小堀 遠州は、江戸時代初期に活躍した茶人・作庭家・建築家です。
「遠州」という名前は通称であり、本名は「小堀 政一」です。
1579年、近江国(現在の滋賀県)に生まれた遠州は、父親から英才教育を受けて育ちました。
1593年より「古田織部」から茶の湯を学び、茶道や建築など様々な分野で活躍しました。
「名人になる」と織部に評価され、古田や千利休の流派を基盤とした「遠州流」という流派を確立しました。
簡素な中に華やかさを交えた小堀独自の美意識は、「綺麗さび」という言葉で知られています。
生涯で400回もの茶会を開催し、幅広い階層の人々と交流を深めました。
彼が建築や造園に携わった代表的な作品には、『南禅寺金地院』『桂離宮』『仙洞御所』などがあります。
表千家十代 祥翁宗左 吸江斎についてご紹介いたします。
主な功績としては、千利休の二百五十回忌を主催したことや、若くして家元を継承し、徳川治宝から茶の教わりつつ19歳の時に皆伝を授かるなど、若くから表千家を支えたことが挙げられます。
吸江斎は久田家七代 皓々斎宗也の次男として生まれ、表千家九代・了々斎の甥にあたります。
了々斎には嫡男がいましたが早世してしまい、了々斎もまたその2年後に病死してしまいます。そこで表千家は後継問題に直面することとなりました。
養子として表千家に迎えられた吸江斎は了々斎の亡き後、わずか8歳の齢にして表千家十代家元を襲名します。
十歳になると、かつて了々斎も仕えた紀州徳川家十代藩主 徳川治宝に出仕し、1836年には治宝から真台子の点前の皆伝を受けるという異例の待遇を受けました。
吸江斎が幼少で家元を継いだため、皆伝は一時的に先代の了々斎から治宝に預けられていました。その後、吸江斎に返されたという経緯があります。
1839年には、二十歳前後にして千利休の二百五十回忌を主催します。この行事を通じて、利休の精神を後世に伝えることに貢献し、茶道文化の継承と発展に寄与しました。
この様に吸江斎は若くして千家の茶の湯を引き継ぎ、表千家の活動に精力的に取り組みました。
好み物としては、溜二重棚や手付桐煙草盆などが知られています。
表千家九代 曠叔宗左 了々斎についてご紹介いたします。
主な功績としては、十代藩主・徳川治宝の茶頭として仕え、紀州徳川家との深い交流から現在の表千家の表門を拝領したことや、十代楽 旦入と共に紀州御庭焼の製陶に携わり、茶道具の発展に貢献したことなどが挙げられます。
了々斎は、久田家六代家元・挹泉斎宗溪の長男として生まれます。
表千家八代家元 啐啄斎が後嗣の男子に恵まれなかったため、了々斎はその婿養子となり、34歳の頃に表千家の九代家元を襲名しました。
その時啐啄斎は60歳程の年齢であり、入れ替わる形で隠居の身となりました。
了々斎は紀州徳川家十代藩主・徳川治宝の茶頭として仕え、治宝から深い信頼と庇護を受けます。
治宝は歴代藩主の中でも特筆して茶道に深い造詣を持ち、了々斎の指導のもと、利休茶道の免許皆伝を受けるまでになります。
1819年(文政2年)には十代楽旦入と共に紀州御庭焼の製陶に携わり、他にも赤楽や黒楽の茶碗など、多くの茶道具を自ら制作しました。
また、当時の千家十職のうち、楽家の楽了入や永楽家の永楽了全など、了々斎から「了」の字を受けて名乗った職人もおり、その影響力の大きさがうかがえます。
晩年の1822年には、治宝を家元にむかえ茶事を執り行いました。了々斎は二条屋敷にあった武家門を拝領し、それが表千家の表門として今もなお、由緒ある門として表千家の風格を表しています。
了々斎の好み物としては、代表的なもので赤楽・黒楽茶碗が挙げられます。七代の如心斎に強い影響を受けていることから、自作の茶道具にもその精神性が反映されています。
手造 黒茶碗「長袴」という作品が残されており、手造りの筒茶碗は非常に珍しい作品となります。長男・与太郎の6歳の袴着の祝儀に際して作られ、「長袴」と命名されました。
他にも華やかな蒔絵を施した棗や打合盆など、了々斎の好み物の種類は多岐にわたります。
1901年、小田雪窓は鳥取県に生まれました。
1913年、12歳で故郷鳥取の廣徳寺にて得度し、臨済宗の僧となります。その後、修行を重ね、1921年には18歳で京都へ移り、妙心寺に落ち着きました。
1947年、師である瑞巌老師が大徳寺の管長(代表者)に任じられ、僧堂師家の地位に就きます。その後、1955年には臨済宗大徳寺派の管長に就任しました。1966年、小田雪窓は僧侶として、また能書家として卓越した才能を発揮しながら65歳でその生涯を閉じました。
臨済宗の僧侶として最高位に就いた雪窓は、指導者として後進の育成に尽力するとともに、能書家としての活動も活発に行いました。その書は素朴ながらも格調高く、幽玄な雰囲気を漂わせる筆致が特徴です。書画のほか、雪窓の書付のある茶道具作品が現存しています。
また、茶の湯にも造詣が深かった雪窓は、茶杓や蓋置などの茶道具の制作にも携わりました。これらの作品は、彼の美意識と茶道に対する深い理解を物語っています。
立花大亀は臨済宗の僧侶であり、茶道や書道、禅の世界で名を馳せた人物です。
大阪府に生まれた大亀は、22歳の時に南宗寺で得度(僧侶になるための出家)します。その後は臨済宗大徳寺派の徳禅寺住職を経て、大徳寺の住職まで務めました。1982年から1986年までは、花園大学の学長として仏教教育にも力を注ぎました。
茶道の世界では、大徳寺と茶道の深い関係を背景にその精神を広め、伝統を受け継ぎながら新たな発展をもたらしました。書家としても優れた作品を数多く残し、禅の思想を体現したその書風は高く評価されています。
また、政治家や実業家とも深く交流し、その鋭い洞察と助言から「政界の指南役」とも称され、多くの人々から信頼を集めました。
茶道と書道に深い造詣を持ち、茶杓や茶掛などの作品が多く残っております。
今回は表千家八代 件翁宗左 卒琢斎についてご紹介致します。
卒琢斎は表千家七代 天然宗左 如心斎の長男として生まれます。
功績としては、天明の大火から家元を復興させたことや、その後に利休二百年忌の茶事を執り行ったことが挙げられます。
卒琢斎は8歳という幼い齢で父如心斎と死別することになります。しかし、後見を受けた川上不白らの援助や、叔父の裏千家八代 又玄斎に師事することで、茶人として成長していきます。
14歳の頃に表千家を継承し、歴代と同じく、紀州徳川家の茶頭を勤めることになります。同年、卒琢斎は千宗旦百年忌の茶事を見事に成功させました。
彼は50年以上も代継ぎをした、歴代でも特に長い宗匠にあたります。
1788年、京都を襲った大規模な火災である天明の大火が起こります。
表千家の施設も天明の大火によって焼失したと言われており、伝来道具を除く、茶室や道具類の多くが被害に遭いました。
また、卒琢斎自身の資料もその際に失われており、火災が起こる前のおよそ30年間の活動履歴は残っておりません。
しかし卒琢斎は、父如心斎が確立させた家元制度のおかげもあり、多くの人から協力を得て火災から一年での復興を果たしました。
復興の後、すぐさま利休二百年忌の茶事を盛大に執り行い、災害の余波をものともせず精力的に活動していきます。
また他にも、宗旦百五十年忌や如心斎五十年忌を行うなど、長い間家元ととして活動してきたからこそ大きな催しに多く携わることとなりました。
60歳で家督を婿養子である九代 了々斎へと譲り、自身は隠居します。
その際、宗旦という三代と同じ名を名乗ります。この時から、表千家では隠居後に宗旦と名乗ることが慣例となったそうです。
卒琢斎の好み物としては、啐啄斎手造の赤樂の茶碗「慈童」が残されています。他には、溜真塗丸卓や丸香台、利休や宗旦がかつて好んだ造りの茶室が挙げられます。