前田 青邨

前田青邨(まえだせいそん)は、岐阜県出身の日本画家です。
歴史画の名手であり、また近代日本画家・平山郁夫の師匠としても知られております。

日本の伝統的な大和絵を学び、ヨーロッパ留学で西洋絵画、とくに中世イタリア絵画の影響を受け、武者絵などの歴史画を軸として花や鳥といった自然物まで幅広い題材の作品を制作しました。

画壇から日本画界の発展を支え文化勲章を受賞したほか、法隆寺金堂の壁画の修復や高松塚古墳の壁画の模写など、歴史的・文化的事業にも多く携わった芸術家です。晩年にはローマ法王庁の依頼を受け、バチカン美術館に収蔵する「細川ガラシア夫人像」を完成させています。

前田青邨の作風で特に有名なのは、綿密な鎧兜の描写がされた武者絵なのではないでしょうか。代表作である1929年の作品『洞窟の頼朝』は、重要文化財にも指定されております。大胆な構図で、なおかつ風格を感じさせる線や色使いは花鳥画などでも見受けられ、青邨の人気の所以であることが窺い知れます。

酒井 抱一

「酒井抱一」は江戸琳派を代表する絵師で俳人の一人です。尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風と俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻弄したことでとても人気となり、江戸時代琳派の祖となった人物です。

酒井抱一は、1761年、姫路藩主・酒井忠恭の孫として神田小川町に生まれました。彼が生まれた酒井雅楽頭家は、代々文芸を重んじる家柄であったため、幼いころから芸術に親しむ環境にありました。

37歳の時、抱一は西本願寺にて出家し、その後、権大僧都となりますが、間もなく職を辞し、下谷根岸に「雨華菴」を構えて、書画や俳諧に親しむ生活を送るようになります。

49歳の頃には、雨華菴にて谷文晁をはじめとする文化人たちと交流を深め、見識と人脈を広げていきました。

酒井抱一の功績は非常に多く、特に知られているのは、尾形光琳に私淑し、その画風の再興に尽力したことです。1815年には、光琳の百回忌を記念して《光琳百図》および《尾形流略印図》を作成し、1823年には《乾山遺墨》を刊行するなど、琳派の継承と発展に大きく貢献しました。

酒井抱一の画風は情緒的でありながら洒脱な画風をしています。
画業の始まりは狩野高信から狩野風を学んだことから始まり、琳派の装飾的な技法を受け継ぎつつ、宋紫石について沈南蘋の写生画風、歌川豊春から浮世絵、さらに土佐派・円山派の技法の習得、伊藤若冲の技法も積極的に取り入れる等の多数の技法を習得し、独自の画風を確立していきました。

伊藤 若冲

伊藤 若冲は「動植綵絵」で現代になってから人気が爆発したとてもめずらしい絵師です。
江戸時代中期に京都の青物問屋「桝源」の長男として生まれ、その時は8代将軍徳川吉宗の財政改革(享保の改革)により幕府の財政を立て直し、町衆が文化の担い手となることで、江戸や京で様々な文化が花開こうとしていた活気あふれる時代でした。
若冲は幼少期から優れた画才を発揮し、10代半ば過ぎ頃に狩野派の流れを組む大岡春卜に師事するも中国からもたらされた宗元画にとてもとても強く惹かれ、熱心に模写してその技術を模倣、習得いたしました。20代で家業を継ぐも、絵を描くことが楽しすぎて家業そっちのけで写生を行っていたというまるで幼子のようなかわいらしい一面も覗かせます。
そんな日々の中、博識の大典禅師と出会い画才を認められたことがきっかけで若冲は禅に帰依していきました。

40歳になると次弟に家督を譲って大典禅師が住持であった相国寺へ移り住み、絵師として身を立てる事を夢に日々生活をしていくようになりました。
ほどなくして若冲は独自に磨いてきた画才をいかんなく発揮し、最高級の岩絵具をふんだんに用いて動植物を丹念に描いた花鳥画「動植綵絵」に取組み、50歳になった若冲は「動植綵絵」の内、24幅と「釈迦三尊像」3幅を相国寺へ寄進し、翌年にはさらに6幅を寄進することで若冲畢生の名作「動植綵絵」は完成しました。
とても壮大で時間がかかっている作品ですね。

50代になった若冲は江戸で盛んになっていた版画や、水墨画に才をいかんなく発揮しましたが、70代に好事魔多しで天明の大火によって自宅を焼失したするという不幸に見舞われました。
その後、旧友の木村藼葭堂を頼って大阪へ向かい、不幸に負けずに斬新な構図と華やかさを兼ね備えた「仙人掌群鶏図障壁画」をはじめとする傑作を次々と手掛けていきます。そして、70代後半より世俗を離れて石峰寺の門前に隠棲し、米と絵を交換するという意味の号「斗米菴」を制作後も様々な作品を世に残していきました。

竹内 栖鳳

竹内栖鳳は、横山大観と並び近代日本画の大家として、非常に有名な人物です。

1864年、京都二条城にほど近い料理屋の長男として生まれました。1877年に四条派絵師の元で絵を学ぶようになり、1881年には川合玉堂上村松園の師でもある幸野楳嶺の画塾へ入門します。1887年、結婚を機に独立し、様々な展覧会で作品を発表していくようになりました。1900年のパリ万博では、出品作が賞をとったことから、栖鳳自身もヨーロッパを訪れます。本場の洋画を学び帰国すると、号を「棲鳳」から「栖鳳」へ改めました。1907年以降は文展や帝展の審査員を歴任し、1913年には帝室技芸員となります。1937年の第一回文化勲章も大観と共に受章しました。

四条派日本画を基礎としつつ、他の画派や西洋技法も取り入れて描かれる作品は、従来の日本画とは一線を画すものですが、この栖鳳の柔軟さが近代日本画の革新に繋がったのは間違いないといえます。そんな栖鳳の作品の中で最もその特徴が表れているのが動物画です。対象の姿を忠実に写し取るだけでなく、そこに漂う空気感までも描くその作品は「動物を描けばその匂いまで描く」と評されるほどです。

作品の評価は非常に高く、「東の大観、西の栖鳳」と称され、現在でもコレクター垂涎の的となっています。

代表作の『絵になる最初』・『斑猫』は国の重要文化財にも指定されました。