新井 白石

新井白石は、江戸の政治家・学者です。

1657年3月、明暦の大火の翌月に避難先であった江戸柳原(現在の足立区)で生まれました。
幼少期より学問に才能を示し、聡明でありながら気性が激しく怒ると額に「火」の字に見えるしわが出来たこと、大火の翌月に生まれたことから「火の子」と呼ばれました。

長らく独学で朱子学を学んでいましたが、1686年、29歳のころ朱子学者である木下順庵に入門しました。白石は順庵の門下生の中でも木門十哲と呼ばれる特に優れた十人の一人に数えられ、のちの徳川六代将軍・家宣である徳川綱豊が藩主を務める甲府徳川家がお抱えの儒学者を探しに来た際は順庵よりこれに推挙されました。

その後家宣が将軍となると、家宣は五代将軍・綱吉の側近らを解任し、甲府徳川家時代からの間部詮房、そして新井白石を登用しました。
白石らは正徳の治と呼ばれる政治改革を行い、生類憐みの令の廃止や海舶互市新例の制定などを行いましたが、家宣没後新たに七代将軍となった徳川家継は8歳で夭折し、八代将軍に徳川吉宗が就任すると白石らは失脚、引退へと追い込まれました。

政治家として有名な一方で、学者、詩人としても名が高く、日本政治史論書『読史余論』、密航して長崎で捕らえられた宣教師シドッチを尋問して得た情報をもとにした西洋事情研究書『西洋紀聞』『采覧異言』など、多くの著書を残しています。

藤原 定家

藤原 定家は、『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』の撰者として知られる歌人です。
本歌取」という有名な古歌の一~二句を自作に取り入れる技法を推進し、当時としてはかなり前衛的な和歌を詠みました。

書においては、濃い墨で一文字一文字をはっきりと書く独特の書風が、「定家流」として多くの歌人に愛されたといいます。

さらに、定家は『明月記(めいげつき)』と呼ばれる日記を、約58年間にわたり書き続けた事でも知られています。宮廷の様子や政治の動きなどを記録したこの日記は、2000年に国宝に指定され、現在も貴重な史料とされています。また、和歌にとどまらず『源氏物語』や『伊勢物語』など古典作品の写本や校訂にも携わり、後世の古典研究に重要な足跡を残しました。

藤原定家は、和歌の創作だけでなく古典文学の研究にも尽力した人物として、中世以降の日本文学・文化に大きな影響を与えています。

徳川 斉昭

徳川 斉昭は江戸時代に活躍した大名であり、江戸幕府十五代将軍・徳川慶喜の実父としても知られています。
また、斉昭は漢詩や漢文、書の作品を多く残し、文化人としても高い評価を受けています。

1800年、江戸小石川の水戸藩邸にて、水戸藩第七代藩主・徳川治紀の三男として生まれました。
会沢正志斎のもとで水戸学を学び、部屋住みとして過ごしていましたが、1829年に兄の跡を継いで第九代水戸藩主となります。

藩主就任後は、藩財政の再建や藩士の規律強化に努め、弘道館の設立や偕楽園の造園など、藩政改革を積極的に推進しました。

しかし1844年、大規模な軍事訓練の実施や寺院整理による仏教弾圧などの改革が幕府に警戒され、謀反の疑いをかけられて隠居を命じられました。
藩政の実権は「門閥派」と呼ばれる結城寅寿らに移りましたが、下士層を中心とする復権運動の高まりもあり、1849年に謹慎を解かれて藩政への関与を許されました。

1853年のペリー来航の際には海防参与として幕政に加わり、攘夷論を唱えて外国排斥を主張しました。
しかし、開国を進める井伊直弼らと対立し、次第に幕府内での影響力を失っていきます。
その後も将軍継嗣問題や日米修好通商条約の調印をめぐって争いが続き、1859年には水戸藩江戸屋敷での「永蟄居」を命じられました。そして翌年、処分が解かれないまま水戸で亡くなりました。

政治家としては厳格な藩政改革を断行し、文化人としては弘道館や偕楽園を築いた斉昭は、幕末の日本に大きな思想的影響を与えた人物として今も語り継がれています。

親鸞

鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん)は、浄土真宗の宗祖として知られ、「親鸞聖人」と尊称されています。

1173年に京都で生まれ、争いや災害、疫病、大飢饉が相次ぐ不安定な世の中で幼少期を過ごします。

叔父に伴われて9歳で出家し、比叡山延暦寺にて修業に励みました。
しかし、20年修行を続けても悩みが絶えなかった親鸞は、山を下りて聖徳太子ゆかりの六角堂に籠もることを決めました。

六角堂で過ごしてしばらく経ったある晩、聖徳太子が夢に現れました。
親鸞は、これをきっかけに法然のもとを訪ね、教えを学ぶようになります。

その後、親鸞は「阿弥陀仏の力を信じて念仏を唱えれば、善人・悪人関係無く皆が救われる」という法然の教えを広めましたが、他宗から強い反発を受けたことで朝廷が弾圧に踏み切り、越後へ流罪となってしまいます。

のちに罪を許された親鸞は関東へ向かい、布教活動を行いながら約20年間滞在しました。
63歳になると京都へ戻り、亡くなるまで布教と執筆活動に励んだといいます。

親鸞の教えは受け継がれ、今では日本国内で最多の信者数を誇る宗派として、人々の心の支えとなっています。

自筆の書や、後年の復刻工芸などは美術品としても親しまれております。

本居 宣長

本居 宣長は、江戸時代を代表する国学者・医師です。
荷田春満・賀茂真淵・平田篤胤と共に、日本らしさを追求する「国学」という分野を確立させました。

宣長は、1730年に伊勢国松坂の木綿問屋である小津家に生まれました。
23歳になると医師を志し、京都で医学朱子学を学び始めます。
数年後には帰郷して開業し、生涯にわたって町医者として尽力しました。

また、古典の研究に力を注いだことでも知られ、『源氏物語』でみられる「もののあはれ」という情緒こそが、文学の本質であると提唱しました。

さらに、平仮名が登場する以前に書かれ、解読不可能とされていた『古事記』を、一文字ずつ解読して江戸の言葉に直しました。そして約35年を費やして完成したのが、かの有名な『古事記伝』です。

本居宣長は、医師として活躍しながら国学者として日本文化の本質を究め、日本文学の研究や国学の発展に大きく貢献しました。

隠元 隆琦

隠元 隆琦は、中国福建省生まれの禅僧です。

臨済宗や曹洞宗と並ぶ、日本の三大禅宗のひとつである「黄檗宗」の開祖として知られています。

1592年に福建省で生まれた隠元は、28歳で出家。35歳で悟りを開きました。

長崎の唐人社会から来日してほしいという強い要望があり、四度目でこれを受け、63歳で弟子20人と共に来日しました。その後、宇治に新たな寺を創建し、名前を中国の自坊と同じ「黄檗山萬福寺」としました。

また、隠元は煎茶・隠元豆・孟宗竹(たけのこ)・木魚などを日本へ持ち込んだ事でも知られています。

隠元は、掛軸や語録、書物など多くの作品を残しました。

弟子である木庵性瑫即非如一とともに「黄檗の三筆」と称されるほど、書の腕前は見事だったといいます。

黄檗宗の僧に対する規則を定めるなど、停滞していた日本の禅宗の発展に貢献しました。

禅の教えや隠元が持ち込んだ文物は、日本の歴史や文化の発展に大きく影響を与えています。

代表作には『隠元禅師語録』『普照国師語録』などがあります。

 

細井 広沢

細井 広沢は、江戸時代中期に活躍した儒学者・書家・篆刻家です。 1658年、遠江国掛川(現在の静岡県)に生まれた細井は、11歳で江戸に出ました。 その後は、1672年から坂井漸軒に「朱子学」を、1677年から北島雪山・都 …

伊藤 蘭嵎

伊藤 蘭嵎は、江戸時代中期に活躍した儒学者です。 1694年、蘭嵎は儒学者の「伊藤仁斎」の五男として京都に生まれました。 父親の仁斎は、一般的な朱子学よりも古義学こそ正しい儒学であると考え、町民に学問を広めた人物です。 …

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織田信長は、戦国時代に活躍した日本随一の知名度を誇る武将です。 尾張(現在の愛知県)に生まれ、若くして織田家の当主となった彼は、型破りな発想と大胆な行動力で急速に勢力を拡大していきました。   1560年、今川 …

愛新覚羅 溥傑

愛新覚羅 溥傑は、清・満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀の同母弟です。 ラストエンペラーの実弟として、波乱万丈な生涯を歩みました。 皇帝一族である愛新覚羅家は、その政治的・歴史的な役割のほかにも書家として高名です。 書の格と …

大綱 宗彦

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藤村 庸軒

藤村庸軒は、千利休の孫にあたる千宗旦の直弟子であり、山田宗徧、鈴木普斎、久須見疎安らとともに「宗旦四天王」と呼ばれる茶匠です。表千家の流れをくむ庸軒流の開祖であり、漢詩にも精通した文化人でもあります。 庸軒は表千家久田流 …

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