村田 珠光

村田珠光は、室町時代の茶人です。

茶道における「わび茶」の先駆者として知られています。彼の茶道は、当時の華やかな茶会のスタイルとは異なり、質素で静かな美を追求し、後の茶道に大きな影響を与えました。

珠光は初め、浄土宗の称名寺に入寺しましたが、出家を好まず、京都に移り住んで能阿弥に師事しました。能阿弥のもとで、茶の湯や和漢連句、能、立花、唐物の鑑定など、当時の文化を学び、これらの経験が珠光の茶道に大きな影響を与えました。また、臨済宗の僧・一休宗純とも交流し、禅の教えを受けることで、茶道に禅的な精神性が根付くこととなります。

 

珠光の時代には、豪華な舶来品を用いた茶会が一般的でしたが、彼はこれに対抗する形で、「侘び茶」という新しい茶の湯の精神を確立しました。珠光が提唱した「侘び茶」は、華やかさを排除し、シンプルで素朴な美を重んじるもので、これが後の茶道の基本となります。珠光の死後、この思想は弟子たちに受け継がれ、やがて現代の茶道へとつながっていきました。

珠光の茶道における理念は、彼の言葉に表れています。例えば、「和漢のさかいをまぎらかすこと肝要」と述べ、唐物に偏らず、日本の焼物の素朴な美にも価値を見出すことを提案しました。珠光が残した茶道具は「珠光名物」と呼ばれ、その一部は後の茶人、千利休にも使用されたと伝えられています。また、「月も雲間のなきは嫌にて候」という言葉からは、完璧な美よりも「不足の美」に魅力を感じる珠光の美意識が窺えます。彼は茶室も四畳半という狭い空間に整え、装飾を省き、自然の美と調和を追求しました。

 

珠光の茶道には「心」と「精神」の重要性も色濃く反映されています。禅からの影響を受けた珠光は、物の不足を心の豊かさで補うことを目指し、茶の湯を精神修行の場として捉えました。「慢心や執着が茶道の妨げとなる」と説き、上達した者も常に初心を忘れず、他者に教えを請うことの重要性を強調しました。また、「心の師とはなれ、心を師とせざれ」という言葉には、心をコントロールし、変わりやすい感情に振り回されないようにするという教えが込められています。

珠光に影響を与えた人物として、まず能阿弥が挙げられます。能阿弥との出会いにより、珠光は当時の文化や芸術を学び、審美眼を養いました。特に、和漢連句からは「和と漢の境を超える」という考え方を得て、異なる文化の融合を試みました。
さらに、禅僧・一休宗純からは、無駄を排し、物事の本質を追い求める心を学び、これが珠光の茶道の精神的基盤となりました。

 

珠光自身が「侘び茶」を完全に創り上げたわけではありませんが、彼はその道を示し、後の茶道の発展に重要な役割を果たしました。珠光の理念は富裕層に支持され、弟子たちがその教えをさらに研鑽し続けた結果、茶の湯文化は完成へと向かい、今日に至るまで大きな影響を与え続けています。

 

 

裏千家四代 仙叟宗室

千宗旦の子であり、裏千家初代(四代)家元である仙叟宗室についてご紹介いたします。

 

仙叟宗室は千宗旦の四男であり、裏千家を始めた人物になります
兄弟には江岑宗左(四代表千家)、一翁宗守(四代武者小路千家)らがおり、その三人によって三千家は起こりました。

 

仙叟は茶人となる以前、徳川将軍家に仕えた名医の野間玄琢に師事しており、初めは医師を志します。
しかし、玄琢の死をきっかけに医師ではなく千家の人間として家を継ぐことを決めます。
因みに仙叟宗室は玄室という名で呼ばれることもありますが、その「玄」という漢字は野間玄琢から頂いたものだそうです。

江岑宗左に家督と不審庵を譲った父の宗旦は、隠居屋敷としてその不審庵の裏側に今日庵を建てました。これが”裏”千家と呼ばれる所以です。
玄室も今日庵に移り住み、宗旦と共に過ごすことで茶の湯を学びました。

 

宗旦の尽力もあり、玄室は31歳で大藩である加賀藩主前田家に仕官することになります。
加賀の小松城にて、三代藩主である前田利常におよそ8年間仕え、家臣だけでなく城下町の町人にまで茶道を広く普及させました。その名残は現在の小松市においても、茶の文化として残っているそうです。

その利常と父の宗旦が次いで亡くなると、玄室は裏千家を襲名し、今日庵を継承します。
そして前田家4代藩主の前田綱紀に茶頭として仕えると、金沢城下に屋敷を与えられるなど、人生の大半を金沢で過ごすことになります。

また、たびたび京都にも赴いており、寛文6年(1666年)には楽家四代一入の弟子であった土師長左衛門(大樋長左衛門)を京都から大樋村に招き、窯を築きました。これが、現在の大樋焼であり、楽焼の分派とされる所以です。

金沢市には、仙叟宗室の屋敷跡地である好古庵などといったゆかりの地が現在もあり、小松市同様に仙叟の茶は文化として深く根付いています。

 

晩年仙叟は京都に戻り、千利休の100回忌と利休堂の建立に取り組みますが、その間も金沢には何度も訪れていたそうです。
そして元禄10年(1697年)1月23日、75歳でこの世を去りました。

 

仙叟宗室は初代大樋長左衛門と共に作陶した大樋焼の中でも、渦紋や川海老のものが好みだったとされています。
また、優れた審美眼の持ち主でもあったため、仙叟の箱書があるお品物は非常に高い評価となる場合がございます

狩野 芳崖

狩野芳崖は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した日本画家です。

狩野派の伝統を受け継ぎつつ、近代的な絵画技法を積極的に取り入れたことで知られています。

 

彼は、西洋画の技法を日本画に融合させることによって、新たな表現の道を切り開き、明治時代の絵画界に革新をもたらしました。
狩野派は、元々宮廷や寺院などの重要な場所に絵を描いていた絵師たちの集団で、厳格で写実的な技法を特徴としていました。しかし、芳崖はその伝統を守りつつも、新しい芸術的なアプローチを取り入れることで、日本画の革新を実現しました。

 

芳崖は、京都で生まれました。父親も絵師であったため、幼少期から絵に親しみ、狩野派の流れを汲む絵師として、狩野安信のもとで修業を積みました。狩野派では、写実的な表現とともに、風景画や人物画においても非常に高い技術が求められます。芳崖はこの技術を身につけ、さらに彼自身の個性を加えることで、独自の作風を確立しました。
江戸時代の絵画は、風景や人物を描く際に装飾的で平面的な表現が多かったのですが、芳崖はこれを超えて、立体感やリアリズムを追求するようになったのです

特に、西洋絵画からの影響を受けた点が芳崖の特徴として挙げられます
西洋絵画の写実主義や光と影の使い方、遠近法などを取り入れ、従来の日本画に新たな技法を加えました。
日本画の伝統的なスタイルでは、人物や物の陰影はあまり強調されず、全体的に平面的な印象を与えることが多かったのですが、芳崖はこれを逆手にとって、陰影を用いて人物や風景に立体感を持たせました。また、遠近法を取り入れることで、画面に奥行きや広がりを感じさせ、従来の日本画にはなかったような深い空間表現を可能にしました。これらの技法は、西洋画の影響を受けたものですが、芳崖はそれらを日本画に適用し、独自のバランス感覚を持って作品に取り入れました。

 

芳崖の作品において、西洋画の技法が最も顕著に現れているのは、彼が描いた観音像や仏像です。
特に「悲母観音」の作品は、その完成度と革新性が高く評価されています。この作品では、観音菩薩が抱える悲しみや慈悲の感情を繊細に表現しています。西洋絵画で使われる陰影法が巧みに使われており、観音の顔や衣のしわに自然な陰影が施されています。この陰影の使い方によって、観音像に立体感と深みが生まれ、見る者に感情的なインパクトを与えます。
また、観音の目や表情に込められた感情が、視覚的に強く伝わるため、見る者はその悲しみや慈悲の深さを感じ取ることができます。
芳崖は、観音像の表現において、写実的な技法を駆使し、仏教的なテーマを新しい形で表現しました。このような作品は、従来の仏像画には見られなかった新しい感覚をもたらし、その後の日本画に大きな影響を与えました。

また、芳崖の代表作である「天竜寺襖絵」も、彼の技法の革新を示す作品として重要です。
この絵は、戦国時代の壮大な戦の場面を描いたもので、戦の臨場感や迫力が見事に表現されています。ここでも光と影の使い方が非常に巧妙で、戦の激しさを強調するために、人物や馬の動きがリアルに描かれています。遠近法によって空間が広がり、観る者はその場面に引き込まれるような感覚を覚えます。戦の場面という非常にダイナミックな題材を扱いながらも、芳崖は静謐な美しさも表現し、戦いの激しさと共に、全体に緊張感を持たせることに成功しています。
このように、芳崖は物語性を持つ絵を描く際にも、単に美的な側面だけでなく、感情や物語の本質を伝えるために革新的な技法を使いました。

芳崖は、従来の日本画に革新をもたらし、特に西洋画の技法を取り入れることで、写実的な表現を可能にしました。しかし、西洋画をそのまま模倣するのではなく、彼自身の感性で日本画のスタイルに適応させた点が、彼の作品を独自のものにしています。そのため、芳崖の絵は、当時の日本画の枠を超えて新たな芸術的可能性を示しました。西洋画の技法を取り入れつつも、日本の伝統的な美意識を失うことなく、両者をうまく融合させた点で、芳崖の芸術は非常に革新的であったと言えるでしょう。

 

明治時代に入ると、西洋文化が日本に流入し、絵画においても新しい技法や表現が求められるようになりました。芳崖はその先駆者として、近代的な絵画技法を日本画に取り入れることで、日本画を新たな次元へと引き上げました。彼の作品は、後の日本画家たちに大きな影響を与え、近代日本画の基礎を築く上で重要な役割を果たしました。

 

芳崖の死後、彼の作品はその革新性と美しさから高く評価され、今日でも多くの美術館で展示されています。彼が西洋画の影響を受けながらも、日本の伝統的な技法を守りつつ新たな境地を切り開いたことは、日本画の発展にとって非常に重要な意味を持っており、彼の作品は今後も日本絵画の歴史において光を放ち続けるでしょう。

 

狩野 永徳

狩野永徳は、安土桃山時代を代表する絵師であり、狩野派の最も重要な画家として広く知られています。

 

狩野派は、室町時代後期に創設され、特に戦国時代から江戸時代にかけて、豊富な絵画依頼を受けて華やかな装飾画を数多く制作した絵師の集まりです。狩野派は、特に大名や寺社からの依頼で絵画を描くことが多かったため、その作品は装飾的で豪華なものが多く、金箔や金粉を使用することが特徴です

その中でも狩野永徳は、技術的に最も成熟した画家として、独自のスタイルを確立し、後の時代にも多大な影響を与えました。

 

永徳は、狩野元信の孫として生まれました。
元信は狩野派の創始者であり、狩野家を大きく発展させた人物です。狩野家は、室町時代から戦国時代にかけて、絵画を通じて政治的・宗教的な影響力を持つ存在として成長し、特に大名や寺院から高い評価を受けていました。狩野永徳もまた、祖父や父から絵画の技術を受け継ぎ、狩野派の絵師として名を馳せました。永徳は非常に若い頃から才能を発揮し、その優れた技術と革新性によって、すぐに時の権力者たちから注目を集めることとなります。

 

永徳の画風は、狩野派の伝統的な要素を踏襲しつつも、写実的な表現を重視し、自然界の動きや力強さを画面にうまく取り入れた点が特徴的です
狩野派はもともと、装飾的な美しさを追求する傾向が強く、絵画が寺社や大名家の権力を象徴する役割を果たしていました。そのため、永徳もまた金箔や金粉を多用し、非常に豪華で目を引く作品を制作しましたが、それだけではなく、絵画に動きや生命感を吹き込むことに成功しました。この技術的な革新は、狩野派が持っていた装飾性と写実性をうまく融合させ、従来の日本画の枠を超えた新たな表現方法を生み出しました。

永徳の代表作の一つに「唐獅子図屏風」があります。
この作品は、唐獅子が非常に力強く描かれており、その動きや迫力は画面いっぱいに広がり、観る者に強い印象を与えます。獅子の毛並みや筋肉の質感、さらにはその動きの躍動感が、まるで生きているかのようにリアルに表現されています。
永徳は、動物の筋肉や骨格の構造にまで意識を向け、その描写に写実性を求めましたが、同時に獅子の雄々しさや力強さを強調するために、色彩や構図を巧妙に調整しています。このように、彼は単なる物理的な特徴を描くだけではなく、絵の中に動きと感情を込めることで、観る者に強いインパクトを与えました。この唐獅子図屏風は、永徳の技術力の高さとともに、彼の絵画に対する独自のアプローチを示す代表的な作品となっています。

また、永徳の風景画も非常に高く評価されています。「洛中洛外図屏風」はその代表作の一つで、当時の京都の街並みや風景を描いています。この作品では、京都の市街地や寺院、四季折々の自然が詳細に描かれており、当時の町並みや文化、風俗を知る上で貴重な資料ともなっています。
永徳は、この作品で遠近法を駆使し、平面的な絵の中に立体感を与えることに成功しました。画面の奥行き感や空間を感じさせることで、絵に動きと活気をもたらし、まるで当時の京都の風景が目の前に広がっているかのような錯覚を与えます。永徳はまた、絵の中で人物の動きや表情にも細かな配慮をし、これらの要素が画面全体に生命を吹き込んでいます。

永徳はまた、豊臣秀吉の命令で聚楽第の障壁画を手掛けました。
聚楽第は、秀吉の権力の象徴的な場所であり、その障壁画は秀吉の威厳と豪華さを表現するための重要な役割を果たしました。永徳は、この障壁画の制作において、華麗な金箔や金粉を多用し、その豪華さを際立たせました。しかし、永徳は単に装飾的な美しさを追求するだけではなく、絵の中に動きや緊張感を加えることによって、作品に力強さと深みを与えました。この作品では、動物や人物、風景などが一体となって描かれており、絵画全体に統一感が生まれています。聚楽第の障壁画は、永徳がいかにして政治的な文脈を反映させつつ、絵画の技術を極めたかを示す好例です。

 

永徳が活躍した時代、狩野派の絵師たちは、単なる絵画制作を超えて、政治的な役割も担っていました。信長や秀吉といった権力者は、狩野派の絵師に絵画を依頼し、自らの権力を絵画を通じて象徴することを目的としていました。永徳もその一員として、権力を象徴する絵画を手掛け、狩野派の名声を高めました。彼が制作した作品は、単なる装飾的な絵画にとどまらず、当時の社会や政治の背景を映し出す重要な役割を果たしたのです。狩野永徳の作品は、ただの美術作品としてだけでなく、時代背景や文化的な文脈を深く理解するための貴重な資料でもあります

永徳の死後、狩野派はその技法とスタイルを引き継ぎ、江戸時代にかけて大きな影響を与えました。狩野派の絵画は、その豪華さや精緻さ、そして技術的な完成度によって、日本の絵画の中で重要な位置を占め続けました。永徳が遺した美術的な遺産は、後の絵師たちにとって非常に大きな影響を与え、狩野派の技術やスタイルは、江戸時代の絵画においても重要な基盤となりました。
狩野永徳の作品は、今日においても多くの美術館に所蔵され、彼の芸術的な影響力は時代を超えて今なお評価されています。その絵画は、当時の文化や社会、政治を反映した重要な芸術作品として、今後も多くの人々に感動を与え続けることでしょう。

 

 

飛騨一位一刀彫

飛騨には今回ご紹介する「一位一刀彫」のほかに「春慶塗」などの木工文化がありますが、その始まりは飛騨工と呼ばれる社寺建設の技術者たちです。

飛騨の国には、租・庸・調の税の代わりに里ごとに技術者10人、飛騨国全体で年間100人程の匠丁を都へ送るという法令がありました。これは全国的にも飛騨の国にのみ定められていた制度で、この頃より飛騨工は名工の代名詞として知られ、都の寺院などの建設にその技術を発揮してきました。

 

一位一刀彫は江戸時代、根付師の松田亮長(1799~1871)がイチイの木を用いた根付を制作したことが始まりとされています。
イチイの木は秋に赤い実をつける針葉樹ですが、年輪が詰まってがいるため暴れにくく加工しやすいことに加え、美しい艶と茶褐色が特徴です。

イチイという名前の由来は、イチイの木で作った笏を朝廷に献上したところ、他の木材で作ったものよりも高品質だったことから、位階の最高位である正一位からとってイチイと呼ばれるようになった…という説があります。

飛騨一位一刀彫はこのイチイの木の木目や色艶を活かすため着色等せず作品に仕上げていくもので、国指定の伝統工芸品となっています

 

 

裏千家五代 常叟宗室 不休斎

裏千家五代家元 常叟宗室 不休斎 についてご紹介致します。

 

裏千家四代・仙叟宗室の長男であり、六代・泰叟宗室 六閑斎の父に当たります。

 

不休斎は、その短い生涯と特有の茶道具が注目される人物です。

母を早くに亡くし、父・仙叟宗室とともに京で茶道を学びました。25歳で宗匠を継ぎますが、体が弱く、加賀藩内の老錬な茶人たちとの関係に苦しみます。そのため、松山藩の藩主・前田綱紀に推挙されて松山に移住し、新たな環境で充実した日々を送りました。しかし、享年32歳という若さで急逝し、宗匠としての活動はわずか7年に過ぎませんでした。

常叟宗室は宗匠として「宗室」の名を名乗りますが、宗匠として活動を始める前には法名でこの名を名乗り、後の代継ぎからは「宗室」の名が襲名されることになりました。

不休斎が遺した茶道具は少ないものの、その美意識が色濃く反映されたものが多いです。
中でも「甲赤茶碗」が特に有名です。この茶碗はシンプルな形状ながら、鮮やかな朱色が施されており、簡素でありながら華やかさで力強い印象を与えます。
これらの茶道具は、元禄時代の成熟した町人文化を反映するものとして捉えられるとともに、彼の環境の変化による心持ちを反映しているとも考えられます。

不休斎の書付がある作品、また茶杓や茶碗などの不休斎本人が手掛けた作品は、その名高さや時代性から高い人気を持ちます

 

 

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