「浪速の絵師」と呼ばれた日本画家で関西画壇の長老と呼ばれていた人物として有名なのが菅楯彦です。
鳥取県に生まれた菅楯彦は武家社会の崩壊により日本画家であった父が絵で生計を立てることにしたことがきっかけで生後間もなく大阪に引越しをしています。
しかし、11歳の時に父が病を患ったことがきっかけとなって父に代わって生計を立てようとします。父が亡くなった後は特定の師を持たず、独学で腕を上げていきました。
1899年には新聞社で挿絵画家として働き、1901年から大阪陸軍幼年学校の美術・歴史教師となりました。
それ以降も画家としての道を歩み続ける菅楯彦ですが、ひょんなことから知り合った芸姑である八千代と知り合って結婚したことにより菅楯彦の知名度は一気に上がっていくことになりました。当時の芸姑は今でいうアイドル的な存在であり、さらに八千代は絵葉書のモデルとなるほどの人気の持ち主であったことからどんな相手と結婚したのかと世間の好奇心集まったことによるものではないでしょうか。
八千代は結婚してわずか7年で病死しており、その後菅楯彦はその後は妻をとらなかったとのことです。
その後も絵を描き続け、1958年には日本画家で初めて日本芸術院賞・恩賜賞を受賞し1962年には大阪名誉市民にも選ばれました。
紙塑人形にて国の重要無形文化財に認定された福岡県出身の作家と言えば鹿児島寿蔵ではないでしょうか。
紙塑人形とは昭和初期に創生された日本人形であり、紙塑とは和紙などの繊維を煮詰めて糊などを加えてかき混ぜて作った粘土状の材料のことを指します。
その仕上がりは粘土や桐塑とは違い、柔らかな質感が良く生かされているのが特徴となります。
鹿児島寿蔵はこの紙塑人形の第一人者であり、彼の作る作品は和紙の美を極限まで追求し、更には丈夫さも兼ね備えるように研究を続けた結果、「紙塑人形」を創案しました。
鹿児島寿蔵の作る紙塑人形は、光沢があり優雅な雰囲気が漂った作品であり、まさに極限の美にこだわり抜いた職人技が光る作品ばかりです。
また、鹿児島寿蔵は短歌も愛していたこともあってか優雅な雰囲気のある作品を作ることに長けていたのではないでしょうか。
そんな鹿児島寿蔵の作った作品は没後もなお多くの人々を魅了していることは間違いないでしょう。
文化6年7月11日(1809年8月21日)~明治25年(1892年2月26日)、幕末から明治初期の日本画家になります。現徳島県徳島市明神町で、徳島藩の鉄砲方・庄野(または新居見)幸次郎延知の子として生まれます。1824年16歳で江戸に出て、住吉広行の弟子で藩の絵師・渡辺広輝に入門します。その頃、広輝は「光格上皇修学院に幸する儀仗図」の制作にとりかかっていたが、入門した貫魚に助手として手伝いを命じ、貫魚の技が優れているのに驚き、1892年1月、貫魚は広輝から「輝」の一字を与えられ、輝美と号した。1833年幕府御用絵師板谷広当の「日光縁起絵巻」制作を手伝った際、板谷家の本家にあたる住吉広定にその実力を認められ、翌年その門に入る。1835年、一橋公の命を受けてその寝殿の障壁画を描いた。これが一橋徳川家のお気に入りとなり将軍徳川家斉の目にもとまり、幕府の絵師に取り立てるべき内命がありました。この年の12月、貫魚は広定より「定」の字を授かり、定輝と号することになった。広輝の死後、1844年貫魚は正式に阿波藩の御用絵師となりました。以後60歳まで仕えます。
文政9年4月22日(1826年5月28日)~明治30年(1897年)7月27日は、日本の幕末から明治時代に活躍した日本画家。岸派の4代目で、明治期の京都画壇で、森寛斎、幸野楳嶺とともに3巨頭の1人に数えられた画家になります。天保7年(1836年)に地元の絵師で彦根藩士中島安泰に狩野派の手ほどきを受ける。天保13年(1842年)17歳の時京狩野9代目の狩野永岳に入門するが、粉本主義の狩野派の指導法に疑問を感じ、翌年四条派の流れを組む岸派の岸連山に師事しました。1854年前後に、二条城本丸御殿や御所造営に際して障壁画を描く。1857年有栖川宮に出仕し、1859年11月には連山の子・岸九岳が未だ幼少なため岸家を継ぎ、竹堂の歩みは順風でした。画風も円山派の長沢芦雪に私淑し、その構図法を学び一段と飛躍を見せました。サーカスで見た実物の虎に衝撃を受け、画風が一変。明治25年(1892年)6月には、「虎図」に執念を燃やして打ち込むあまりに「虎が睨んでいる」と発狂し、一時永観堂の精神科に入院する一幕もありましたが、この仔虎を抱いた母虎の虎図はシカゴ万鵠博覧会で銅牌を受賞した。明治29年(1896年)6月30日に帝室技芸員となるが、翌年慢性胃炎の為72歳で没しました。墓は京都上京区の本禅寺になり、墓碑銘は竹堂の死を悼んだ富岡鉄斎が誌しました。
文化11年12月15日(1815年1月24日)~明治24年(1891年)1月29日幕末から明治期の狩野派の絵師になります。安土桃山時代を代表する絵師で、狩野永徳と同じ読みであるが、別人になります。江戸木挽町に生まれる。狩野宗家中橋狩野家・狩野祐清邦信の養子となり、後に宗家中橋家第15代となった。徳川家斉から徳川家茂までの4代の将軍に仕え、弘化年間の江戸城本丸御殿再建における障壁画製作など、幕府御用を多く手がけました。明治維新後も皇居造営の際に、皇后宮御殿御杉戸や小襖に多くの作品を描く。
1887年~1980年、熊本県熊本市出身の日本画家で、本名は堅山熊次。横山大観に認められ、院展、日展等で活躍した作家。花鳥画、特に鯉を中心とする秀逸な魚類を描いた作品が有名。1914年の日本芸術院再興にも加わり、銅芸術院常務理事、日展参事等を務めた。また、熊本市名誉市民、文化功労章、文化勲章受章者であり、大正から昭和にかけてに日本画界を支える中核人物だった。