千宗旦の子であり、裏千家初代(四代)家元である仙叟宗室についてご紹介いたします。
仙叟宗室は千宗旦の四男であり、裏千家を始めた人物になります。
兄弟には江岑宗左(四代表千家)、一翁宗守(四代武者小路千家)らがおり、その三人によって三千家は起こりました。
仙叟は茶人となる以前、徳川将軍家に仕えた名医の野間玄琢に師事しており、初めは医師を志します。
しかし、玄琢の死をきっかけに医師ではなく千家の人間として家を継ぐことを決めます。
因みに仙叟宗室は玄室という名で呼ばれることもありますが、その「玄」という漢字は野間玄琢から頂いたものだそうです。
江岑宗左に家督と不審庵を譲った父の宗旦は、隠居屋敷としてその不審庵の裏側に今日庵を建てました。これが”裏”千家と呼ばれる所以です。
玄室も今日庵に移り住み、宗旦と共に過ごすことで茶の湯を学びました。
宗旦の尽力もあり、玄室は31歳で大藩である加賀藩主前田家に仕官することになります。
加賀の小松城にて、三代藩主である前田利常におよそ8年間仕え、家臣だけでなく城下町の町人にまで茶道を広く普及させました。その名残は現在の小松市においても、茶の文化として残っているそうです。
その利常と父の宗旦が次いで亡くなると、玄室は裏千家を襲名し、今日庵を継承します。
そして前田家4代藩主の前田綱紀に茶頭として仕えると、金沢城下に屋敷を与えられるなど、人生の大半を金沢で過ごすことになります。
また、たびたび京都にも赴いており、寛文6年(1666年)には楽家四代一入の弟子であった土師長左衛門(大樋長左衛門)を京都から大樋村に招き、窯を築きました。これが、現在の大樋焼であり、楽焼の分派とされる所以です。
金沢市には、仙叟宗室の屋敷跡地である好古庵などといったゆかりの地が現在もあり、小松市同様に仙叟の茶は文化として深く根付いています。
晩年仙叟は京都に戻り、千利休の100回忌と利休堂の建立に取り組みますが、その間も金沢には何度も訪れていたそうです。
そして元禄10年(1697年)1月23日、75歳でこの世を去りました。
仙叟宗室は初代大樋長左衛門と共に作陶した大樋焼の中でも、渦紋や川海老のものが好みだったとされています。
また、優れた審美眼の持ち主でもあったため、仙叟の箱書があるお品物は非常に高い評価となる場合がございます。






