌年の二科展では二科賞を受賞し、一躍画壇に躍り出ました。
1925年からは宿願であった欧州留学を果たし、約4年間にわたりパリを拠点に、イタリア、スペイン、ベルギーなどを巡り、様々な西洋の古典絵画に親しみました。
当時の流行に流されることなく、人体の立体感や重量感の表現を基礎から身に着け、滞在中もギリシャ彫刻を思わせる量感あふれる裸婦など、西洋絵画の基本を踏まえた作品を多く残しています。
帰国後は、西洋美術の伝統を踏まえつつも単なる模倣に留まらず、日本人の感性に即した「日本人の油絵」を描くことを目標に制作に励みました。
1930年には里見勝蔵や林武らと、日本人の美感に根ざした新しい洋画の創出を目指し、「独立美術協会」を設立しました。設立後は、中心的作家として発展に尽くすと共に多くの作品を制作しました。
その画風は、欧州で習得した油絵の基本的な造形の骨格など堅実な造形力を基盤に、桃山美術や琳派を想起させる装飾的で豊かな色彩、そして力強い線描や大胆なデフォルメを取り入れた、独自の画風を確立しました。
酒井駒子は、日本の代表的な絵本作家・イラストレーターです。
酒井は兵庫県に生まれ、東京藝術大学美術学部油画科を卒業後、テキスタイルデザインなどを経てフリーのイラストレーターとなり、1998年に『リコちゃんのおうち』で絵本作家としてデビューしました。1999年に発表した絵本『よるくま』は、子供から大人まで幅広い層から支持を集めています。
その後も『きつねのかみさま』で日本絵本賞、『金曜日の砂糖ちゃん』でブラティスラヴァ世界絵本原画展金牌、『くまとやまねこ』で講談社出版文化賞(絵本賞)を受賞するなど、国内外で高い評価を得ています。
彼女の作品は、子どもや動物をモチーフとした静かで内面的な表現が特徴とされています。夢と現実のあいだのような幻想性や、子どもの心理の揺らぎを繊細に描いており、黒を基調としたかすれや質感のある筆致からは、陰影を意識した表現が見られます。物語面でも説明を抑え、読み手の解釈に委ねる余白を持たせており、結果として子どもだけでなく大人にも受容される作品を描いています。
総じて酒井駒子は、子どもの内面や感情の揺らぎを、静かで詩的な表現によって描き出す絵本作家です。
寺田克也は、岡山県出身のイラストレーター・漫画家です。
寺田は岡山県立岡山工業高校工業デザイン科を卒業後、阿佐ヶ谷美術専門学校在学中から絵の仕事を始め、そのままフリーランスとして活動されています。
ゲームや映画のキャラクターデザイン、小説の表紙・挿絵など幅広く手掛けており、精緻な線画や圧倒的な画力、鉛筆やペンで自由に絵を描くその姿から「ラクガキング」と称されています。
中学生の頃に出会ったフランスの漫画家メビウス(Jean Giraud)から影響を受けており、線描を基調とした描写や空間構成、幻想的なモチーフの扱いにその影響がうかがえます。
作品には独創的なキャラクターや怪物、異形生命体などが登場し、代表作としては漫画作品『西遊奇伝大猿王』や『ラクダが笑う』、画集作品『寺田克也ラクガキング』などが挙げられます。
寺田克也は、伝統的な絵の技術と現代的なキャラクターデザインを融合させ、紙の上だけでなく様々な媒体で独自の表現を展開する作家の一人です。
ジョルジュ・ビゴーは、日本の明治期を主題とした風刺画で知られる画家・風刺画家です。
ビゴーはフランス・パリに生まれ、国立美術学校にて絵画や銅版画を学び、版画や挿絵の分野で活動を開始しました。1882年には日本に来日し、陸軍士官学校で絵を教えながら、日本の人々の生活や風景を題材とした作品を制作しました。特に1887年の風刺雑誌『トバエ (TÔBAÉ)』は、日本の近代化政策や西洋化の影響をユーモアと批評精神をもって描いており、同時代の社会を風刺的に記録しています。
彼の作品は、明治期日本の政治・社会を風刺的に描いている点が特徴です。特に政府の近代化政策、西洋化の受容過程、軍事・外交問題などを題材にし、単なる風俗画ではなく、「社会の矛盾や滑稽さ」を視覚化する構造になっています。ビゴーはフランス人として日本社会を外部から観察しており、その視点が作品に強く反映されています。
彼の描いた絵は、教科書にも掲載されるなど、当時の様子を知る貴重な歴史資料となっており、これらの点から、ジョルジュ・ビゴーは明治期日本を記録した風刺画家だと考えられます。
ポール・ジャクレーは、フランス出身で日本で活躍した版画家です。
1896年にフランス・パリに生まれ、3歳で家族とともに来日しました。
東京で育ち、日本語や日本の風俗・古典文化に慣れ親しみながら成長しました。
幼いころから絵画に関心を持ち、喜多川歌麿の浮世絵の模写を行っていました。また、黒田清輝や久米桂一郎から油彩を学び、その後は池田輝方や蕉園夫妻から日本画を学びました。
10歳の時の模写には、自身の名前を漢字で「若礼」と書きサインを残しています。また、義太夫好きが高じて「若礼」の名で高座に上がったそうです。
その後、フランス大使館で翻訳の仕事に就いていましたが、1930年頃に辞職し本格的に画業に取り組むようになりました。
1929年に南洋諸島へ訪問し、それが大きな転機になります。そこでの意欲的な創作活動で、100枚以上の水彩画やデッサンを制作しました。
その後1932年まで、毎年日本の委任統治領だった南洋の島々に長期滞在し、数多くの水彩画を制作しました。それが「新版画」の制作につながります。
「新版画」は絵師・彫師・摺師の協働作業で行われ昭和前期に盛んでした。
ジャクレーは、美術史学者である藤懸静也のすすめで版画制作をはじめ、1933年に「若礼版画研究所」を設立しました。
そして翌年1934年から、彫師・摺師と協働し、南洋やアジアで暮らす人々を主題とした人物画を中心に木版画の出版を開始します。
ジャグレーの作品は、版画でありながら鮮やかな色彩が特徴的で、その絵からはその土地の風土や空気感が伝わってきて、人々の暮らしを想起させます。
使用する絵具や、摺りの仕上がりにも細心のこだわりがあり、雲母摺や多色摺などの高度な技法を積極的に取り入れたり、自然な仕上がりを求めて金粉や銀粉、真珠や螺鈿の貝の粉を用いるなど、高度な摺り技法によって独自の質感が生み出されています。こだわりでは通常の10倍程である200枚前後の版木を使用することもあったそうです。
多色摺による精緻な工程を経て制作され、その完成度の高さと異国情緒あふれる表現により、国内外で高い評価を受けています。