「夢二式美人画」と呼ばれる特徴的なスタイルの美人画。大正ロマンの象徴としてあげられる情感あふれるその作品は、多くの日本人を魅了しました。
夢二は1884年岡山県に生まれます。18歳の頃上京し、間もなく新聞や雑誌のコマ絵などで生活をたてるようになりました。最初の妻、たまきとの生活の中で生み出された夢二独自の美人画は、書籍の表紙や挿絵、広告などで大衆の間で人気となります。中央の画壇には最後まで属さず、生活や産業と結びついた商業美術の概念を作り上げた先駆者ともいえる彼の存在は、現在のイラストレーター・グラフィックデザイナーの始祖といえるのかもしれません。
画壇には属しませんでしたが、洋画家・岡田三郎助や画家・有島生馬との交流を持っていたほか、欧州の美術界の動向にも敏感で、常に情報収集を行い、自身の作品にもその成果を反映させています。
また、1914年には日本橋呉服町に自身の店「港屋絵草紙店」を開店。夢二がデザインした小物などは、当時の若い女性たちに大人気となりました。
夢二の作品は非常に多岐にわたり、書籍の表紙絵や挿絵の他、日本画様式の掛軸、油彩による人物や風景画、といった芸術作品。雑貨や浴衣のデザインなども手掛けています。また、作家としても活動し、詩や童話、歌謡の作詞なども行いました。
横山大観や菱田春草らと並んで東京美術学校、日本美術院で日本画の革新に注力した画家が下村観山です。
観山は1873年、和歌山に生まれました。父や兄弟が彫刻の道へ進む中、観山は絵を学びます。師であった日本画家の繋がりから、間もなく日本画家。狩野芳崖に学ぶようになりました。さらに芳崖の知人であった橋本雅邦にも師事しています。1889年、東京美術学校一期生として日本画科に入学。このとき同期の横山大観、二期生の菱田春草らと出会います。学校卒業後はそのまま美術学校の助教授に引き抜かれるなど、早くからその才能は確かなものでした。
1898年、岡倉天心の校長辞任に続くように春草と共に学校を去ると、天心の日本美術院設立に参加。第一回院展では大観と共に最高賞の銀賞を獲得しました。1901年には美術学校に復帰するものの、1903年には文部省の支援のもとイギリスに渡ります。欧州では現地の洋画を日本画で模写するなど研究を重ね、3年ほど滞在しました。観山の欧州滞在中に美術院の活動は停滞しますが、帰国後は天心・大観・春草・木村武山に続いて茨城の五浦海岸に転居しました。また文展の設立時には審査員を務めるとともに自らも出品しています。1913年の天心の死で、観山は文展審査員を退き日本美術院の再興に集中しました。再興院展では第一回から連続して大作を発表しています。
文展を引退し在野の画家となってもその技術力は確かなものであったことから、1917年には帝室技芸員に任命されています。
古来からの大和絵の技法と朦朧体を巧みに使いこなし、さらに欧州の色彩までも学んだ観山の作品は、物議を醸すこともありましたが、近代化の波に揺れる日本の中で、日本古来の伝統美術を継承するのに大きな役割を果たしたといえるのではないでしょうか。
安井曾太郎と並び戦後日本の洋画壇を支えたのが洋画家・梅原龍三郎です。
梅原は1888年に京都に生まれました。中学校を中退し、伊藤快彦の画塾で洋画の基礎を学びました。その後聖護院洋画研究所、関西美術院と渡り、安井曽太郎と共に浅井忠に指導を受けています。
1908年、欧州へ渡り翌年にはルノワールに師事しました。帰国後の1913年には滞欧中の作品を一堂に会する展覧会を開き、当時の画壇に衝撃を与えます。1921年、二度目の欧州訪問から戻りアトリエを鎌倉に移すと岸田劉生と親交を持ちました。1935年には帝国美術院の会員に、さらに44年には帝室技芸員に任ぜられた他、東京美術学校にて後進の指導にもあたります。
1952年、安井と共に美術学校を退職し、その他の役職も全て退き身軽になった梅原は、国交の回復したヨーロッパに再び渡りました。その後は日本とヨーロッパを行き来しながら制作を行い、1973年にはフランス政府より勲章を授与されています。
写実的な安井曽太郎とは対照的に、伝統的な日本画の装飾も取り入れた画風は生命感にあふれ、好んで描いた富士や浅間は展覧会で高く評価されました。
また、数々の美術団体に参加した人物でもあり、特に国画創作協会の頃から在籍していた国画会では、戦後まで主宰を務めています。
浜口陽三は和歌山県出身の版画家であり、銅版画の一種であるメゾチントを復興し、カラーメゾチント技法の開拓者です。また、葉巻の愛好者としても知られております。妻である南桂子も版画家です。
1909年にヤマサ醤油の創業家である浜口家の十代浜口儀兵衛の三男に生まれた浜口陽三は、6歳で千葉に移り住み東京の京華中学校の終わりから小林万吾に洋画、建畠大夢に彫刻を学びました。東京美術学校(現東京芸術学校)塑像科に進学した浜口陽三ですが2年で中退し、パリへ渡航します。
1937年ころよりドライポイント(銅板に直接針で図柄を描くといった銅版画技法の一種)の制作を試み、版画家への道を歩み始めました。
1939年に帰国し、日本美術家協会に創立会員として参加するも戦時中ということもあり作品発表の場には恵まれませんでした。
第二次世界大戦後の1950年頃より本格的に版画の制作を始めた浜口陽三は再度渡仏し、その後はフランスにて制作をするようになりました。
1957年にはサンパウロ国際版画ビエンナーレの版画大賞と東京国際版画ビエンナーレにて国立近代美術館賞をダブル受賞したことで国際的に評価が高まりました。
その後も国際的な賞を数々受賞し、1984年のサライエボ冬季オリンピックの記念ポスターに作品が用いられたりするなど、国際的に高い評価を受けました。
浜口陽三はメゾチント技法の復興者としても国際的に知られ、写真術の発達により長く途絶えていたこの技法を復興させるだけでなく、色版を重ねてるといった「カラー・メゾチント」の技法を発展させたことで知られております。
須田剋太は埼玉県出身の力強く荒々しい作風が魅力的な洋画家です。
埼玉県の吹上町に生まれた須田剋太(本名勝太郎)は埼玉県立熊谷中学校を卒業後に東京の本郷にある川端画学校で学んだ後に東京美術学校の入学を試みましたが4回失敗してしまうなどの苦労をされました。
最初は光風会展に出品し1937年の第24回展で光風特賞を受賞し、1940年には光風会会員になります。また、新文展では「読書する男」、「神将」がそれぞれ特選を受賞する等の実績を残します。この頃は仏像や堂塔を多く題材としており、戦中から戦後にかけては東大寺に寄寓をしております。
光風会退会後は国画会の会員となり官展の流れから離れ、前衛画家である長谷川三郎に刺激を受けたことで1949年より抽象画に没頭しました。
その後は国画会展、現代日本美術展、日本国際美術展、サンパウロ・ビエンナーレ展、ヒューストン美術展、プレミオ・リソーネ展、ピッツバーグ・カーネギー展などの国際展に制作発表し、激しい感情をこめたダイナミックな抽象表現を展開しました。再び具象画を手がけ、抽象や具象にこだわらない独特な画境を拓きました。
1971年から挿絵を担当した司馬遼太郎の「街道をゆく」は1990年まで連載され、その挿絵原画は8枚から10枚を毎月描かれ、「一枚一枚を、完全な絵と思って描く」態度に貫かれ掲載紙ではモノクロ印刷であるにもかかわらず全て彩色され、その迫力ある重量感が挿絵の“革命”としての評価を得ました。
晩年は関西の画家の中での所得番付がトップを占めるなどその作品の評価と価格は上がったにも関わらず天衣無縫な生活を送り、平成元年には、手持ちの自作作品を公的機関(大阪府2134点、埼玉県立近代美術館225点、飯田市美術博物館458点)にすべて寄贈したことでも有名な作家となります。
安野光雅は、大正から半世紀にかけて活躍している画家・絵本作家です。その個性的な作風から日本国内だけでなく海外からも支持され高い人気を得ており、国際アンデルセン賞など多くの賞を受賞しました。
安野の作品は細部まで書き込まれており、また緻密でありながらも親しみやすさや優しさを感じる作風となっております。美術の分野だけでなく文学・数学・科学の分野にも造詣が深く、その知識と想像力を駆使し驚きや発見に満ちた独創性のある作品を手がけています。
旅館を営む家に生まれた安野は、学業を終えてから鉱業所や小学校の教員を務めました。山口師範学校研究科を終了してからは美術教員として上京し、教師を務めながら本の装丁やイラストを手がけていました。35歳になってから絵描きのみでの生活を始め、42歳の時に刊行された絵本「ふしぎなえ」がデビュー作となりました。この「ふしぎなえ」はオランダの画家であるエッシャーから影響を受け作られた作品で、世界中から評価を得た安野光雅の代表作です。