裏千家六代 泰叟宗室 六閑斎

茶道裏千家六代家元 泰叟宗室 六閑斎についてご紹介致します。

 

裏千家五代・常叟宗室 不休斎の長男であり、七代・竺叟宗室 最々斎の養父に当たります。

能書家であり、絵や歌にも優れた人物であったといわれております。

 

茶の湯は表千家六代・覚々斎から学びます。16歳から松山藩(現・愛媛県)に出仕し始め、その後京や江戸、加賀を頻繁に往来する生活となります。しかし、元来体の弱かった六閑斎には大きな負担となりました。妻を早くに亡くした影響もあり、自身も33歳の若さでこの世を去ることとなりました。
父の不休斎が早逝であり、次代の最々斎も25歳と、この時代は早逝が続いております。

 

作品としては「丙午の茶碗」が中でも有名であり、また短命ながらも多くの書や絵がその美意識とともに伝わっております。
六閑斎本人の作品や、花押や書付のある作品は高い評価が期待できます

 

 

裏千家七代 竺叟宗室 最々斎

茶道裏千家七代家元 竺叟宗室 最々斎についてご紹介致します。

 

表千家六代・原叟宗左 覚々斎の次男として生まれ、長兄は表千家七代・天然宗左 如心斎です。
また、同じく三男は裏千家八代・一燈宗室 又玄斎であります。

表千家の子でありますが、裏千家六代・六閑斎に世継ぎがいなかったため18歳で養子に入り、七代を継ぐこととなりました。

六閑斎が33歳で早逝し、唐突な七代襲名となった最々斎ですが、彼もまた25歳の若さで早逝しており、生き様や茶の点て方といったことがほとんど後世に残っていない人物となります。

 

ただ、好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)については、短い在世の中でも比較的残されております。
伝わるものでは「寒雲棗」「駒留棗」が特に有名であり、現在でも多く写し(優れたある作品を手本として制作された作品)が作られております。

 

最々斎の好み物の他、本人直筆の書や自作の茶杓などは高い評価が期待できます

 

 

裏千家八代 一燈宗室 又玄斎

茶道裏千家八代家元 一燈宗室 又玄斎についてご紹介致します。

 

表千家六代・原叟宗左 覚々斎の三男として生まれ、長兄は表千家七代・天然宗左 如心斎、次兄は裏千家七代・竺叟宗室 最々斎です。
また、裏千家九代・不見斎の実父に当たります。

 

又玄斎は、裏千家中興の祖と呼ばれております。
町人文化の発達により、大衆が茶を嗜むようになったのがこの時代です。茶道人口の増加を受けて、多くの門人に分かりやすく茶の湯を伝えるため長兄・覚々斎とともに編まれたのが「七事式」です。
また又玄斎は、秘伝であった千家の茶の湯の作法や道具の使い方を、その禁を破り『浜之真砂』という書物にまとめました。
これらの取り組みが功を奏し、江戸中期の千家流茶道の隆盛に繋がりました。

町人文化に茶の湯を広げた又玄斎ですが、好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)には古流の侘びを感じさせるものが多いです。有名な「龍頭茶入」の他、四代や十一代に劣らず多くの好み物が残されています。

好み物の他、本人直筆の書や自作の茶杓などは高い評価が期待できます

 

 

裏千家九代 石翁宗室 不見斎

茶道裏千家九代家元 石翁宗室 不見斎についてご紹介いたします。

 

裏千家八代・一燈宗室 又玄斎の子であり、十代・認徳斎の父に当たります。
また、不見斎の三男宗什は武者小路千家六代家元・好々斎です。

不見斎の大きな功績としては、1788年の天明の大火で焼失した「今日庵(こんにちあん)」を建て直したことがあります。
今日庵は1648年、千宗旦によって不審庵の後庭に建てられた、裏千家の中心となる茶室です。大火は京都の火事で過去最大規模のものとなり、今日庵も焼失免れませんでした。そこで不見斎はすぐさま復興に取り掛かり、翌年には今日庵を再建します。
さらに同年、利休二百回忌の茶会も成功させる八面六臂の活躍を見せました。

 

不見斎の好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)としては、「八角香合」や「松ノ木香合」が有名です。
また、屠蘇器などのような一式全体での品物を好み物としたのは不見斎が始めであると言われています。

高名な裏千家の家元であるため、その好み物は高い評価を持ちます。また、自身の制作した「茶掛」や「茶杓」といったお品物も高い評価が期待できます

 

 

裏千家十一代 精中宗室 玄々斎

茶道裏千家十一代家元 精中宗室 玄々斎についてご紹介いたします。

 

三河国奥殿藩四代藩主・松平乗友の子として生まれ、その後男児に恵まれなかった裏千家十代・認得斎の婿養子となりました。
十二代・又玅斎は玄々斎の婿養子に当たります。

 

武家の血筋である玄々斎は大名家と深い繋がりがあり、裏千家の後ろ盾ともなっていました。
しかし明治維新後、新政府の行った幕府由来の文化を排する動きにより、武家を後ろ盾としていた茶道は没落の危機にさらされてしまいます。

そこで1872年、玄々斎は政府に茶道の伝統性を訴える建白書を提出します。
これにより茶の湯の格式を政府に認めさせ、没落しかけた地位を再確立させました。

その他の功績としては、旅先で茶を楽しめる「茶箱点前」の考案や、裏千家の作法を改革し、表千家茶道との差別化を行ったことなどが挙げられます。

 

又玅斎の好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)は、利休から続く古式のものから近代的な華やかな作品、また歴代茶人の好み物に又玅斎の意匠を加えた「再好み」と呼ばれるものがあります

好み物の他、自身で制作した「茶杓」や「茶掛」といったお品物も裏千家家元作品として高い評価を持ちます。

 

 

裏千家十二代 直叟玄室 又玅斎

茶道裏千家十二代 直叟玄室 又玅斎についてご紹介致します。

角倉玄寧の子として生まれ、裏千家十一代・玄々斎の婿養子となった人物です。
十三代・円能斎の父に当たります。

 

又玅斎は20歳で家督を継ぎ、32歳で引退しております。
時代は明治初期、明治新政府が近代化を推し進める流れの中で、茶道は陰りをみせていました。苦悩の多い時代に家督を継いだ又玅斎でしたが、先代の玄々斎とともに裏千家、引いては茶の湯の権威を保つことにつとめました。

息子・円能斎に家督を譲った後も畿内で茶人を育て、地方に茶を普及するなど円能斎以降の裏千家隆盛に側面から寄与しました。

 

又玅斎の好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)として有名なものには、「住吉釜」が挙げられます。
名が示す通り、こちらは住吉大社に伝わる釜に倣った作品となります。釜の絵は又妙斎自身が描いていることでも知られています。

そのほかの好み物や、自身で制作した「茶杓」や「茶掛」といったお品物も裏千家家元作品として高い評価を持ちます。

 

 

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