親鸞

鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん)は、浄土真宗の宗祖として知られ、「親鸞聖人」と尊称されています。

1173年に京都で生まれ、争いや災害、疫病、大飢饉が相次ぐ不安定な世の中で幼少期を過ごします。

叔父に伴われて9歳で出家し、比叡山延暦寺にて修業に励みました。
しかし、20年修行を続けても悩みが絶えなかった親鸞は、山を下りて聖徳太子ゆかりの六角堂に籠もることを決めました。

六角堂で過ごしてしばらく経ったある晩、聖徳太子が夢に現れました。
親鸞は、これをきっかけに法然のもとを訪ね、教えを学ぶようになります。

その後、親鸞は「阿弥陀仏の力を信じて念仏を唱えれば、善人・悪人関係無く皆が救われる」という法然の教えを広めましたが、他宗から強い反発を受けたことで朝廷が弾圧に踏み切り、越後へ流罪となってしまいます。

のちに罪を許された親鸞は関東へ向かい、布教活動を行いながら約20年間滞在しました。
63歳になると京都へ戻り、亡くなるまで布教と執筆活動に励んだといいます。

親鸞の教えは受け継がれ、今では日本国内で最多の信者数を誇る宗派として、人々の心の支えとなっています。

自筆の書や、後年の復刻工芸などは美術品としても親しまれております。

本居 宣長

本居 宣長は、江戸時代を代表する国学者・医師です。
荷田春満・賀茂真淵・平田篤胤と共に、日本らしさを追求する「国学」という分野を確立させました。

宣長は、1730年に伊勢国松坂の木綿問屋である小津家に生まれました。
23歳になると医師を志し、京都で医学朱子学を学び始めます。
数年後には帰郷して開業し、生涯にわたって町医者として尽力しました。

また、古典の研究に力を注いだことでも知られ、『源氏物語』でみられる「もののあはれ」という情緒こそが、文学の本質であると提唱しました。

さらに、平仮名が登場する以前に書かれ、解読不可能とされていた『古事記』を、一文字ずつ解読して江戸の言葉に直しました。そして約35年を費やして完成したのが、かの有名な『古事記伝』です。

本居宣長は、医師として活躍しながら国学者として日本文化の本質を究め、日本文学の研究や国学の発展に大きく貢献しました。

隠元 隆琦

隠元 隆琦は、中国福建省生まれの禅僧です。

臨済宗や曹洞宗と並ぶ、日本の三大禅宗のひとつである「黄檗宗」の開祖として知られています。

1592年に福建省で生まれた隠元は、28歳で出家。35歳で悟りを開きました。

長崎の唐人社会から来日してほしいという強い要望があり、四度目でこれを受け、63歳で弟子20人と共に来日しました。その後、宇治に新たな寺を創建し、名前を中国の自坊と同じ「黄檗山萬福寺」としました。

また、隠元は煎茶・隠元豆・孟宗竹(たけのこ)・木魚などを日本へ持ち込んだ事でも知られています。

隠元は、掛軸や語録、書物など多くの作品を残しました。

弟子である木庵性瑫即非如一とともに「黄檗の三筆」と称されるほど、書の腕前は見事だったといいます。

黄檗宗の僧に対する規則を定めるなど、停滞していた日本の禅宗の発展に貢献しました。

禅の教えや隠元が持ち込んだ文物は、日本の歴史や文化の発展に大きく影響を与えています。

代表作には『隠元禅師語録』『普照国師語録』などがあります。

 

細井 広沢

細井 広沢は、江戸時代中期に活躍した儒学者・書家・篆刻家です。

1658年、遠江国掛川(現在の静岡県)に生まれた細井は、11歳で江戸に出ました。

その後は、1672年から坂井漸軒に「朱子学」を、1677年から北島雪山・都筑道乙に「書道」を教わりました。

学問への探求心が強かった細井は、兵学・天文・歌道など幅広い知識を身に着け、特に腕の良かった書は高く評価されました。

また、堀内正春から剣術を学び、赤穂浪士の堀部武庸と親しくなりました。「赤穂事件」でも堀部武庸を通じて赤穂浪士に協力するほど、互いに信頼しあっていたようです。

元禄前期には柳沢吉保に召し抱えられましたが、松平輝貞と友人の間で起こった揉め事に関与し、細井を追い払うようにと柳沢家に圧がかかったことで追放されました。

細井は書を多く手掛け、唐様の発展に貢献しました。また、日本篆刻の先駆者の一人とされています。

著書に『国字国訓弁』『紫微字様』『観鵞百譚』などがあります。

伊藤 蘭嵎

伊藤 蘭嵎は、江戸時代中期に活躍した儒学者です。

1694年、蘭嵎は儒学者の「伊藤仁斎」の五男として京都に生まれました。

父親の仁斎は、一般的な朱子学よりも古義学こそ正しい儒学であると考え、町民に学問を広めた人物です。

仁斎には5人の子供がいて、全員に「蔵」の字が使われていました。その中でも長男(東涯)と五男(蘭嵎)が特に優秀だったことから「伊藤の首尾蔵」と呼ばれるようになりました。

1731年からは紀伊藩に仕えていましたが、東涯が亡くなった事をきっかけに、父親が開いた塾である「古義堂」を10年預かりました。

蘭嵎は父親の価値観を受け継ぎながらも、より理論的な学問を展開し、平秩東作、宮崎筠圃、井口蘭雪など多くの弟子を育てました。

著書に『書反正二巻』『大学是正一巻』『蘭嵎雑記六巻』などがあります。

織田 信長

織田信長は、戦国時代に活躍した日本随一の知名度を誇る武将です。

尾張(現在の愛知県)に生まれ、若くして織田家の当主となった彼は、型破りな発想と大胆な行動力で急速に勢力を拡大していきました。

 

1560年、今川義元を破った桶狭間の戦いで一躍名を馳せると、その後も戦に勝ち続け、強大な敵を次々と倒していきます。
1570年には浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いに勝利し、1575年の長篠の戦いでは鉄砲を効果的に使い、武田勝頼の騎馬軍団を壊滅させました。この戦いは、戦国時代の戦術を大きく変える出来事として知られています。

 

戦いだけでなく、政治や経済の面でも革新をもたらしました。商業の発展を促すために楽市楽座を導入し、関所を廃止して物流を活性化。
また、キリスト教を保護し、南蛮貿易を奨励するなど、西洋文化を積極的に受け入れたのも彼の特徴です。一方で、仏教勢力とは対立し、1571年には比叡山延暦寺を焼き討ちし、1580年には長年敵対していた石山本願寺を降伏させるなど、徹底した弾圧を行いました。

しかし、天下統一目前の1582年、信長は家臣の明智光秀の謀反によって京都・本能寺で自害し、その生涯を閉じます。彼の死後、豊臣秀吉がその遺志を引き継ぎ、日本統一を成し遂げました。

信長の評価は今も分かれるところですが、戦国時代において革新的な戦略と政策を展開し、日本の近代化の礎を築いた人物であることは間違いありません。その生き方は、現代においても多くの人々に影響を与え続けています。

 

美術品として、信長自らが筆を執った書簡などが現在でも残されております。絶大な知名度を持つ武将の書簡として、高い古美術的価値を有しております

 

愛新覚羅 溥傑

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