表千家七代 天然宗左 如心斎

今回は表千家七代 天然宗左 如心斎についてご紹介致します。

如心斎は表千家六代 原叟宗左 覚々斎の長男に生まれ、初めは宗巴や宗員と名乗ります。
弟には、裏千家七代家元の竺叟宗室 最々斎と同八代家元の一燈宗室 又玄斎がおり、それぞれ千家を継ぐ優秀な兄弟が揃います。

如心斎の残した功績としては、又玄斎らと「七事式」と呼ばれる茶の修練に必要な七つの式作法を制定したことや、現在の茶道における家元制度の基盤を築いたことが挙げられます。

 

17世紀の終わりごろから江戸時代は中期に入り、武力にとって代わる、学問を中心とした政治が社会に泰平をもたらします。財政も安定し、産業や文化の発達と共に人々の暮らしもまた、次第に豊かになっていきました。

町人などの富裕層が広がるにつれ、茶道人口は増大していきます。そのような時代の流れの中、茶の湯を遊芸とする風潮が徐々に高まりを見せます。

そこで如心斎達は、茶の湯の間口を狭めることなく遊芸性を取り入れ、そして利休以来伝承されてきた教えも失われないよう、「七事式」でその二つを見事に両立させました。

七事式はそれぞれ、「茶カブキ」、「廻り炭」、「廻り花」といった千利休の時代から伝わる3つの式と、「花月」、「且座」、「一二三」、「数茶」の新たに加えられた4つの式で成り立ちます。
七事式という名前の由来は、無学和尚が碧巌録の『七事随身』から用いて名付けたとされています。

「花月」に由来する「花月楼」と呼ばれる茶室は、七事式に最適な八畳床付の造りとなっており、稽古の実践の場として重宝されました。
その他に、大坂の豪商・鴻池了瑛が大徳寺玉林院に建造した茶室「蓑庵」は、特に如心斎好みのものとされています。

 

如心斎は亡くなる数ヶ月前、息子で後に表千家を継ぐ啐琢斎に宛てた「云置」という書き置きを残します。
そこには千家の後継者をより明確にし、象徴とした存在にさせるような、厳格な決まり事が記されていました。

これが家元制度の基盤となり、千家が確固たる茶の名家として存続していくことに繋がります。

また、表千家四代江岑宗左や五代随流斎がそうしたように、千家に伝来する茶道具や記録を整理し、極書を行いました。
こうした様々な活躍もあり、如心斎は千家中興の祖という名声を得ています。

如心斎の好み物としては、前述の「花月楼」や「蓑庵」といった茶室の他にも、ツボツボ大棗などの蒔絵を用いた棗が好み物として多く残されています。

 

裏千家四代 仙叟宗室

千宗旦の子であり、裏千家初代(四代)家元である仙叟宗室についてご紹介いたします。

 

仙叟宗室は千宗旦の四男であり、裏千家を始めた人物になります。
兄弟には江岑宗左(四代表千家)、一翁宗守(四代武者小路千家)らがおり、その三人によって三千家は起こりました。

 

仙叟は茶人となる以前、徳川将軍家に仕えた名医の野間玄琢に師事しており、初めは医師を志します。
しかし、玄琢の死をきっかけに医師ではなく千家の人間として家を継ぐことを決めます。
因みに仙叟宗室は玄室という名で呼ばれることもありますが、その「玄」という漢字は野間玄琢から頂いたものだそうです。

江岑宗左に家督と不審庵を譲った父の宗旦は、隠居屋敷としてその不審庵の裏側に今日庵を建てました。これが”裏”千家と呼ばれる所以です。
玄室も今日庵に移り住み、宗旦と共に過ごすことで茶の湯を学びました。

 

宗旦の尽力もあり、玄室は31歳で大藩である加賀藩主前田家に仕官することになります。
加賀の小松城にて、三代藩主である前田利常におよそ8年間仕え、家臣だけでなく城下町の町人にまで茶道を広く普及させました。その名残は現在の小松市においても、茶の文化として残っているそうです。

その利常と父の宗旦が次いで亡くなると、玄室は裏千家を襲名し、今日庵を継承します。
そして前田家4代藩主の前田綱紀に茶頭として仕えると、金沢城下に屋敷を与えられるなど、人生の大半を金沢で過ごすことになります。

また、たびたび京都にも赴いており、寛文6年(1666年)には楽家四代一入の弟子であった土師長左衛門(大樋長左衛門)を京都から大樋村に招き、窯を築きました。これが、現在の大樋焼であり、楽焼の分派とされる所以です。

金沢市には、仙叟宗室の屋敷跡地である好古庵などといったゆかりの地が現在もあり、小松市同様に仙叟の茶は文化として深く根付いています。

 

晩年仙叟は京都に戻り、千利休の100回忌と利休堂の建立に取り組みますが、その間も金沢には何度も訪れていたそうです。
そして元禄10年(1697年)1月23日、75歳でこの世を去りました。

 

仙叟宗室は初代大樋長左衛門と共に作陶した大樋焼の中でも、渦紋や川海老のものが好みだったとされています。
また、優れた審美眼の持ち主でもあったため、仙叟の箱書があるお品物は非常に高い評価となる場合がございます。

裏千家六代 泰叟宗室 六閑斎

茶道裏千家六代家元 泰叟宗室 六閑斎についてご紹介致します。

 

裏千家五代・常叟宗室 不休斎の長男であり、七代・竺叟宗室 最々斎の養父に当たります。

能書家であり、絵や歌にも優れた人物であったといわれております。

 

茶の湯は表千家六代・覚々斎から学びます。16歳から松山藩(現・愛媛県)に出仕し始め、その後京や江戸、加賀を頻繁に往来する生活となります。しかし、元来体の弱かった六閑斎には大きな負担となりました。妻を早くに亡くした影響もあり、自身も33歳の若さでこの世を去ることとなりました。
父の不休斎が早逝であり、次代の最々斎も25歳と、この時代は早逝が続いております。

 

作品としては「丙午の茶碗」が中でも有名であり、また短命ながらも多くの書や絵がその美意識とともに伝わっております。
六閑斎本人の作品や、花押や書付のある作品は高い評価が期待できます。

 

 

裏千家七代 竺叟宗室 最々斎

茶道裏千家七代家元 竺叟宗室 最々斎についてご紹介致します。

 

表千家六代・原叟宗左 覚々斎の次男として生まれ、長兄は表千家七代・天然宗左 如心斎です。
また、同じく三男は裏千家八代・一燈宗室 又玄斎であります。

表千家の子でありますが、裏千家六代・六閑斎に世継ぎがいなかったため18歳で養子に入り、七代を継ぐこととなりました。

六閑斎が33歳で早逝し、唐突な七代襲名となった最々斎ですが、彼もまた25歳の若さで早逝しており、生き様や茶の点て方といったことがほとんど後世に残っていない人物となります。

 

ただ、好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)については、短い在世の中でも比較的残されております。
伝わるものでは「寒雲棗」「駒留棗」が特に有名であり、現在でも多く写し(優れたある作品を手本として制作された作品)が作られております。

 

最々斎の好み物の他、本人直筆の書や自作の茶杓などは高い評価が期待できます。

 

 

裏千家八代 一燈宗室 又玄斎

茶道裏千家八代家元 一燈宗室 又玄斎についてご紹介致します。

 

表千家六代・原叟宗左 覚々斎の三男として生まれ、長兄は表千家七代・天然宗左 如心斎、次兄は裏千家七代・竺叟宗室 最々斎です。
また、裏千家九代・不見斎の実父に当たります。

 

又玄斎は、裏千家中興の祖と呼ばれております。
町人文化の発達により、大衆が茶を嗜むようになったのがこの時代です。茶道人口の増加を受けて、多くの門人に分かりやすく茶の湯を伝えるため長兄・覚々斎とともに編まれたのが「七事式」です。
また又玄斎は、秘伝であった千家の茶の湯の作法や道具の使い方を、その禁を破り『浜之真砂』という書物にまとめました。
これらの取り組みが功を奏し、江戸中期の千家流茶道の隆盛に繋がりました。

町人文化に茶の湯を広げた又玄斎ですが、好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)には古流の侘びを感じさせるものが多いです。有名な「龍頭茶入」の他、四代や十一代に劣らず多くの好み物が残されています。

好み物の他、本人直筆の書や自作の茶杓などは高い評価が期待できます。

 

 

裏千家九代 石翁宗室 不見斎

茶道裏千家九代家元 石翁宗室 不見斎についてご紹介いたします。

 

裏千家八代・一燈宗室 又玄斎の子であり、十代・認徳斎の父に当たります。
また、不見斎の三男宗什は武者小路千家六代家元・好々斎です。

不見斎の大きな功績としては、1788年の天明の大火で焼失した「今日庵(こんにちあん)」を建て直したことがあります。
今日庵は1648年、千宗旦によって不審庵の後庭に建てられた、裏千家の中心となる茶室です。大火は京都の火事で過去最大規模のものとなり、今日庵も焼失免れませんでした。そこで不見斎はすぐさま復興に取り掛かり、翌年には今日庵を再建します。
さらに同年、利休二百回忌の茶会も成功させる八面六臂の活躍を見せました。

 

不見斎の好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)としては、「八角香合」や「松ノ木香合」が有名です。
また、屠蘇器などのような一式全体での品物を好み物としたのは不見斎が始めであると言われています。

高名な裏千家の家元であるため、その好み物は高い評価を持ちます。また、自身の制作した「茶掛」や「茶杓」といったお品物も高い評価が期待できます。

 

 

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