久保井 郎童は、二代にわたって篠笛の製作・演奏において高い評価を受けている製管師であり、特に「朗童管」として知られる篠笛を製作しています。
篠笛は、主に民謡や雅楽、能楽などで使用される竹製の横笛です。
六本の指孔と一つの吹口を持ち、澄んだ軽い音が鳴ります。
久保井朗童は、伝統的な篠笛を基にしつつも、演奏者の吹きやすさや音の伸びを考慮して設計しているそうです。
中でも、朗童管は古典調と改良型が存在し、「深みのある豊かな音色」「スキルを問わない吹きやすさ」「現代音楽の演奏にも適したつくり」が特徴です。
朗童は人気の作家ですが令和元年頃に引退しているため、希少価値が高まっています。
山口 四郎は、琴古流尺八の奏者・製作家として知られています。
横浜に生まれ、17の歳で琴古流竹友社の創設者である初代・川瀬順輔に師事しました。
その後は中学校教師を務める傍ら、竹友社で尺八を指導し、1919年からは大阪に移り7年間にわたって琴古流の普及に尽力しました。
1921年には独立し、専門家団体である竹盟社を設立しています。
彼の製作した尺八は「四郎管」と呼ばれ、その独自の形状と豊かな音色によって高い評価を受けました。
特徴として、必要な部分だけに漆を施す地盛り技法、湾曲した管尻、広めの内部構造などが挙げられます。
また、初期から後期にかけて様式が変化しており、時代ごとの作風の違いも魅力の一つとして挙げられます。
現存する四郎管は数が少なく、貴重なものとされています。
質の良さと独創性から「名管」と呼ばれ、今日でも愛好家や演奏家にとって憧れの存在となっています。
井上昌山は、大阪・天王寺にある創業100年以上の老舗尺八工房の三代目であり、演奏と製作の両面で活躍されました。
祖父の代から続く工房を継ぎ、戦後の混乱期を乗り越えて、現代邦楽に対応した高品質な尺八を製作しました。国産真竹を使用し、長期間の自然乾燥や漆仕上げなど、手間を惜しまぬ製作工程が特徴です。
1953年に初代・星田一山に師事し、1958年には第一回の都山流師範試験に首席で合格します。演奏家としてもNHKや歌舞伎の舞台、CM音楽など幅広く活躍し、国内外で演奏活動を行いました。また、邦楽団体「白微草社(はくびそうしゃ)」を主宰し、後進の指導にも尽力。晩年まで第一線で活躍されました。
現在でもその品質から多くの演奏家に愛用されております。
北原精華堂は、1908年に初代・北原篁山によって大阪市西区江戸堀で創業された尺八工房です。
その後1945年に京都へ移転し、現在は三代目・北原郁也氏と四代目・北原宏樹氏が工房を運営しています。
工房では、国産の真竹を選定・採取するところから、尺八の制作・修理までを一貫して行っています。
また、尺八教室も開講しており、尺八の魅力を広める活動を続けています。
北原精華堂の尺八は、美しく幅広い音色、豊かな音量、正確な音程が特徴で、多くの尺八奏者から高い評価を得ています。
菅には「精華」の銘が刻まれています。
荒木古童は、琴古流の尺八奏者および製管師として知られています。
現在は六世まで続いており、初代は江戸末期の人物となります。
特に三世荒木古童は、明治時代から昭和初期にかけて活躍し、その奏者としての技術と管楽器製作の腕前で評価されています。彼の作る尺八は特に高度な技術が用いられており、現存数も少なく貴重なお品物となります。
三世古童の尺八には、歌口に薄い鼈甲を挿し入れる製法が用いられることもあり、この製法で特許を所有しておりました。
三世荒木古童の製管した尺八は現在でも人気が高く、特に三印のものは高評価が期待できます。
引地容山は、現在東京都豊島区に工房を構える尺八製管師です。
18歳の時、教師の勧めから大阪府豊中市の製管師・玉井竹仙の工房に入門したのを契機として、製管師の道を進むこととなりました。
竹仙のもとで製管法や心得を学ぶ傍ら、二代目星田一山に師事して尺八の演奏も学びました。
1975年に荒川で容山銘尺八工房を開き、独立します。一心に尺八製管に取り組みますが竹の不足や倉庫の広さに悩み、やがて現在の豊島区の工房へと移転しました。
容山は九州産の真竹を用い、顧客一人一人のニーズを考えた尺八の製管を行います。自身の吹き手としての側面から初心者・上級者それぞれに向けた扱いやすい尺八を、長年培った技で造り上げます。尺八が吹き手によって完成されると捉える容山であるからこその、細やかな配慮と素直な調律がその作品たちには見受けられるのです。
工房では製管を続けるとともに、現在は尺八教室を開講しており、尺八の普及に大きく寄与されております。