横山 清暉

横山清暉(よこやま せいき)は、江戸時代後期から幕末期にかけて京都で活躍した四条派の日本画家です。

横山は京都で生まれ、はじめ江村春甫から手ほどきを受け、松村景文に四条派の画風を学びました。主に花鳥画・山水画・人物画を得意とし、岸連山塩川文麟中島来章と共に「平安四名家」と称されました。また、京都・東本願寺白書院の杉戸絵制作なども手掛けており、青蓮院尊超入道親王(皇族)のお抱え絵師としても仕えました。

「花」「鳥」「魚」などを題材とした作品が多く、四条派の特徴である写生を基礎とした自然描写に基づき、端正で穏やかな筆致が見られます。

また、山水画では山岳や渓流、樹木などを主題とし、淡彩を基調とした落ち着いた画面構成が特徴とされます。人物表現においても、風景の中に人物を配した構図が見られ、静的で写実的な描写が認められます。

京都画壇における四条派の有力画家として活躍し、幕末期の京都を代表する画家の一人として知られています。

谷口 香嶠

谷口香嶠は、明治時代から大正時代にかけて京都画壇で活躍した日本画家です。

1864年、現在の大阪府和泉市に生まれ、旧姓は辻、本名は雅秀と言います。別号として「後素斎」、「羅浮山人」、「藤原雅秀」などがあります。
1871年に京都の日蓮宗宝塔寺に預けられ、漢籍を中心とした教育を受けました。1878年には東京に出て医学を学びますが、翌年に生家に戻り家業である木綿問屋を手伝いながら『芥子園画伝』や『漢画早学』などで独学で絵を学びました。

1883年に四条派の幸野楳嶺に入門し、翌年には京都府画学校北宗画科に入学し、本格的に画業の道へ進みます。竹内栖鳳菊池芳文都路華香とともに「楳嶺四天王」と称されました。
また漢学者・三国幽眠に師事し、漢籍の教養を深めました。

1888年には、九鬼隆一の主導による古社寺宝物調査に参加しました。多くの古画に接したことをきっかけに、古画の研究や模写に励むようになります。
また清水六兵衛宅に寄寓して陶画を学び、工芸図案にも関心を広げました。
以降、輸出用美術染織品の大下絵の制作、能装束や刀装具などの意匠考案に幅広く取り組み、絵画だけでなく工芸分野においても重要な役割を果たしました。

1888年に『美術叢誌』の刊行に尽力し、1891年には著書『光琳画譜』を発行しました。
1895年には竹内栖鳳、菊池芳文、山元春挙と共に『雍府画帖』を出版しました。

教育者としても重要な役割を担い、1893年に京都美術学校教諭となりました。
その後、1909年から1912年まで京都市立絵画専門学校の教授となり、退官後も亡くなるまで嘱託教授として後進の指導を続けました。

1900年のパリ万国博覧会に出品した『驟雨』が銅牌を受賞するなど、国内外の博覧会でも評価を受けています。

香嶠は「有職故実」に深い知識を持ち、歴史画の分野において京都画壇を牽引する重要な存在でした。
同時に、工芸図案の分野でも高い評価を受け、近代京都における日本画と工芸の接点を体現した作家の一人といえるでしょう。

長谷川 玉峰

長谷川 玉峰(はせがわ ぎょくほう)は、幕末から明治初期に京都で活躍した四条派の日本画家です。

長谷川は京都に生まれ、四条派の松村景文に絵を学びました。景文の洗練された画風を受け継ぎ、花鳥画や人物画を得意としました。また、弟子として息子の玉純や跡見玉枝、森川曽文を育成しています。

元治元年(1864年)に起こった蛤御門の変により、玉峰は戦禍を避け、近江日野(蒲生郡日野町)に滞在したといわれています。この時期に大津祭の曳山(ひきやま)の一つとして知られる「源氏山」の天井画などを描いており、その後もたびたび近江を訪れ、多くの作品を残しました。

彼の作品は日本画掛軸が主で花鳥画や鳥獣画、人物画、山水画などの自然を主題にした作品が多く見受けられます。写実的でありながらも華やかな色彩を持ち、気品のある作風が特徴です。

このように、長谷川玉峰は技法の確かさと雅やかな表現力で四条派の日本画家として活躍しました。
今日の古美術市場においても彼の作品は高く評価されています。

都路 華香

路華香(つじかこう)は、日本の明治後期~昭和初期にかけて京都で活躍した日本画家です。

都路は京都市内で生まれ、満9歳で幸野楳嶺の画塾に入門。竹内栖鳳・菊池芳文・谷口香嶠とともに「楳嶺四天王」と称されました。明治時代後期から大きな展覧会にも参加し、内国勧業博覧会、新古美術品展などで受賞したほか、1907年の第1回文展(文部省美術展覧会)以降も出展を続けました。

彼は伝統的な四条派の写実に根ざしつつも、波や自然の動きを題材にした斬新な表現と、装飾性の強い彩色を特徴としています。また、動植物や鳥類などのモチーフも作品にみられ、自然の生命感や躍動を画面構成の中で強調していると考えられます。

また、大正時代には美術教育にも力を入れ、帝国美術院会員として活動する傍ら、京都市立絵画専門学校および京都市立美術工芸学校で教員や校長を務め、後進の育成にも尽力しました。

京都画壇を代表する画家の一人であり、現在でも専門家や愛好家の間で注目されている作家です。

岡本 豊彦

岡本 豊彦は、江戸時代後期に活躍した画家として知られています。

岡本は、1773年に備中国(現在の岡山県)に生まれ、幼い頃より南画家・黒田綾山に絵を学びました。
19歳の頃には福原五岳に師事し、25歳で妻子とともに京都へ移ります。
その後は四条派の祖・松村呉春の門下に入り、呉春の作品を写して技術を磨きながら、穏やかで情緒豊かな画風を身につけていきました。

呉春の没後は、「澄神社」という画塾を開き、多くの門弟を育てることで四条派の継承と発展に貢献しました。

岡本は、花鳥画・人物画など幅広く手掛けましたが、特に山水画を得意としました。
同門の松村景文と並び評されることも多く、「花鳥は景文、山水は豊彦」と称されるほど高く評価されています。

代表作には『松下鹿蝙蝠図』『泊舟』『富士山図屏風』などがあります。

任 頤

任 頤(任 伯年)は、清末に活躍した中国の画家です。
花鳥・人物・山水画を得意とし、中国の伝統と西洋絵画の要素を融合させた独自の作風が特徴です。
また、海上派の蒲華、虚谷、呉昌碩とともに「海派四傑」と称されています。

任頤は、1840年に浙江省紹興府山陰県航塢山の農村に生まれました。
父の任鶴声、伯父の任熊・任薫も画家という環境で育ち、幼い頃から彼らの影響を受けていました。
15~16歳で叔父の作品を模写して売りはじめますが、叔父に知られた際には、怒られるどころか「才能がある」と弟子に招かれたという逸話が残っています。

太平天国の乱では旗手として活躍し、天京(南京)陥落と共に故郷に戻りました。
その後は上海にて「古香室」という扇子店を開き、文人画家たちと交流しながら画家としての活動を続け、1895年に肺炎で亡くなっています。

東皐 心越

東皐 心越は、江戸時代初期に中国から渡来した禅僧です。 心越は、1639年に中国浙江省で生まれました。 幼い頃より仏門に入り、1676年に清による圧政から逃れるため、日本へ亡命しました。 長崎に移住し、日本各地を訪れてい …

織田 一磨

織田一磨は、主に都市の風景を描いたことで知られる版画家です。 生まれは東京ですが、12歳の頃に大阪へ移りました。 16歳になると、石版画工をしていた兄から石版画の技術を学びました。 その後1903年に東京へ戻り、川村清雄 …

曾我 蕭白

曾我 蕭白は、江戸時代中期に活躍した絵師です。 独特で強烈な画風が特徴的で、「奇想の絵師」と呼ばれました。 彼に関する詳細な資料はほとんど残されておらず、その生涯は不明な点が多いです。 1730年に京都の商家に次男として …

周徳

周徳は、雪舟の優秀な弟子であり、雪舟流を正統に受け継いだ画僧です。 惟馨(いけい)と号し、山水画や人物画を得意としました。 周徳の生没年については明らかにされておらず、遺された作品などから16世紀初頭に活動していたとされ …

木島 櫻谷

木島櫻谷は、1877年生まれの四条派の日本画家です。 京都に生まれ京都で育ち、幼少より周囲の影響で日本画をはじめとした文化の造詣を深めました。青年になると京都画壇を代表する作家・今尾景年に師事し、以降四条派の伝統を汲んだ …