狩野派絵師でありながら多くの浮世絵も描いた絵師・河鍋暁斎。幕末から明治へと向かう動乱の時代の中で、実力を発揮し、高い評価を得た人気絵師です。
暁斎は1831年に下総(現在の茨城)で生まれました。翌年は家族で江戸に移り、以後江戸東京を活躍の場とし生涯制作を行いました。
1837年、7歳の頃に浮世絵師・歌川国芳に入門。3年後には狩野派絵師・前村洞和に入門しました。既に高い技能を持っていたため修行はわずか9年で修了し、「洞郁陳之」の号を授かります。しかしながら時代は幕末、狩野派絵師の需要は激減し多くの画家たちが困窮しました。浮世絵や戯画の技能を持っていた暁斎は、庶民向けの風刺画などを手掛けたことで、激動の時代を乗り越えます。ですがその政治風刺が原因で、1870年には新政府に捕縛されました。運よく翌年解放され、以前から名乗っていた「狂斎」の号を「暁斎」に変えています。
「暁斎」を名乗るようになってからも変わらず様々な絵を描き続け、1881年の内国勧業博覧会では妙技二等賞牌を受賞しています。この年には、近代日本建築界に多大な影響を与えた建築家 ジョサイア・コンドルが弟子となりました。1887年の東京美術学校開校に際しては、教授としての着任を依頼されますが、体調が優れずに断念。1889年、亡くなります。
生涯にわたり肉筆、版画を問わず多くの絵を描き、現在でもその作品は高い人気を誇ります。
橋本明治は、島根県出身の日本画家です。
明治37年に生まれ、幼少期に祖父の影響を大きく受けて、絵画の道を進みます。
中学校を卒業した翌年の4月に上京。東京美術学校日本画科に入学しました。同期には、明治と共に日本画家の大御所となる東山魁夷や加藤栄三がいました。
在学中に帝展に初入選すると、翌年も連続入選します。そして、東京美術学校日本画科を首席で卒業します。同期の顔ぶれから見ても、大変に秀でた才覚を現していたことがうかがえます。
その後は新しく開催された新文展で特選。そして、翌年も特選に選ばれます。その才能から、博物館より模写の依頼を受け、15年から始まった法隆寺壁画模写では主任を務めます。
日展へ出展する頃には得意とした美人画・風景画だけでなく、女優・司葉子や力士・初代貴の花、松下幸之助といった著名人をモデルにした作品を多数出品して話題となりました。
晩年には、皇居新宮殿正殿の障壁画・出雲大社庁舎壁画共に「龍」を制作します。この作品は明治の画家としての集大成ともいえる大作です。
昭和62年、自作の寄与をしていた郷里の島根県立博物館に「橋本明治記念室」が設立されております。
棟方志功は日本を代表する版画家です。
「板画」と称した志功の版画は、その独特な作風から現在でも高い人気を誇っています。また「倭画」と称した肉筆画も、同様に人気の高いものとなっています。
志功は1903年、青森の刀鍛冶職人の家に生まれました。
18歳の頃、ゴッホの『ひまわり』に影響され画家になる事を決意し、21歳で上京します。様々な展覧会で作品を発表しますが、当初は落選ばかりであったようです。
1928年、第9回帝展に出品した油絵『雑園』がついに初入選となります。同じころ、版画家・川上澄雄の『初夏の風』に感動し、志功も版画制作を開始します。第二次大戦後は国外の展覧会でも作品が入選するようになり、世界各地で展覧会を開くなど、国際的にその名を知られる芸術家となりました。1970年には文化勲章を受章しています。
1975年に死去しますが、同年、故郷の青森に「棟方志功記念館」が開館しました。
石川晴彦は昭和後期まで活躍した画家で、仏画を多く手掛けたことで知られております。
京都に生まれた石川晴彦は、1914年に京都市立美術工芸学校絵画部に入学するも、1918年に中退し上京を志した矢先に京都で第1回国画展に感銘を受け、翌年に入江波光に師事して絵画の基本を学び初めます。様々な絵画に触れていった石川晴彦ですが、この頃はホルバインやデューラーといった画風に憧れていた為、緻密で繊細な描写を身に付けていきました。その4年後の1923年には「父母の肖像」が高く評価されたことや入江波光から賛助を得たことで「生作社」を結成し、グループ展を開催しました。
このグループでの活動が村上華岳に認められたことが石川晴彦の絵画人生を変化させ、より自身をつけた石川晴彦は第4回国画創作協会展の「老父」で入選し、村上華岳が作品を買い上げるといった功績に繋がりました。
人間をモチーフにして人気を得ていった石川晴彦ですが、1936年に妻が亡くなってからは仏画や水墨画の制作に没頭していくことになり、その作画は師である村上華岳の影響を受けていますが、自らの芸術も色濃くなっております。
石川晴彦の大作としては奈良県の宝山寺の多宝塔壁画があり、明るめの色調で描かれる作品群は心が安らぎ、趣のあるものとなっております。
上村松園は近代日本画家の中でも珍しい、女流画家として活躍した人物です。彼女によって描き出される凛とした佇まいの女性の姿は、追求し続けた「真・善・美の極致に達した本格的な日本画」の姿を現在に伝えています。
松園は1875年、京都・四条通り御幸町に生まれますが、その二か月前に父が亡くなり、母によって女手一つで育てられました。母は女流画家という苦難の道を進む松園にとって、最も身近な理解者であり、支えとなりました。
画家を目指すことに決めた後は、京都府画学校で本格的な絵画の勉強を開始します。その成長は目覚ましく、1890年の第三回内国勧業博覧会では、『四季美人図』が一等褒状を獲得しました。幸野楳嶺や竹内栖鳳にも師事し、日本画技法を習得します。出品した文展や帝展では次々と受賞し、美人画の名手としてその名を広めていきました。戦後の1948年には、女性として初めて文化勲章を受章しました。
絵の題材は江戸や明治の風俗を元にしたものが殆どですが、松園は「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」というものを大切にしており、どれもが気品高い美人画に仕上げられています。
また、同時代の鏑木清方と並び称されることも多く、「西の松園、東の清方」と賛されました。
現在では代表作『序の舞』・『母子』が国の重要文化財に指定されています。
山口蓬春は大正から昭和時代に活躍した日本画家です。
1893年に北海道に生まれた山口蓬春は、1903年に父親の転勤に伴って上京し中学生の時に白馬研究会で洋画を学んでいました。東京美術学校西洋学科に入学した後は、入学の翌年の第9回文展で二等賞を受賞し、二科会においても入賞をしていた為、油彩画で認められはじめておりましたが、1918年に日本画家へ転向し主席で卒業しております。東京美術学校を卒業した1924年には、師である松岡映丘が主宰する新興大和絵会に参加するとともに「秋二題」が第5回帝展に初入選、大正15年には三熊野の那智の御山が第7回帝展に出品し帝展特選、帝国美術院賞を受賞するとともに宮内省が作品を買い上げたことにより、一躍その名をしられることになりました。
その後、師である松岡映丘とは別れて新しい日本画の創造を目指し、六潮会に参加し日本画家、洋画家、美術評論家からなる流派を超えた交流をしていくことで独自の絵画領域を広げていき、この頃に「市場」などの代表作を生み出しました。戦後はフランスの西洋近代絵画(特にマチスやブラック)を取り入れたモダンスタイルの作品を制作していき、日本画界でも西欧画を吸収していくことで近代画の作品が増えていきました。その中でも蓬春の絵画はリズミカルな構成と明るい色彩が特徴的で「蓬春モダニズム」と呼ばれました。
戦後は西洋文化の影響が大きく、伝統のある日本画も淘汰されてしまうのではないかと悲観されましたが、山口蓬春らの活躍により日本画と西洋画の融合した新たなスタイルが生まれました。芸術本来の道を切り拓き、日本画を進化させた人物であるといってもよいのではないでしょうか。