須田 菁華

須田菁華は、現代まで続く九谷焼の陶工です。

初代須田菁華は1862年、石川県金沢市に生まれました。
九谷本窯の流れを汲む九谷陶器会社の画工長を経て、1906年、石川県加賀市山代温泉に菁華窯を築きました。染付を始めとして祥瑞・呉須赤絵、古九谷などの彷古品に優れ、その作品は多岐に渡ります

1915年には、「金沢最後の文人」と称された細野燕台に連れられ、まだ無名だった当時33歳の北大路魯山人が菁華窯に訪れており、彼が陶芸の道へ進むきっかけを与えました。

現在は1981年より四代目・須田菁華が名を襲名しており、明治時代から蹴ろくろ・登り窯を用いた作陶を続けています。登り窯は数日間薪を焚き続ける性質上、大量の煙が出てしまい環境に悪影響を及ぼしかねないことが現代においてはネックでしたが、菁華窯では煙を出さない現代の技術を使用することで古来より続く手仕事の技法を守り続けることが可能となっています。

清水 翠東

清水翠東は九谷焼の絵付師です。

1910年に石川県金沢市で生まれ、13歳の時に九谷焼絵付師の伊藤泰山に師事しました。20歳の時には神戸で薩摩焼画師の黒田孝次に師事しています。その後、日本画を学ぶため宮崎翠涛に師事し、展覧会で入選を果たしています。九谷焼の絵付は終戦と同時期に開始しています。1976年に石川県伝統産業功労賞を受賞し、1981年には通産大臣認定の伝統工芸士となっています。

その作風は、九谷焼の五彩に加えて、伝統的な釉裏金彩を施すものです。花鳥風月、山水、人物のモチーフを得意としており、緻密な色付けは金澤九谷絵付師の中でもトップクラスの実力があると言われています。

見附 正康

見附正康は九谷焼の作家です。

1975年に石川県に生まれ、石川県九谷焼技術研修所在学中に九谷焼の名工・福島武山出会ったことで卒業後に師事します。その後は作品が認められない日々が続きますが、ある時オオタファインアーツの大田氏に注目されるようになったことでグループ展に出展するようになったり、経済産業大臣指定伝統工芸技士として認定されたりと活躍の幅を広げることになりました。
その後2007年に独立し、自宅に工房を構え作陶にはげみ、個展やアートイベントにも出展、第9回パラミタ陶芸大賞なども受賞しております。

作風としては人物や花鳥などの伝統的な九谷焼の赤絵の絵付のものありますが、緻密で繊細な線描で描かれた文様やパターンの絵付を得意としており、超絶的な技術が込められた作品には目を見張るものがあります。また、海外で見た建造物などからヒントを得ることもあり、伝統ある九谷焼の絵付と現代的なデザインが融合した新たなジャンルの作品であるとも言えます。

 

山近 泰

山近泰は1975年石川県能美郡にある代々続く窯元に生まれ、幼いころから九谷焼に囲まれて育ちました。
九谷五彩と呼ばれる赤・緑・黄・紫・紺青を駆使して、様々な動物や植物を生き生きと描く新進気鋭の陶芸家であり、その色鮮やかな色彩は、九谷焼の伝統を引き継ぎながらも、幻想的で独特な世界観を創り出しています。
造形から上絵付までの全ての工程を自ら手がける彼の作品は、平成29年伝統九谷焼工芸展で最優秀賞を受賞するなど、多くの美術展や工芸展で高い評価を得ています。
山近泰はもともと清山窯4代目として生まれましたが、独自の世界観を表現するためにも2011年、石川県野々市市に大志窯を開窯しました。

また、2022年にはイタリアの高級車ブランドであるアルファロメオのノベルティ制作を手がけ、さらに活動の幅を広げています。

武腰 潤

現代九谷の代表作家である武腰潤。九谷焼の伝統様式を受け継ぎつつ、現代技術により再現されるその作品は、自身の憧れである古九谷を越えるため、いまなお進化を続けています。

武腰は九谷泰山窯の4代目として石川県に生まれました。大学は金沢美術工芸大学に進み、日本画を学んでいます。大学卒業後、陶芸家・北出不二雄に師事し、陶芸の道へ進みます。1974年、日展に初出品から始まり、日展では順調に入選を重ね、1991年には特選を受賞しました。また伝統九谷焼工芸展へも出品し、優秀賞や大賞の受賞歴があるほか、20周年記念大賞も受賞しています。

1999年には石川県指定無形文化財「九谷焼」の資格保持団体、「九谷焼技術保存会」の会員となり、現在は副会長を務めています。また2016年より、石川県九谷焼美術館館長に就任しました。

初めて古九谷を目にしたときから憧れ続け、素地から釉薬まで全て自作するほどの熱意は、今も衰えることなく新たな作品を産み出しています。

青木 木米

青木木米は、江戸後期の陶工,南画家です。

京都祇園の茶屋「木屋」に青木左兵衛の子として生まれました。俗称は八十八、縮めて米と称し、屋号の木を取ってあわせ木米と名乗りました。字は佐平、号は九々麟・百六散人・古器観・聾米などがあります。

幼少時から文雅の道に興味を抱き、諸々の老大家とすでに交遊をはじめ、文政3(1820)年4月には自伝をまとめています。それによると,本来は陶工ではなく、文人墨客の家で古器を観賞することを趣味としていたといい、大坂の代表的文化人木村蒹葭堂の書庫で清の朱笠亭が著した『陶説』を見て陶工たらんことを心に期したとあります。

奥田頴川(おくだえいせん)を師とし、享和年間(1801~04)にはすでに陶工として世にその名が聞こえていたと言われています。

加賀前田侯の招きで九谷焼を再興し、作陶の指導,文人陶工として一家をなしました。

1824年(文政7)彼が58歳の頃、作画や作陶がもっとも円熟した時期に耳が不自由になり聾米(ろうべい)の号を使い始めました。南画では、東京国立博物館に展示している『兎道朝暾図(うじちょうとんず)』や『新緑帯雨図』『騰竜山水図』などが有名です。