江戸時代に活躍した文人画家、岡田半江。晩年は九州に移り多くの作品を残しました。
岡田半江は1782年、大坂(現・大阪)の米屋に生まれました。父、岡田米山人は米屋を営む一方、文人画家としても活動しており、半江も父に倣い絵を描くようになりました。家業の米屋を継ぐ一方で、父と同じく伊勢国藤堂藩に下役として仕え、頼山陽をはじめとする多くの文人たちと交流を持っていました。家業を息子に譲った後は、天満橋の別宅で田能村竹田などと交流しつつ、気ままに制作を行っていたようです。しかし1837年、大坂で起こった大塩平八郎の乱に巻き込まれ別宅が焼失。父から受け継ぎ、自分でも集めていた膨大な書画転籍のコレクションを失います。
半江はこれをきっかけに、遠く九州は大分の住吉浜へと居を移しました。この住吉浜で描かれた晩年の作品は、半江の作品の中でも特に高く評価されています。
文明開化間もない日本で新進気鋭の洋画家としてデビューするも、間もなく日本画に転向するという異色の経歴をもつ画家、下村為山。かの有名な俳人、正岡子規と深い親交を持つ人物でもありました。
下村は1865年に愛媛の松山で生まれます。17歳の頃上京し、漢学を学んだ後、洋画家の本多錦吉郎や小山正太郎に絵を習います。1890年の内国勧業博覧会では二等妙技賞を獲得し、その後の展覧会でも好評を博しました。
転機となったのが正岡子規との出会いです。下村は俳句に没頭する一方、正岡に対して絵を教えるようになりました。その後、俳画の研究を始めた下村は、次第に日本の伝統絵画の魅力に惹かれ洋画家から日本画家に転向しました。正岡の没後は故郷松山に戻り、俳画の研究を続けた他、正岡を追悼する「子規居士髪塔」や松山市章のデザインも行っています。
どの流派からも独立した下村は、俳画を通して現代日本水墨画において高く評価されましたが、1949年戦中から疎開していた富山にて亡くなりました。
洋画と日本画の両方を学び描いた画家、青木大乗。巧みな色彩で奥行きを感じさせる静物画は、観る者を引き込む魅力があります。
青木は1894年、大阪の天王寺に生まれ、中学校卒業後京都の関西美術院で洋画を、京都絵画専門学校で日本画を学びました。初期の作品は洋画が中心で、新燈社洋画研究所を開設し展覧会を開催しています。1935年、洋画研究所を解散し日本画家、結城素明・川崎小虎らと大日本美術院を創設。以後は日本画家として作品を発表していきます。大日本美術院の解散後は終生無所属を貫き、個展を発表の場としました。晩年は水墨画に取り組み、洋画時代から受け継ぐ写実を基本とした描法で、作風を確立しています。
池田満寿夫は、1934年生まれの昭和を代表する作家・芸術家です。
1980年代にテレビなどのメディア出演を多くしていたことからご存じの方も多いかと思います。池田満寿夫を一躍有名にしたのは、芥川賞を受賞した「エーゲ海に捧ぐ」ではないでしょうか。
文学の他にも彫刻や陶芸、映画監督などとマルチな才能を発揮しておりますが、その中でもやはり画家としての一面は、官能的な「池田芸術」が前面に押し出たものが多く、国際的にも親しまれています。
そんな池田満寿夫は数多くの作品を輩出しており、制作した版画は1000点余り、陶芸作品は3000点を超えるとみられています。版画は絵画作品の中でもかなり力を入れられており、木版やシルクスリーン、リトグラフなどを制作していますが、中でもドライポイント技法による銅版画は高い評価を得ております。
池田満寿夫の官能的な芸術世界は、深層意識を駆り立てるような不思議な魅力を感じられます。機会がございましたら、是非一度ご鑑賞ください。
前田青邨(まえだせいそん)は、岐阜県出身の日本画家です。
歴史画の名手であり、また近代日本画家・平山郁夫の師匠としても知られております。
日本の伝統的な大和絵を学び、ヨーロッパ留学で西洋絵画、とくに中世イタリア絵画の影響を受け、武者絵などの歴史画を軸として花や鳥といった自然物まで幅広い題材の作品を制作しました。
画壇から日本画界の発展を支え文化勲章を受賞したほか、法隆寺金堂の壁画の修復や高松塚古墳の壁画の模写など、歴史的・文化的事業にも多く携わった芸術家です。晩年にはローマ法王庁の依頼を受け、バチカン美術館に収蔵する「細川ガラシア夫人像」を完成させています。
前田青邨の作風で特に有名なのは、綿密な鎧兜の描写がされた武者絵なのではないでしょうか。代表作である1929年の作品『洞窟の頼朝』は、重要文化財にも指定されております。大胆な構図で、なおかつ風格を感じさせる線や色使いは花鳥画などでも見受けられ、青邨の人気の所以であることが窺い知れます。