文明開化間もない日本で新進気鋭の洋画家としてデビューするも、間もなく日本画に転向するという異色の経歴をもつ画家、下村為山。かの有名な俳人、正岡子規と深い親交を持つ人物でもありました。
下村は1865年に愛媛の松山で生まれます。17歳の頃上京し、漢学を学んだ後、洋画家の本多錦吉郎や小山正太郎に絵を習います。1890年の内国勧業博覧会では二等妙技賞を獲得し、その後の展覧会でも好評を博しました。
転機となったのが正岡子規との出会いです。下村は俳句に没頭する一方、正岡に対して絵を教えるようになりました。その後、俳画の研究を始めた下村は、次第に日本の伝統絵画の魅力に惹かれ洋画家から日本画家に転向しました。正岡の没後は故郷松山に戻り、俳画の研究を続けた他、正岡を追悼する「子規居士髪塔」や松山市章のデザインも行っています。
どの流派からも独立した下村は、俳画を通して現代日本水墨画において高く評価されましたが、1949年戦中から疎開していた富山にて亡くなりました。
洋画と日本画の両方を学び描いた画家、青木大乗。巧みな色彩で奥行きを感じさせる静物画は、観る者を引き込む魅力があります。
青木は1894年、大阪の天王寺に生まれ、中学校卒業後京都の関西美術院で洋画を、京都絵画専門学校で日本画を学びました。初期の作品は洋画が中心で、新燈社洋画研究所を開設し展覧会を開催しています。1935年、洋画研究所を解散し日本画家、結城素明・川崎小虎らと大日本美術院を創設。以後は日本画家として作品を発表していきます。大日本美術院の解散後は終生無所属を貫き、個展を発表の場としました。晩年は水墨画に取り組み、洋画時代から受け継ぐ写実を基本とした描法で、作風を確立しています。
前田青邨(まえだせいそん)は、岐阜県出身の日本画家です。
歴史画の名手であり、また近代日本画家・平山郁夫の師匠としても知られております。
日本の伝統的な大和絵を学び、ヨーロッパ留学で西洋絵画、とくに中世イタリア絵画の影響を受け、武者絵などの歴史画を軸として花や鳥といった自然物まで幅広い題材の作品を制作しました。
画壇から日本画界の発展を支え文化勲章を受賞したほか、法隆寺金堂の壁画の修復や高松塚古墳の壁画の模写など、歴史的・文化的事業にも多く携わった芸術家です。晩年にはローマ法王庁の依頼を受け、バチカン美術館に収蔵する「細川ガラシア夫人像」を完成させています。
前田青邨の作風で特に有名なのは、綿密な鎧兜の描写がされた武者絵なのではないでしょうか。代表作である1929年の作品『洞窟の頼朝』は、重要文化財にも指定されております。大胆な構図で、なおかつ風格を感じさせる線や色使いは花鳥画などでも見受けられ、青邨の人気の所以であることが窺い知れます。
昭和生まれの日本画家として一目置かれている存在、それは小泉智英です。
1944年に福島県に生まれた小泉智英は、多摩美術大学の日本画学科に入学後に横山操や加山又造に教えを乞うていた際にその生き様に感銘を受けたことをきっかけに自身も画家になることを志すようになります。
1980年の個展にて「佐渡」、「妙義」が山種美術館の買い上げとなったことをきっかけとなって小泉智英の評価されるようになりました。その後も、数々の作品が美術館の買い上げとなりますが小泉智英は学生時代に創画会の前身である新制作協会日本画部に出展した後はどの会派にも属さず地道に活動を続けている画家でもあります。
墨絵、大作風景、草花図、着彩と幅広い分野で力を発揮する小泉智英の作品は精巧で写実的である中にもどこか柔らかな雰囲気を感じられるものとなっており、特に山間の秋風景や竹林のモチーフは特に人気のある作品となっており、また、日本の四季風景を描いた作品も広い世代に人気を集めたものとなっております。
横山操は日本画の大きな転換期であった戦後画壇にて活躍した昭和を代表する日本画家の一人です。
1920年に新潟県に生まれた横山操は高校を卒業してから川端画学校にて学び、1940年には第12回青龍展にて「渡船場」にて初入選を果たしますがこの年に応召し、5年間中国各地をさらに5年間シベリア抑留を経て後に復員します。
その翌年から青龍展にて復帰をし、「塔」、「溶鉱炉」、「炎々桜島」などの作品を発表し、「炎々桜島」は青龍賞を受賞します。1966年に多摩美術大学の教授となった後には後進の育成にも尽力しておりましたが、1971年に脳卒中で倒れて右半身不随となりながらも左手で制作をし、1973年に亡くなるまで制作を続けました。
横山操の作品は、煤や石炭などを擦り付け、力強く蠢いているような漆黒の中から滲み出てくるような鮮やかな色彩が特徴的です。また、同じく昭和期に活躍をした加山又造とも仲の良い間柄でありお互いにライバルとして日本画壇をリードしていた人物でありました。