川合 玉堂

川合玉堂(本名・芳三郎)は、近代日本画壇の重鎮として日本画界をけん引した人物です。

玉堂は1873年に岐阜県に生まれます。少年時代から描く事を好み、画家・青木泉橋夫妻にもその才を認められています。1887年、青木の紹介状を手に京都へ向かい、四条派の絵師・望月玉泉の門下となります。3年後には円山派の絵師・幸野楳嶺(ばいれい)の門下となりました。同じころ第3回内国勧業博覧会に出品した作品が入選し、同時に「玉堂」の号を使うようになります。しかし両親の死や結婚などで絵画への情熱が薄れてしまいます。そんな時、京都で開催された第4回内国勧業博覧会で、橋本雅邦の『龍虎図屏風』『釈迦十六羅漢』を目にし、人生の転機を迎えます。橋本雅邦に師事するために上京し、狩野派の絵画も学ぶこととなります。1898年に創設された日本美術院にも参加し、その技術を高めていきました。1907年の第1回文展では審査員を務めます。1917年には宮内省から帝室技芸員に認定され、1940年には文化勲章も受章しています。戦時中は東京青梅の山中に疎開し、以後晩年まで自然豊かな山の中で画業に没頭します。

玉堂の作品は学んできた円山派、四条派、狩野派の日本画が見事に融合し、近代日本画の集大成といえるものとなっています。作品の人気は国内のみならず海外でも高く、存命中にもフランスやドイツから勲章を授かっています。

また国公立の博物館・美術館に収蔵されている作品も多く、なかでも1916年作の屏風『行く春』は国の重要文化財に指定されています。

横山 大観

近代日本画の巨匠として名をはせた横山大観、その作品は現在も日本画の代表として世界中で高く評価されています。

大観(本名・秀松)は1868年に水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれました。幼い頃から絵に興味をもち、洋画家から指導を受けていたこともあります。1888年、親類の横山家の養子となりました。翌年には東京美術学校の一期生として入学し、岡倉天心や橋本雅邦などの指導を受けました。また、二期生として入学した菱田春草とも知り合い意気投合、以来二人は大親友となります。学校卒業後は京都に移り、同時期に「大観」の号を用いるようになりました。1896年に東京へ戻り、東京美術学校の助教授となりますが、間もなく師である校長・岡倉天心の罷免をうけて大観も辞職しました。その後は岡倉が中心となって創立される日本美術院に参加します。

しかし、大観の画風は当時の日本国内ではそれほど評価されず、これをうけ活躍の場を海外へと移します。これがうまくいき、欧米で展覧会の開催とともに高い評価をうけました。日本国内でも次第に評価されるようになり、1907年の第一回文展の審査員に選抜されます。1931年には帝室技芸員に任命、37年には第一回文化勲章を受章しました。

大観作品の最大の特徴は「朦朧体」と呼ばれる独自の画風です。従来の日本画で一般的な線描を排し、対象の輪郭が画面に溶け込むような没線描法が基本となっています。保守的な人々からは勢いに欠けると批判されましたが、結果として大観の生み出したこの描法が、伝統を重視しすぎていた当時の日本画界に革新を起こすことにつながり、竹内栖鳳と並び近代日本画の革新派としてその名を残すことになります。

竹内 栖鳳

竹内栖鳳は、横山大観と並び近代日本画の大家として、非常に有名な人物です。

1864年、京都二条城にほど近い料理屋の長男として生まれました。1877年に四条派絵師の元で絵を学ぶようになり、1881年には川合玉堂上村松園の師でもある幸野楳嶺の画塾へ入門します。1887年、結婚を機に独立し、様々な展覧会で作品を発表していくようになりました。1900年のパリ万博では、出品作が賞をとったことから、栖鳳自身もヨーロッパを訪れます。本場の洋画を学び帰国すると、号を「棲鳳」から「栖鳳」へ改めました。1907年以降は文展や帝展の審査員を歴任し、1913年には帝室技芸員となります。1937年の第一回文化勲章も大観と共に受章しました。

四条派日本画を基礎としつつ、他の画派や西洋技法も取り入れて描かれる作品は、従来の日本画とは一線を画すものですが、この栖鳳の柔軟さが近代日本画の革新に繋がったのは間違いないといえます。そんな栖鳳の作品の中で最もその特徴が表れているのが動物画です。対象の姿を忠実に写し取るだけでなく、そこに漂う空気感までも描くその作品は「動物を描けばその匂いまで描く」と評されるほどです。

作品の評価は非常に高く、「東の大観、西の栖鳳」と称され、現在でもコレクター垂涎の的となっています。

代表作の『絵になる最初』・『斑猫』は国の重要文化財にも指定されました。