林 正太郎は岐阜県土岐市下石町の窯元の子供として生まれました。
商業高校を卒業後、名古屋で就職しましたが、すぐに岐阜県に戻ってきました。
それから兄である林 孝太郎に師事し、陶作を手伝うようになりました。
初期の頃はガス窯を利用し、天目や黄瀬戸など様々な作品を制作しました。
24歳の時に朝日陶芸展知事賞を受賞、翌年の1972年には日本伝統工芸展初入選や朝日陶芸展優秀賞に輝きました。
1974年には独立し、中日新聞社新人賞受賞を受賞しました。
1993年美濃陶芸展で最高の大賞を受賞、翌年には美濃陶芸展で加藤幸兵衛賞を受賞、1997年には庄六賞を受賞致しました。
この3つの賞を立て続けにとる事は同展が開催されて初めての快挙と言われております。
2002年には土岐市指定の重要無形文化財保持者に認定されております。
2012年には県指定重要無形文化財「志野」の保持者に認定されます。
作品の多くは「志野焼」です。釉薬をたっぷり使った豪快な作風が特徴的で、作品全体から感じられる迫力に圧倒されながらも、魅了されます。
その他にも、織部や天目など様々なジャンルの陶芸作品を作陶しています。
小西平内は、兵庫県西宮市に「太閤窯」を構える陶芸家、およびその名跡です。
太閤窯を築いた初代・平内とその甥の二代・平内がおり、世に多く出ているのは二代の作品となります。なのでここでは、主に二代の紹介をさせていただきます。
二代は1928年に愛媛県に生まれ、十代のうちに叔父の初代に師事します。初代のもとで作陶技術を学んだあと、翌年には昭和の光悦と称される川喜田半泥子に師事し、茶陶作りの技術を身に着けていきます。
1964年に叔父の隠居に伴い、二代・小西平内を継ぐことになります。その後は大阪三越での初個展にはじまり、国内外での活躍を見せました。
楽焼・伊賀焼による茶陶を中心に制作し、伝統的な茶陶の精神を大事にされた作品を多く残されています。特に黒樂茶碗、赤樂茶碗は小西平内の精神を体現したような代表作品であり、その実力は茶道裏千家十五代家元である鵬雲斎大宗匠からも高く評価されています。
神山易久(こうやまやすひさ)は、信楽生まれ信楽育ちの信楽焼の陶芸家です。
1936年に生まれ、1955年より近江化学陶器で働きながら、陶磁器デザイナーの日根野作三に師事し、陶磁器の理解を深めました。
妻は同じく陶芸家の神山清子であり、同じ「近江化学陶器」という会社に勤めておりました。やがて「近江化学陶器」の経営が傾き始めたのを機に妻・清子が独立し、工房を立ち上げます。易久はライバル会社「日本陶飾」にヘッドハンティングされますが、人間関係の不和から四年で会社を辞め、清子の工房に入ります。
清子と共に半地上式穴窯「寸越窯」を築窯し、信楽陶器の製作、自然釉の再現を行いますが、その後離婚。以降は国内外で個展を開くなど広く活躍されました。
2019年には、二人がモデルとして採用されたNHKの連続テレビ小説『スカーレット』が放送されています。
神山清子の再現した自然釉は、窯の中で器に降りかかった蒔の灰が自然と釉薬状になる焼き方です。つまりは、釉薬を一切使わない焼き方と言えます。
あらかじめ釉薬を仕立てないので、窯の中での灰の掛かり方は自然の成り行きに任せる形となり、結果として様々な表情を見せるものとなります。清子と易久でもまた変わった表情の作品が制作されております。
吉田萩苑は1940年 山口県萩市三見床並に生まれます。15歳より人間国宝の十代 三輪休雪に入門し修行を重ね、天鵬山窯の開設に際し技術指導者として招かれ尽力しました。
1968年生まれ故郷である山口県萩市玉江に玉隆窯を開設しますが1986年の事故により46歳という若さでこの世を去りました。
吉田萩苑に関する略歴や詳しい情報はかなり少なく、現状分かっているのは上記の部分のみとなります。
1939年、福岡県大牟田市に生まれ。
1960年にデザイナーを目指し東京芸術大学美術学部工芸科に入学するが、安保闘争の影響によりデザイン系の科目を受講することができず、新設されたばかりの陶芸科を選んだことをきっかけに、陶芸の道を進むことになる。
大学院陶芸専攻科修了後、茨城県いわき市の常磐窯業株式会社に勤務するが一年後に退社。活動の場所を笠間に移し、一年間松井康成に師事した。
茨城県窯業指導所の研修生となるが、まもなく笠間市内に築窯して独立し、本格的な作陶活動を展開するようになる。
作品の表面に布目の文様を写し出す布目技法が用いられているのが特徴的。
布目の紋様の上に、花や草木などの絵柄を絵付し、しっとりとやわらかい印象を与えた作品を手掛けている。
布目技法により独自の世界観を作り上げ、1999年に紫綬褒章を受章する。
池田 退輔は斎藤茂吉文化賞を受賞されている方です。
池田退輔は1923年山形県生まれで1957年に本間美術館の庭園に東京芸大の浅野陽、三浦小平二らの指導を受けて、楽焼窯を造り作陶を始めます。
村瀬治兵衛、小山不二夫両氏の指導を受け茶碗を造りはじめ、本間美術館所蔵の初代 長次郎の黒焼茶碗など数々の名品を手本に本間祐介館長とともに池田退輔と共に研究を重ね独自の技法研究を積みました。
その後、陶芸家の村瀬治兵衛、小山富士夫らの指導を受けながら本格的に楽焼の道に進み、砂丘地で陶芸家が少ない山形県で独自の土造りに努力し、本間焼として名をあげるまでに至り、本間焼というブランドが生まれました。
また、池田退輔の作品には陶印から作成された時代が分かるのも特徴的で、1930年以前は『無印』となり1930年~1940年までは『本』1940年以降は『退』となっており、画像のお品物には陶印はありませんでしたので、1930年以前に作られた比較的若い頃のお品物という事が分かります。