伊藤 若冲

伊藤 若冲は「動植綵絵」で現代になってから人気が爆発したとてもめずらしい絵師です。
江戸時代中期に京都の青物問屋「桝源」の長男として生まれ、その時は8代将軍徳川吉宗の財政改革(享保の改革)により幕府の財政を立て直し、町衆が文化の担い手となることで、江戸や京で様々な文化が花開こうとしていた活気あふれる時代でした。
若冲は幼少期から優れた画才を発揮し、10代半ば過ぎ頃に狩野派の流れを組む大岡春卜に師事するも中国からもたらされた宗元画にとてもとても強く惹かれ、熱心に模写してその技術を模倣、習得いたしました。20代で家業を継ぐも、絵を描くことが楽しすぎて家業そっちのけで写生を行っていたというまるで幼子のようなかわいらしい一面も覗かせます。
そんな日々の中、博識の大典禅師と出会い画才を認められたことがきっかけで若冲は禅に帰依していきました。

40歳になると次弟に家督を譲って大典禅師が住持であった相国寺へ移り住み、絵師として身を立てる事を夢に日々生活をしていくようになりました。
ほどなくして若冲は独自に磨いてきた画才をいかんなく発揮し、最高級の岩絵具をふんだんに用いて動植物を丹念に描いた花鳥画「動植綵絵」に取組み、50歳になった若冲は「動植綵絵」の内、24幅と「釈迦三尊像」3幅を相国寺へ寄進し、翌年にはさらに6幅を寄進することで若冲畢生の名作「動植綵絵」は完成しました。
とても壮大で時間がかかっている作品ですね。

50代になった若冲は江戸で盛んになっていた版画や、水墨画に才をいかんなく発揮しましたが、70代に好事魔多しで天明の大火によって自宅を焼失したするという不幸に見舞われました。
その後、旧友の木村藼葭堂を頼って大阪へ向かい、不幸に負けずに斬新な構図と華やかさを兼ね備えた「仙人掌群鶏図障壁画」をはじめとする傑作を次々と手掛けていきます。そして、70代後半より世俗を離れて石峰寺の門前に隠棲し、米と絵を交換するという意味の号「斗米菴」を制作後も様々な作品を世に残していきました。

田能村 直入

田能村直入は幕末・明治の日本画家であり、南画(文人画)の振興に尽力した人物です。

直入は1814年、豊後国・岡藩(現大分県竹田市)に生まれ、親戚の伝手で南画家・田能村竹田(たのむらちくでん)の画塾に入門します。そしてすぐにその才能を認められ、竹田の養嗣子となりました。絵だけでなく儒学や陽明学、漢詩なども学び、さらには茶道や剣術も身に着けました。師・竹田の没後は詩社「咬菜吟社」を結成し、黄檗宗の居士にもなっています。

明治期には京都を拠点に南画振興に努めました。京都府画学校(現・京都市立芸術大学)の設立に関わり、初代校長も務めました。1896年には富岡鉄斎らと日本南画協会を設立しています。

中国古典の深い知識と、竹田より学んだ南画の技術でつくりあげられる作品の評は高く、日本最後の文人画家と呼ばれます。

黄君壁

黄君壁(黄君璧)は20世紀の中華民国を代表する書画家です。

広東州広州の裕福な家庭で育ち、幼い頃よりよく絵を描いていました。広東の公立学校を卒業し、画家の李瑶屏のもとで伝統的な中国画を学んだ後、楚庭美術院に入学し西洋絵画を学びます。その後は世界を巡り、様々な名所を題材に山水画など描いています。また広州市立美術学校、中華民国国立中央大学芸術学部、台湾師範大学芸術学部などで教授などを務め、後進の育成にも積極的でした。

中国画に洋画の技法を取り入れて描かれる彼の作品は、その力強さと鮮やかさが特徴となっています。人物画や花鳥画も手掛けていますが、特に人気があるのは山水画で、晩年の作品は中国のみならず海外でも高く評価されています。

月岡 芳年

最後の浮世絵師・月岡芳年

生涯浮世絵を描き続け、日本の浮世絵史に残る数々の名作を生み出した人物です。

月岡芳年(本名・吉岡米次郎)は1839年に江戸新橋の商人の家に生まれました。間もなく浮世絵師・月岡雪斎の養子となり、絵を学びます。1850年、有名浮世絵師・歌川国芳のもとに入門します。この頃はまだ月岡という姓は用いておらず、1853年の『画本実語教童子教余師』では吉岡芳年の号で挿絵を描いていました。1865年以降、養父雪斎の姓である月岡を名乗るようになりました。1866年から67年にかけて、同じ国芳門下で兄弟子の落合芳幾と『英名二十八衆句』を制作します。この作品が、後の芳年の代名詞ともいえる「無惨絵」作品の出発点となりました。明治維新後も様々な作品を作りますが、1870年頃から神経衰弱となってしまいます。3年ほどかけて回復し、新しい描法の研究にも取り組むようになります。1874年には代表作『桜田門外於井伊大老襲撃之図』を発表、その後は新聞挿絵の仕事などを得るようになります。1885年には『奥州安達が原ひとつ家の図』を発表し、当時の浮世絵師の中でトップクラスの人気絵師となりました。その後も数々の作品を発表し、200人以上の弟子も育てるなど、明治日本の浮世絵を代表する存在となります。1889年には妖怪画『新形三十六怪撰』の制作を開始します。しかし制作途中から体調を崩しはじめ、1892年に亡くなりました。

無惨絵のイメージが強い芳年ですが、他に美人画や役者絵、武者絵など数多くの浮世絵を制作しており、近年その評価も高まっています。

竹内 栖鳳

竹内栖鳳は、横山大観と並び近代日本画の大家として、非常に有名な人物です。

1864年、京都二条城にほど近い料理屋の長男として生まれました。1877年に四条派絵師の元で絵を学ぶようになり、1881年には川合玉堂上村松園の師でもある幸野楳嶺の画塾へ入門します。1887年、結婚を機に独立し、様々な展覧会で作品を発表していくようになりました。1900年のパリ万博では、出品作が賞をとったことから、栖鳳自身もヨーロッパを訪れます。本場の洋画を学び帰国すると、号を「棲鳳」から「栖鳳」へ改めました。1907年以降は文展や帝展の審査員を歴任し、1913年には帝室技芸員となります。1937年の第一回文化勲章も大観と共に受章しました。

四条派日本画を基礎としつつ、他の画派や西洋技法も取り入れて描かれる作品は、従来の日本画とは一線を画すものですが、この栖鳳の柔軟さが近代日本画の革新に繋がったのは間違いないといえます。そんな栖鳳の作品の中で最もその特徴が表れているのが動物画です。対象の姿を忠実に写し取るだけでなく、そこに漂う空気感までも描くその作品は「動物を描けばその匂いまで描く」と評されるほどです。

作品の評価は非常に高く、「東の大観、西の栖鳳」と称され、現在でもコレクター垂涎の的となっています。

代表作の『絵になる最初』・『斑猫』は国の重要文化財にも指定されました。