岡本 太郎

岡本太郎は太陽の塔の制作者として知られる、日本を代表する芸術家です。
彼が描き作り出す抽象の世界は、日本のみならず全世界の芸術に大きな影響を与えました。

神奈川県の高津村(現川崎市高津区)に生まれ、幼少期より絵を描く事が好きな子どもとして育ちます。東京美術学校在学中の1929年に父親の仕事でパリへ移住、一時期は芸術の意味に迷いますが、偶然目にしたピカソの作品に大きな衝撃をうけます。以後、岡本はピカソを超えることを目標に、抽象作品の制作に没頭することとなります。

第二次大戦の勃発で日本に戻った岡本は、軍の招集命令により陸軍兵士として中国へ派遣されました。終戦から半年後に帰国し、制作活動を再開します。1951年、東京国立博物館で展示されていた縄文火焔土器をみて、その芸術性に影響をうけます。1960年代にはメキシコに滞在し、ホテルの壁画制作の依頼を受けます。これが代表作『明日の神話』の制作へつながります。同時期に大阪万博のテーマ展示を依頼され、シンボルとなった『太陽の塔』を設計しました。その後も意欲的に活動を続け、頻繁に作品展も開催し多くの作品を残しました。メディアで取り上げられることも多く、そのユニークなキャラクターから人気を集めています。

岡本は1996年に亡くなりますが、その後も彼の作品は注目を集めました。1999年には地元川崎市に岡本太郎美術館が開館し、2003年には行方不明になっていた代表作『明日の神話』が発見されました。現在は修復され渋谷駅連絡通路に展示されています。また2011年には生誕100年を記念した展覧会が東京国立近代美術館で開催されました。

有名な「芸術は爆発だ」との言葉通り、自由で派手な作品を多く残していますが、その作品それぞれには彼が未来へ伝えたい想いが色濃く現れています。

笹倉 鉄平

笹倉鉄平は兵庫県出身の、1990年にデビューした風景画家です。

「光の情景画家」と称され、柔らかな筆致で描き出される情景とパステル調の幻想的な色合いは、日常の一コマへ物語を与え、観る者を引き込むような作品となっています。

笹倉は1977年の大学卒業後、グラフィックデザイナーやイラストレーターといった職についていました。この頃は広告やパッケージデザインなどを行っています。1987年から毎日新聞カラー版で連載した欧州風景画シリーズが評判を呼び、90年に始めての個展を開催します。以後本格的に画家の道へと進みました。

その作品の多くはヨーロッパやアメリカの風景が元になっていますが、自然の色彩を感じ取る日本人ならではの感性が表れています。

現在まで多くの作品を描き、国内外問わず個展も開催しています。

白髪 一雄

白髪一雄はフットペインティングで作品を描くことで有名な抽象画家です。

1924年兵庫県尼崎市に生まれ、中学時代に入った絵画部がきっかけとなり、画家を目指すようになりました。京都市立絵画専門学校では日本画を学びますが、卒業後は洋画に転向し、作品制作に取り組みました。1955年には吉原治良率いる具体美術協会に参加します。ここでは絵画だけでなく、立体作品やアートパフォーマンスも行っていきます。1971年には密教に関心を持ち出家、比叡山延暦寺の僧侶となりました。

その功績が評価され、兵庫県文化賞や地域文化功労者表彰などを受賞しています。

特徴的なフットペインティングは1954年に始めています。これは天井から吊るしたロープにぶら下がり、床に広げたキャンバスの上を、素足で滑りながら絵の具を広げていく描法です。一時期はスキージと呼ばれるヘラを用いた描法に転じた事もありますが、1978年頃以降は晩年までこの描法を貫きました。

描かれるラインはダイナミックですが、その中に妖しさも含み、見る者を引き込んでいく。そんな彼の作品は海外での評価も高く、最も有名な具体アーティストとともいわれます。

片岡 球子

片岡球子は戦後日本を代表する女性日本画家です。

女子美術専門学校(現女子美術大学)日本画科を1926年に卒業し、小学校教員として勤めながら制作を行いました。1930年・33年の院展で入選を果たしますが落選も多く、1939年の院展以降安定して入選するようになります。1950年には母校の女子美術大学で日本画科講師に就任、65年には教授となります。翌年、愛知県立芸術大学に移り、日本画科主任教授となりました。1976年の勲三等瑞宝章を始まりに、日本芸術院会員に選出、文化功労者顕彰と続き、1989年には女性画家で三人目となる文化勲章を受章するなど多くの功績を残しています。

従来の日本画とは一線を画す鮮烈な色彩は、球子作品の大きな特徴となっていますが、初期はその異色さから評価されず、両親からも画家になることに反対されていたそうです。しかし時代の流れとともにその独創的な作品は注目されるようになります。代表作である「富士山」シリーズは、現在でも直筆日本画・リトグラフともに高い人気を誇っています。

月岡 芳年

最後の浮世絵師・月岡芳年

生涯浮世絵を描き続け、日本の浮世絵史に残る数々の名作を生み出した人物です。

月岡芳年(本名・吉岡米次郎)は1839年に江戸新橋の商人の家に生まれました。間もなく浮世絵師・月岡雪斎の養子となり、絵を学びます。1850年、有名浮世絵師・歌川国芳のもとに入門します。この頃はまだ月岡という姓は用いておらず、1853年の『画本実語教童子教余師』では吉岡芳年の号で挿絵を描いていました。1865年以降、養父雪斎の姓である月岡を名乗るようになりました。1866年から67年にかけて、同じ国芳門下で兄弟子の落合芳幾と『英名二十八衆句』を制作します。この作品が、後の芳年の代名詞ともいえる「無惨絵」作品の出発点となりました。明治維新後も様々な作品を作りますが、1870年頃から神経衰弱となってしまいます。3年ほどかけて回復し、新しい描法の研究にも取り組むようになります。1874年には代表作『桜田門外於井伊大老襲撃之図』を発表、その後は新聞挿絵の仕事などを得るようになります。1885年には『奥州安達が原ひとつ家の図』を発表し、当時の浮世絵師の中でトップクラスの人気絵師となりました。その後も数々の作品を発表し、200人以上の弟子も育てるなど、明治日本の浮世絵を代表する存在となります。1889年には妖怪画『新形三十六怪撰』の制作を開始します。しかし制作途中から体調を崩しはじめ、1892年に亡くなりました。

無惨絵のイメージが強い芳年ですが、他に美人画や役者絵、武者絵など数多くの浮世絵を制作しており、近年その評価も高まっています。