上村松篁の子として京都に生まれる。特別科学学級での同級に、伊丹十三がいた。父同様、花鳥画を描きます。幼い頃から父松篁 の飼う小鳥達と共に過ごして来たため、鳥達が常に身近に居ることはごく自然なことでした。上村淳之は絵の道に進むと同時に奈良平城へいじょうへ移り住み、この自然豊かな中にあるアトリエ「唳禽荘」(れいきんそう)で好きな鳥たちと共に暮らしながら移ろう季節を知り、またその生き様から多くを学びとり創作活動を続けて来ました。じっくり鳥たちと向き合いながら紡ぎだされた淳之の作品からは、清澄な空間にこめられた深遠なる自然への画家の真摯な眼差しが感じられ、独自の「花鳥画の世界」を見て取れます。
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荒木寛畝は江戸芝赤羽橋で田中梅春の四男として生まれます。田中家は代々、増上寺の行者(出家せず俗人のまま寺の雑務を行う者)を勤めていました。両親は奉公に出す前に教養の一つとして絵を習わせようと、9歳の時に谷文晁(たにぶんちょう)系の絵師、荒木寛快に入門させる。しかし、絵を描くのが生まれ付き好きだった寛畝は算盤など、他の稽古に全く身が入らなくなり、両親は奉公に出すのを諦めました。
18歳の時に父の梅春が亡くなり、増上寺の冠誉大僧正の随身となりますが、22歳の時に師の荒木寛快から画才を見込まれ、養子となり荒木姓を継ぎ、随身を辞しました。
1856年に同じく寛快の養子で義兄である荒木寛一と共に秋月藩主黒田長元の屋敷で席画を行う。この時、長元の甥として同席していた、土佐藩主山内容堂の目に止まり、1859年土佐藩の御用絵師となります。
1872年に湯島聖堂で開かれた博覧会で出品されていた内田政雄の油彩画をみて感銘を受けます。同年、容堂が亡くなり、一時本気で殉死や出家を考えるも川上冬崖、チャールズワーグマン、国沢新九朗に洋画を学びます。
元老院の命で1879年に明治天皇、昭憲皇太后、英照皇太后の御影を描くという大任を任された寛畝は写真を参考に下絵を描いたが満足せず、本人を写生する機会を得て描き上げたが心労からくる重圧は相当なもので、これがきっかけとなり、日本画へ復帰する。
1890年第三回内国勧業博覧会出品の孔雀図が妙技二等賞を受賞し、宮内庁格上げの栄誉を受け、60歳の還暦を過ぎてから人気が高まります。
1893年には女子高等師範学校で教鞭をとり翌年には華族女学校(現在の学習院女子中、高等科)でも講義を受け持った。1898年には橋本雅邦の後任で東京美術学校教授に就任し1900年には帝室技芸員を拝命しました。
パリ万国博覧会に孔雀図で銀牌受章、セントルイス博覧会では二等賞受章し1906年にはロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツにも推薦されます。
1907年には東京府勧業博覧会で孔雀図で金賞を受賞し、従五位に叙せられ勲六等瑞宝章を授けられ、名実ともに日本画の大家となりました。
以後、多くの門下生を輩出しますが、長らく患っていた、糖尿病がもととなり、1915年に亡くなりました。享年85歳でした。
加来万周は1973年熊本県に生まれます。
1997年に東京藝術大学美術学部日本画専攻を卒業します。卒業制作は帝京大学が買上げました。院展も初入選し以後出品しています。
1999年には東京藝術大学大学院美術研究科日本画修士課程修了します。修了制作は帝京大学が買上げします。
2000年春の院展に初入選、以後毎年出品。臥龍桜日本画大賞展では優秀賞を受賞します。有芽の会 日本更生保護協会理事長賞受賞。墨彩画展 雪舟大賞受賞します。
2001年の院展出品作の「光路」を文化庁が買上げし、翌年の2002年に文化庁主催の現代美術選抜展にも出品します。
数々の作品を制作、出品を行い、2012年春の院展に「軌跡」を出品、奨励賞を受賞します。
現在は日本美術院院友。個展などを数多く開催し、現在も多数の作品を作成、発表しています。
師は日本画家で東京芸術大学教授、手塚雄二と発表されています。
甲斐荘楠音は京都の裕福な武士の一族の家に生まれます。
幼少期から経済的に恵まれた少年時代を送りますが身体が病弱で喘息を患っていました。京都府立第一中学校に入学すると、絵画への関心が高まり、京都市立美術工芸学校に転校し竹内栖鳳に絵を学びますが、授業にほとんど出席していなかった為、一年留年してしまいます。
1915年に京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業後、同級生であった岡本神草、入江波光、玉村方久斗らと日本画研究集団「密栗会」を結成します。
1918年に国画創作協会に「横櫛」を出品し、密栗会の岡本神草の「口紅」と共に入賞候補に挙げられるが、審査側の「横櫛」を推薦した村上華岳と「口紅」を推した土田麦僊が互いに譲らず、結果、竹内栖鳳の仲裁の元金田和郎の「水蜜桃」が受賞となりましたが、この出来事で、新進作家の甲斐荘楠音は注目を集めます。しかし、同時に土田麦僊との確執を生む結果となりました。
1922年、日本美術展覧会(日展)に「青衣の女」が入選したことで、1924年、国画創作協会の会友になり、精力的に作品を発表したが、1928年に出品した「女と風船」は土田麦僊に「きたない絵」と称され、出品を拒絶されます。
1928年には新たに活動の場を移すため新樹社を結成しますが、1931年には会員の大量脱退という出来事が起こり、新樹社は実質解散に追い込まれます。
その後、1940年に映画監督、溝口健二と知り合ったことで、映画界に転身し、時代風俗考証家として活躍します。1953年には自ら考証家を担当した、溝口健二の映画「雨月物語」がヴェネツィア国際映画祭の銀獅子賞を受賞し、甲斐荘自身もアカデミー衣装デザイン賞にノミネートされます。
考証家として活躍していた甲斐荘でしたが、絵の道も諦めておらず、1949年に新たに美術団体を結成しようと試みますが、資金難のため失敗しています。1956年に溝口健二が亡くなったことで、甲斐荘自身も映画界から去り、以後は「山賊会」の活動を通じて絵の作品を出品します。
1963年に京都市美術館で開催された国画創作協会の回顧展に甲斐荘の過去の作品が出品され、再び注目を集めますが、年齢と病弱だったこともあり、晩年は数をあまり残していません。
1978年、持病の喘息の発作により死去。享年83歳でした。
伊藤小坡は三重県伊勢市宇治浦田町に生まれ、京都を中心に風俗画、美人画を描いた日本画家です。歴史風俗画を得意としていました。伊勢にある猿田彦神社の宮司の長女として生まれています。幼少の頃より古典文学、茶の湯、柔術を習い、1891年頃から新聞小説の挿絵を竹紙に模写し始めます。1895年頃には四条派の流れをくむ郷土の画家、磯部百鱗に師事し歴史人物を好んで描いていました。彼女の作風は代表作である「虫売」は穏やかで見るものの心を和ませてくれる作品になっております。竹内栖鳳に師事してからは彼女の作風は一変し、歴史画と美人画に重きを置いて画作を展開していくことになります。歴史風俗や人物から取材した作品は、晩年の小坡作品の多くを占めるようになり、描かれた凛とした美しい女性は見る者を引き込む強い世界観を画面の中に作り出しています。