奥磯栄麓は、1930年に京都で画家の両親のもとに生まれました。
28歳まで洋画家を目指していましたが、桃山時代の陶器と出会い、1960年に岐阜県久々利で窯を開きました。
栄麓は考古学の研究も行い、戦国・桃山時代の陶磁器に関する「極め」にも取り組みました。「極め」とは、鑑定書のような役割を果たす箱書きや書のことであり、考古学の知識を活かした活動の一環といえます。
さらに、愛知県春日井市出身の陶芸家・加藤唐九郎の愛弟子としても知られています。加藤唐九郎もまた、桃山時代の陶磁器を研究していた人物です。
栄麓の作品には、志野焼や鼠志野が多く、徳利やぐい呑みのほか、酒器や茶碗なども見られます。東海地方で活動していたため、黄瀬戸、瀬戸黒、織部などの作品も手掛けていますが、代表的な作品は志野焼です。
特に評価が高い作品の特徴として、志野焼の中でも器肌に紅い溶岩のような模様が入っているものが挙げられます。また、1987年に亡くなる直前の晩年作は希少性が高く、特に高い評価を受けています。
古田織部は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、著名な茶人でもあります。
彼の本名は古田重然(しげなり)で、美濃国(現在の岐阜県)の出身です。彼は初め織田信長に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となり、茶の湯(茶道)においても重要な役割を果たしました。
武将としての経歴
古田織部は、17歳で織田信長に仕官し、桶狭間の戦いや信長の上洛戦などで功績を上げました。信長の死後は豊臣秀吉に仕え、九州征伐や小田原征伐などに参加し、その武功により豊臣秀吉から「織部」の官職名を授けられました 。これにより、古田織部として広く知られるようになりました。彼の軍事的才能は高く評価され、多くの戦役で重要な役割を果たしました。
茶人としての活躍
古田織部は、茶の湯の世界でも大きな影響を与えました。千利休の弟子として学び、「利休七哲」の一人に数えられています。利休の教えを受けながらも、織部は独自の美意識を持ち、従来の茶の湯とは異なる革新的なスタイルを確立しました。彼のスタイルは「織部好み」と呼ばれ、これは大胆で独特な形状とデザインを特徴としています 。
織部焼

古田織部が考案した「織部焼」は、その独特の美しさと創造性で知られています。織部焼は、透明釉薬に酸化銅などを加えて酸化焼成したもので、緑色の釉薬が特徴です。この釉薬により、織部焼は独自の風合いを持つ陶器となりました。また、織部焼の形状は従来の茶器とは異なり、歪んだ形や大胆な幾何学模様が特徴で、これは織部の独特な美意識を反映しています 。さらに、織部は多くの茶器や食器に新しいデザインを取り入れ、茶道具の世界に革新をもたらしました。
古田織部の美意識と創造性は、彼の師である千利休の影響を受けながらも、独自の道を切り開きました。千利休の茶の湯が静謐でシンプルな美を追求したのに対し、織部は大胆で動的な美を追求しました。これは彼の個性と創造力を反映しており、多くの弟子や後世の茶人に影響を与えました。織部の茶の湯は、形式にとらわれない自由な発想と、個々の器の美を引き立てることを重視しました 。このため、彼の茶会は常に新鮮で独創的なものであり、多くの茶人や文化人に愛されました。
織部焼の代表的な作品
当時の織部焼の作品は、現在でも多くの美術館やコレクションに収蔵されており、その美しさと独創性は高く評価されています。例えば、「織部筒茶碗 銘 冬枯」や「織部松皮菱形手鉢」、「織部四方手鉢」などの作品は、いずれも重要文化財として指定されており、茶道具の世界においてその価値が認められています。また、古田織部が手掛けた茶室や庭園も、織部好みの美意識を反映しており、訪れる人々に感動を与え続けています 。
最後と影響
古田織部の最期は波乱に満ちたものでした。徳川家康の息子である秀忠に仕えた後、豊臣方との内通を疑われ、慶長20年(1615年)に切腹を命じられました。しかし、その死後も彼の美意識と茶道への影響は長く続きました。織部の茶の湯のスタイルは、後世の多くの茶人に受け継がれ、現在でも「へうげもの」として親しまれています 。
古田織部は、戦国時代から江戸時代初期にかけての日本の茶道に大きな影響を与えた人物であり、その革新性と美意識は、現代でも高く評価されています。彼の作品や茶会のスタイルは、多くの人々に愛され続けており、茶道の世界において重要な位置を占めています。織部の革新性は、茶の湯の枠を超えて、陶芸や建築、庭園デザインなど、多岐にわたる分野でその影響を与えました。
古田織部の遺したものは、ただの茶器や茶会の形式だけではありません。彼の生き方そのものが、常に新しいものを追求し、伝統に挑戦し続ける姿勢を象徴しています。
鯉江良二は愛知県常滑市の陶芸作家です。アルバイト中の事故で、右手の指を2本失うというハンデを抱えながらも、精力的に制作に取り組み続け、その独創的な発想で、従来の焼き物の枠組みを超えた自由な作風が特徴となっています。
青年時代の鯉江は、県立常滑高校窯業科を卒業し、タイル工場で勤務していました。しかし、24歳の頃工場を辞め、常滑市立陶芸研究所へ入ります。ここで5年間本格的に陶芸について学び、退所後独立して陶芸家としての道を歩み始めました。伝統に捉われず、ときには前衛的でもある鯉江の評価は高まっていき、1970年の大阪万博では大型陶製ベンチの企画・制作を行っています。その作品は海外でも評価され、1972年の第3回バロリス国際陶芸ビエンナーレ展では国際名誉大賞を受賞したほか、国外での展覧会・講演なども行っています。2008年には日本陶磁協会賞金賞を受賞しました。
制作スタイルはまさに自由奔放で、日常使いの型の決まった陶器をあえて崩してみたり、代表作『土に還る』では自身の顔を石膏型でとり、シェルベン(衛生陶器のリサイクル用粉末)で焼き固めるなど、従来の陶芸にこだわらない独自の作品を生み出しています。
代表作としては他に『マスク』『チェルノブイリシリーズ』などがあります。