徳川 家康

徳川家康は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、江戸幕府を開いた初代征夷大将軍です。三河国(現在の愛知県)岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれました。幼少期には織田家、続いて今川義元のもとで人質となり、不安定な日々を過ごしました。

1560年の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、家康は三河に戻って独立し、ほどなく信長と清洲同盟を締結します。その後、三河国の平定を進め、同盟関係の中で戦国大名としての地位を固めていきました。

1572年の三方ヶ原の戦いでは、武田信玄率いる大軍に敗北します。この敗戦は家康にとって生涯忘れられない教訓となり、後に「三大危機」の一つとして語られました。また、三河一向一揆の鎮圧や、伊賀越えなど数々の試練を経験しています。

その後、豊臣秀吉と和睦し、秀吉の天下統一に協力。1590年の小田原征伐後には関東の広大な領地を与えられ、江戸城を本拠地としました。

1600年には関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍を破り、実質的に日本全土を支配する地位を確立。1603年には征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きました。

家康は軍事的手腕だけでなく政治・外交においても優れ、長期的な安定を目指した統治体制を築きました。その基盤は、慎重さと忍耐を重んじる姿勢に支えられており、江戸幕府が約260年続く礎となりました。

将軍職は早くに嫡男・秀忠に譲ったものの、大御所として実権を保持し続け、1614年・1615年の大坂の陣によって豊臣家を滅ぼし、体制を固めました。

1616年に没した後、まず駿府に埋葬され、翌年には日光山に改葬されました。家康は「東照大権現」として神格化され、現在も日光東照宮に祀られています。

島津 久光

島津 久光は、江戸時代末期から明治にかけて活躍した政治家です。

1817年、久光は薩摩藩十代藩主・島津 斉興の息子として生まれました。
藩主の後継をめぐる兄・島津斉彬との派閥争い(お由羅騒動)の結果、斉彬が藩主となります。
1858年に斉彬が亡くなり久光の実子が藩主に就任すると、久光は権力を持ち、藩の軍制・藩政改革などに関わりました。

1862年には公武合体運動を推進するために藩兵を率いて上京し、道中では薩摩藩が尊皇攘夷の過激派志士を弾圧した寺田屋騒動が起きました。その後は江戸幕府と交渉し、多くの改革案を承認させます。この後に藩兵によるイギリスの民間人殺傷事件(生麦事件)が発生し、薩英戦争へと繋がったとされています。

幕末期には、藩の実権者として京都・江戸の政治交渉に携わり、藩を代表して幕府や朝廷との調整を行いました。明治維新後も旧藩勢力の立場を新政府内に維持しつつ、急進的改革には慎重な姿勢をとりました。

晩年には鹿児島へ戻り、島津家に伝わる史料の収集や史書の著作・編集に専念しました。
久光は、藩の統制と政治実務に優れ、幕末期の薩摩藩を支えた人物として高く評価されています。

新井 白石

新井白石は、江戸の政治家・学者です。

1657年3月、明暦の大火の翌月に避難先であった江戸柳原(現在の足立区)で生まれました。
幼少期より学問に才能を示し、聡明でありながら気性が激しく怒ると額に「火」の字に見えるしわが出来たこと、大火の翌月に生まれたことから「火の子」と呼ばれました。

長らく独学で朱子学を学んでいましたが、1686年、29歳のころ朱子学者である木下順庵に入門しました。白石は順庵の門下生の中でも木門十哲と呼ばれる特に優れた十人の一人に数えられ、のちの徳川六代将軍・家宣である徳川綱豊が藩主を務める甲府徳川家がお抱えの儒学者を探しに来た際は順庵よりこれに推挙されました。

その後家宣が将軍となると、家宣は五代将軍・綱吉の側近らを解任し、甲府徳川家時代からの間部詮房、そして新井白石を登用しました。
白石らは正徳の治と呼ばれる政治改革を行い、生類憐みの令の廃止や海舶互市新例の制定などを行いましたが、家宣没後新たに七代将軍となった徳川家継は8歳で夭折し、八代将軍に徳川吉宗が就任すると白石らは失脚、引退へと追い込まれました。

政治家として有名な一方で、学者、詩人としても名が高く、日本政治史論書『読史余論』、密航して長崎で捕らえられた宣教師シドッチを尋問して得た情報をもとにした西洋事情研究書『西洋紀聞』『采覧異言』など、多くの著書を残しています。

藤原 定家

藤原 定家は、『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』の撰者として知られる歌人です。
本歌取」という有名な古歌の一~二句を自作に取り入れる技法を推進し、当時としてはかなり前衛的な和歌を詠みました。

書においては、濃い墨で一文字一文字をはっきりと書く独特の書風が、「定家流」として多くの歌人に愛されたといいます。

さらに、定家は『明月記(めいげつき)』と呼ばれる日記を、約58年間にわたり書き続けた事でも知られています。宮廷の様子や政治の動きなどを記録したこの日記は、2000年に国宝に指定され、現在も貴重な史料とされています。また、和歌にとどまらず『源氏物語』や『伊勢物語』など古典作品の写本や校訂にも携わり、後世の古典研究に重要な足跡を残しました。

藤原定家は、和歌の創作だけでなく古典文学の研究にも尽力した人物として、中世以降の日本文学・文化に大きな影響を与えています。

徳川 斉昭

徳川 斉昭は江戸時代に活躍した大名であり、江戸幕府十五代将軍・徳川慶喜の実父としても知られています。
また、斉昭は漢詩や漢文、書の作品を多く残し、文化人としても高い評価を受けています。

1800年、江戸小石川の水戸藩邸にて、水戸藩第七代藩主・徳川治紀の三男として生まれました。
会沢正志斎のもとで水戸学を学び、部屋住みとして過ごしていましたが、1829年に兄の跡を継いで第九代水戸藩主となります。

藩主就任後は、藩財政の再建や藩士の規律強化に努め、弘道館の設立や偕楽園の造園など、藩政改革を積極的に推進しました。

しかし1844年、大規模な軍事訓練の実施や寺院整理による仏教弾圧などの改革が幕府に警戒され、謀反の疑いをかけられて隠居を命じられました。
藩政の実権は「門閥派」と呼ばれる結城寅寿らに移りましたが、下士層を中心とする復権運動の高まりもあり、1849年に謹慎を解かれて藩政への関与を許されました。

1853年のペリー来航の際には海防参与として幕政に加わり、攘夷論を唱えて外国排斥を主張しました。
しかし、開国を進める井伊直弼らと対立し、次第に幕府内での影響力を失っていきます。
その後も将軍継嗣問題や日米修好通商条約の調印をめぐって争いが続き、1859年には水戸藩江戸屋敷での「永蟄居」を命じられました。そして翌年、処分が解かれないまま水戸で亡くなりました。

政治家としては厳格な藩政改革を断行し、文化人としては弘道館や偕楽園を築いた斉昭は、幕末の日本に大きな思想的影響を与えた人物として今も語り継がれています。

親鸞

鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん)は、浄土真宗の宗祖として知られ、「親鸞聖人」と尊称されています。

1173年に京都で生まれ、争いや災害、疫病、大飢饉が相次ぐ不安定な世の中で幼少期を過ごします。

叔父に伴われて9歳で出家し、比叡山延暦寺にて修業に励みました。
しかし、20年修行を続けても悩みが絶えなかった親鸞は、山を下りて聖徳太子ゆかりの六角堂に籠もることを決めました。

六角堂で過ごしてしばらく経ったある晩、聖徳太子が夢に現れました。
親鸞は、これをきっかけに法然のもとを訪ね、教えを学ぶようになります。

その後、親鸞は「阿弥陀仏の力を信じて念仏を唱えれば、善人・悪人関係無く皆が救われる」という法然の教えを広めましたが、他宗から強い反発を受けたことで朝廷が弾圧に踏み切り、越後へ流罪となってしまいます。

のちに罪を許された親鸞は関東へ向かい、布教活動を行いながら約20年間滞在しました。
63歳になると京都へ戻り、亡くなるまで布教と執筆活動に励んだといいます。

親鸞の教えは受け継がれ、今では日本国内で最多の信者数を誇る宗派として、人々の心の支えとなっています。

自筆の書や、後年の復刻工芸などは美術品としても親しまれております。

本居 宣長

本居 宣長は、江戸時代を代表する国学者・医師です。 荷田春満・賀茂真淵・平田篤胤と共に、日本らしさを追求する「国学」という分野を確立させました。 宣長は、1730年に伊勢国松坂の木綿問屋である小津家に生まれました。 23 …

隠元 隆琦

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細井 広沢

細井 広沢は、江戸時代中期に活躍した儒学者・書家・篆刻家です。 1658年、遠江国掛川(現在の静岡県)に生まれた細井は、11歳で江戸に出ました。 その後は、1672年から坂井漸軒に「朱子学」を、1677年から北島雪山・都 …

伊藤 蘭嵎

伊藤 蘭嵎は、江戸時代中期に活躍した儒学者です。 1694年、蘭嵎は儒学者の「伊藤仁斎」の五男として京都に生まれました。 父親の仁斎は、一般的な朱子学よりも古義学こそ正しい儒学であると考え、町民に学問を広めた人物です。 …

織田 信長

織田信長は、戦国時代に活躍した日本随一の知名度を誇る武将です。 尾張(現在の愛知県)に生まれ、若くして織田家の当主となった彼は、型破りな発想と大胆な行動力で急速に勢力を拡大していきました。   1560年、今川 …

愛新覚羅 溥傑

愛新覚羅 溥傑は、清・満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀の同母弟です。 ラストエンペラーの実弟として、波乱万丈な生涯を歩みました。 皇帝一族である愛新覚羅家は、その政治的・歴史的な役割のほかにも書家として高名です。 書の格と …

大綱 宗彦

大綱宗彦は江戸時代後期の臨済宗の僧侶です。 安永元年京都に生まれ、6歳の時に大徳寺黄梅院、融谷宗通の下で得度を受け臨済宗大徳寺派の僧侶となりました。 臨済宗は仏の道を説くとともに茶の湯や書画をたしなむことを奨励した宗派で …

藤村 庸軒

藤村庸軒は、千利休の孫にあたる千宗旦の直弟子であり、山田宗徧、鈴木普斎、久須見疎安らとともに「宗旦四天王」と呼ばれる茶匠です。表千家の流れをくむ庸軒流の開祖であり、漢詩にも精通した文化人でもあります。 庸軒は表千家久田流 …

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「独眼竜 伊達政宗」といえば歴史に詳しくない方でも聞いたことがあるのではないでしょうか? 伊達政宗は戦国大名として圧倒的な知名度を誇る人物です。戦国時代を戦い抜き、江戸幕府のもとでは仙台藩藩主として領国を治め発展させまし …