エドゥアール・マネは、印象派の先駆けとして知られる画家です。
「見たものをそのまま表現すること」が大切だと考え、新たな様式を確立しました。
明るい色彩と明確な輪郭、平面的な構成が特徴です。
マネは、1832年にパリの裕福な家庭に生まれました。
海軍兵学校の入学試験に2度落ち、父親の許可を得て画家を目指します。
1849年から6年間トマ・クチュールのアトリエで修業し、のちにアルベール・ド・バルロワと共有のアトリエを構えました。
1859年、サロンに『アブサンを飲む男』という作品を初めて提出。
それから2年後のサロンでは『スペインの歌手』をテオフィル・ゴーティエが絶賛したことで優秀賞を受賞しました。
しかし、同時に提出していた『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』は「肉親という最も神聖な絆を踏みにじっている」として批評家から非難されています。
その後もサロンや画廊に作品を提出しますが、古典的な絵画が好まれる時代にはそぐわないスタイルであったため、全く評価されませんでした。
1860年代後半から、モネ、ルノワール、ピサロなどの若手画家と交流するようになり、彼らは「バティニョール派」と呼ばれました。
1870年、普仏戦争が起こり国民軍に入隊。
混乱が落ち着いた頃にパリへ戻り、活動を再開しました。
以降、セーヌ川に浮かべたボートをアトリエにして制作を行うなどし、51歳で梅毒の症状悪化により亡くなりました。
マネは、レアリスムやジャポニスムなどを取り入れながら独自の世界を表現しました。
彼自身はサロンでの成功を夢見ていましたが、ありのままを描く作風はサロンの理想とは正反対なものでした。
生涯高い評価は得られませんでしたが、次世代の画家につながる新たな道を切り開いたのは確かです。
今では印象派の基盤を作り上げた巨匠として評価され、多くの人を虜にしています。
代表作には『オランピア』『草上の昼食』『笛を吹く少年』などがあります。
横尾 忠則は、兵庫県出身の画家・グラフィックデザイナーです。
力強く個性あふれる作風により世界的に高く評価されています。
1936年、兵庫県に生まれ、2歳で呉服商を営む叔父夫婦の養子となりました。
幼少期から数多くの「超常現象」を体験し、「死」に対する関心を抱いていました。
1945年には神戸の空襲を経験し、命は助かりましたが、崩れゆく街の光景が脳裏に深く刻まれました。
この経験は、後年の作品にも強く影響を与えています。
また、ある日校庭に突然グラマン戦闘機が3~4機降下し、パイロットの顔が見えるほどまで機体が迫ったことで、強く死を意識したといいます。
高校では美術学校出身の教師の影響で油絵を始め、絵画展などで入賞を重ねました。
1956年にスカウトされ神戸新聞社に就職し、数年後に退社。その後、日本デザインセンターに入社しました。
同時期にオノ・ヨーコや三島由紀夫らと出会い、親交を深めています。
グラフィックデザイナーとして成功を収めた後、パブロ・ピカソの個展に衝撃を受けたことをきっかけに、画家としての道を歩む決意をしました。
横尾の作風は「死生観」や「宗教」などをテーマに、大胆な構図や個性的なモチーフ、鮮やかな色彩で精神世界を表現しているのが特徴です。独自の世界観を持つ作品は唯一無二の存在感を放っています。
90歳を目前にした現在も創作活動を続け、精力的に展覧会を開催しています。
代表作には『TADANORI YOKOO』『腰巻お仙』『Y字路シリーズ』などがあります。
アノラ・スペンスは、イギリス出身の女性画家です。
大学でテキスタイルデザインを学び、首席で卒業。その後フリーランスの画家・デザイナーとして活動を始めます。
画家としての活動と並行して、美術学校やデザイン学校で教鞭を執り、マレーシアでは舞台美術を教えるなど幅広く活躍しました。
1990年頃からは画家に専念し、多数の個展や展覧会を開催。
はじめて版画を制作した1994年以降、記録的な早さで絶版が続いています。
作品によく描かれる白い犬は、イギリス原産のブルテリアという彼女の好きな犬種だそうです。
現在では彼女は農場に住み、動物たちと共に過ごすことでインスピレーションを得ているといいます。
人と動物が触れ合う様子を温かく色彩豊かに表現するユーモアたっぷりの作風は、国境を越えて支持され、世界中のファンを魅了し続けています。
あいはら 友子(旧芸名:原田真弓・相原友子)は、女優・画家として知られています。
1954年に兵庫県に生まれた彼女は、勉強もスポーツも苦手な子供でした。
しかし、小学3年生の頃にあった交通事故をきっかけに、様々な分野で才能をみせるようになったそうです。
大学時代には、アーチェリーで全日本第3位まで上り詰め、モントリオールオリンピック強化メンバーとなりました。
大学卒業を機に「原田 真弓」の芸名で特撮番組などに出演し、1978年に放送された連続テレビ小説「わたしは海」のヒロイン役でデビューを果たします。
バブル期には株式に詳しいことから「財テク女優」と呼ばれ、経済界での講演・キャスター・雑誌の連載など幅広く活躍しました。
また、高野山真言宗の僧籍を取得するなどしています。
縁起物として知られる赤富士を中心とした日本画を多く手掛け、組み合わせるモチーフによって異なるテーマを持たせています。
人々の幸福を願う気持ちが込められた作品は、開運アートとして多くの人に愛されています。
代表作には『赤富士に鳳凰』『赤富士に昇り龍』『黄金富士に金の川』などがあります。
ジミー大西は1964年1月1日生まれの大阪出身で画家・タレント。吉本興業所属の芸人として独特の天然キャラクターで人気を博したあと、1990年代より画家としての活動を本格的にスタートしました。
彼の作品は色鮮やかな色彩と自由奔放な構図が特徴で動植物や幻想的な風景などを題材にした大胆かつ、純粋な表現で知られています。
主にアクリル絵具を使用し乾きの早さと発色の良さを活かしエネルギッシュで直感的な作風を生み出しています。これまでにニューヨークやパリ、上海など国内外で個展を開催し、独自の世界観で高い評価を受けています。
芸人時代の経験や人間味あふれる感性の作品に反映されており、芸術の枠を超え多くの人に感動と癒しを届けています。
銀色のウィッグがトレードマークのアンディ・ウォーホルは、ポップアートを代表する画家として知られています。
1928年、アメリカにてチェコスロバキア共和国からの移民である両親の元に生まれました。
肉体労働者だった父親を早くに亡くし、女手ひとつで育てられます。
大学では広告芸術を学び、卒業後に手掛けた雑誌の広告やイラストが高く評価され、賞を受賞しました。
1961年には、キャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした作品を制作しました。
翌年には初の個展を開催し、この頃からシルクスクリーン技法を使って作品を量産するスタイルを確立していきます。
数年後、彼はニューヨークに「ファクトリー」と呼ばれるスタジオを構えました。
しかし、ファクトリーの常連でありラディカル・フェミニズム団体「SCUM」のメンバーだったヴァレリー・ソラナスに銃撃されるという事件が起こり、彼は重体となりますが一命をとりとめました。
事件後はバンドのプロデュースやCM、映画製作など幅広く活躍し、1987年に胆嚢の手術を受けた翌日に亡くなりました。
大量生産・消費文化を題材とした彼の作風は高く評価され、今も世界中で愛されています。
代表作には『Coca-Cola』『Shot Sage Blue Marilyn』『最後の晩餐』などがあります。