ベルナール・シャロワ

透き通るような白い肌、画面の向こうからこちらを見つめる優しい眼差し。フランス人画家のベルナール・シャロワが描くパリジェンヌの微笑みは、世界中で多くの人々を魅了しています。

1931年にフランスの村に生まれ、第二次大戦後は技術学校に進学しました。1955年、パリで絵画の基礎技法を学んだ後、初期は政治家の肖像画を描くなどイラストレーターとして生計を立てます。可憐な女性像作品の人気が高まると共に世界中でその作品が販売されるようになり、間もなく日本でも個展が開催されました。

清潔感を持ち、裸婦像でさえ清楚を宿す作品たちは、部屋にも飾りやすく、今も高い人気を誇ります。また油彩画の他に、リトグラフ作品も数多く手掛けており、油彩画に比べ手軽に楽しめることからこちらも人気となっています。

 

安井 曾太郎

青い服を纏い肘掛け椅子に座る女性の姿。梅原龍三郎と並び昭和洋画壇の双璧を成した画家・安井曾太郎の代表作『金蓉』は、当時の写実主義絵画のまさに基準となるような作品でした。

安井は1888年、京都の商家に生まれます。親の反対を押し切り商業学校を中退し、画家を目指した安井は平清水亮太郎に洋画の基礎を学びました。その後は聖護院洋画研究所に入り、梅原龍三郎と共に浅井忠に学びます。
1907年、津田青楓について欧州へ渡ります。このときこれまでの作品を処分し、安井の初期作はほとんどが失われました。滞欧中はポスト印象派・セザンヌに強く影響を受けています。帰国翌年の第二回二科展では滞欧中の作品44点を発表し、一躍注目を集めました。
その後は二科展での発表を続けますが、『金蓉』を発表した翌年、帝国美術院の会員となり二科会を去ることとなります。1936年、有島生馬らと一水会を結成。安井は最期まで会員として籍を置きました。
戦時中には東京美術学校の教授を務め、1944年には帝室技芸員にも任ぜられています。戦後は日本美術家連盟の会長を務め、1952年には文化勲章を受章しています。

対象を細部まで観察し、破綻無く画面に収めた作品は、セザンヌの複雑な人体描写も取り入れられた非常に高度で写実的な作品となりました。梅原と並び、その作品たちは今日に至るまで、日本洋画史において重要な存在となっています。

梅原 龍三郎

梅原龍三郎 リトグラフ 「犬を抱く少女」

安井曾太郎と並び戦後日本の洋画壇を支えたのが洋画家・梅原龍三郎です。

梅原は1888年に京都に生まれました。中学校を中退し、伊藤快彦の画塾で洋画の基礎を学びました。その後聖護院洋画研究所、関西美術院と渡り、安井曽太郎と共に浅井忠に指導を受けています。
1908年、欧州へ渡り翌年にはルノワールに師事しました。帰国後の1913年には滞欧中の作品を一堂に会する展覧会を開き、当時の画壇に衝撃を与えます。1921年、二度目の欧州訪問から戻りアトリエを鎌倉に移すと岸田劉生と親交を持ちました。1935年には帝国美術院の会員に、さらに44年には帝室技芸員に任ぜられた他、東京美術学校にて後進の指導にもあたります。
1952年、安井と共に美術学校を退職し、その他の役職も全て退き身軽になった梅原は、国交の回復したヨーロッパに再び渡りました。その後は日本とヨーロッパを行き来しながら制作を行い、1973年にはフランス政府より勲章を授与されています。

写実的な安井曽太郎とは対照的に、伝統的な日本画の装飾も取り入れた画風は生命感にあふれ、好んで描いた富士や浅間は展覧会で高く評価されました。
また、数々の美術団体に参加した人物でもあり、特に国画創作協会の頃から在籍していた国画会では、戦後まで主宰を務めています。

浜口 陽三

浜口陽三は和歌山県出身の版画家であり、銅版画の一種であるメゾチントを復興し、カラーメゾチント技法の開拓者です。また、葉巻の愛好者としても知られております。妻である南桂子も版画家です。

1909年にヤマサ醤油の創業家である浜口家の十代浜口儀兵衛の三男に生まれた浜口陽三は、6歳で千葉に移り住み東京の京華中学校の終わりから小林万吾に洋画、建畠大夢に彫刻を学びました。東京美術学校(現東京芸術学校)塑像科に進学した浜口陽三ですが2年で中退し、パリへ渡航します。
1937年ころよりドライポイント(銅板に直接針で図柄を描くといった銅版画技法の一種)の制作を試み、版画家への道を歩み始めました。
1939年に帰国し、日本美術家協会に創立会員として参加するも戦時中ということもあり作品発表の場には恵まれませんでした。

第二次世界大戦後の1950年頃より本格的に版画の制作を始めた浜口陽三は再度渡仏し、その後はフランスにて制作をするようになりました。
1957年にはサンパウロ国際版画ビエンナーレの版画大賞と東京国際版画ビエンナーレにて国立近代美術館賞をダブル受賞したことで国際的に評価が高まりました。
その後も国際的な賞を数々受賞し、1984年のサライエボ冬季オリンピックの記念ポスターに作品が用いられたりするなど、国際的に高い評価を受けました。

浜口陽三はメゾチント技法の復興者としても国際的に知られ、写真術の発達により長く途絶えていたこの技法を復興させるだけでなく、色版を重ねてるといった「カラー・メゾチント」の技法を発展させたことで知られております

須田 剋太

須田剋太は埼玉県出身の力強く荒々しい作風が魅力的な洋画家です。
埼玉県の吹上町に生まれた須田剋太(本名勝太郎)は埼玉県立熊谷中学校を卒業後に東京の本郷にある川端画学校で学んだ後に東京美術学校の入学を試みましたが4回失敗してしまうなどの苦労をされました。

最初は光風会展に出品し1937年の第24回展で光風特賞を受賞し、1940年には光風会会員になります。また、新文展では「読書する男」、「神将」がそれぞれ特選を受賞する等の実績を残します。この頃は仏像や堂塔を多く題材としており、戦中から戦後にかけては東大寺に寄寓をしております。

光風会退会後は国画会の会員となり官展の流れから離れ、前衛画家である長谷川三郎に刺激を受けたことで1949年より抽象画に没頭しました。
その後は国画会展、現代日本美術展、日本国際美術展、サンパウロ・ビエンナーレ展、ヒューストン美術展、プレミオ・リソーネ展、ピッツバーグ・カーネギー展などの国際展に制作発表し、激しい感情をこめたダイナミックな抽象表現を展開しました。再び具象画を手がけ、抽象や具象にこだわらない独特な画境を拓きました。
1971年から挿絵を担当した司馬遼太郎の「街道をゆく」は1990年まで連載され、その挿絵原画は8枚から10枚を毎月描かれ、「一枚一枚を、完全な絵と思って描く」態度に貫かれ掲載紙ではモノクロ印刷であるにもかかわらず全て彩色され、その迫力ある重量感が挿絵の“革命”としての評価を得ました。

晩年は関西の画家の中での所得番付がトップを占めるなどその作品の評価と価格は上がったにも関わらず天衣無縫な生活を送り、平成元年には、手持ちの自作作品を公的機関(大阪府2134点、埼玉県立近代美術館225点、飯田市美術博物館458点)にすべて寄贈したことでも有名な作家となります。

関根 伸夫

戦後日本の現代美術に大きな影響を与えた「もの派」。その中心的位置にいたのが現代芸術家・関根伸夫です。

1942年埼玉県大宮に生まれ、高校卒業後は多摩美術大学の油絵科に進学します。このとき指導をうけた現代美術家の斎藤義重に大きく影響を受けます。1968年大学院を卒業すると、この年の現代日本野外彫刻展にて《位相―大地》を発表。地面に穴を掘り、堀った土を穴と同じ円柱状にして横に並べたその作品は、多くの人に衝撃を与えました。これを目にした韓国人美術家・李 禹煥により「もの派」が始まります。
関根自身は1970年にヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表となったのを機に渡欧し、2年間ヨーロッパで過ごしました。帰国後は環境美術研究所の設立の他、多くのパブリックアートの制作に携わっています。世界各地の美術館で多くの展覧会も開催されましたが、2019年に体調を崩し、アメリカ・カリフォルニアで亡くなりました。

代表作には《位相―大地》の他、《位相―スポンジ》、《空相》などがあります。

藤田 嗣治

日本を離れフランスで活躍した画家、藤田嗣治。晩年、フランスに帰化しレオナール・フジタとなった彼の人生は波乱万丈に満ちたものでした。 藤田は1886年、東京牛込の医者の家に生まれます。子供の頃からよく絵を描き、旧制中学卒業 …

鴨居 玲

孤独や不安といった人間の内面を画面に描き出す画家・鴨居玲。作風の模索を繰り返しながらようやくたどり着いたその画風は、鴨居自身の苦悩や不安が投影されたものでした。 鴨居は1928年、金沢に生まれたとされています。はっきりし …

小磯 良平

昭和の日本洋画界をけん引した画家、小磯良平。現地で学んだヨーロッパの伝統的な絵画技法に、自身の描写力や色彩感覚を調和させた、モダンで気品のある画風が特徴となっています。 小磯は1903年、神戸の旧家に生まれました。外国人 …

奈良 美智

現代日本アートを代表する人物となっている奈良美智。その名は日本のみならず海外でも広く知られています。 奈良は1959年、青森県弘前市に生まれました。地元の高校を卒業後は武蔵野美術大学を経て、愛知県立芸術大学にて大学院まで …

香月 泰男

香月泰男は山口県出身の洋画家です。 故郷・山口を愛し、「ここが<私の>地球だ」と語った彼は、自身の悲惨な体験を元に、人間愛と平和をテーマとした作品を描き続けました。 1911年、山口県三隈村(現・長門市)に生まれ、地元の …

荻須 高徳

「最もフランス的な日本人」。当時のパリ市長で、のちに大統領となるジャック・シラクは、彼のことをこのように評しました。 荻須高徳はその生涯の大部分を、フランスでの制作活動に捧げ、今もフランスの地で眠る洋画家です。 1901 …

歌川 広重

葛飾北斎と並ぶ江戸の有名浮世絵師・歌川広重。『東海道五十三次』に代表する数多くの作品は江戸庶民から現代に至るまで、多くの人々の心を掴みました。 広重は元々は江戸の定火消に所属する家系でしたが、幼いころから絵に対する興味を …

小山 敬三

残雪を頂き陽光に照らされる浅間山。時には日没間近の夕日に輝き、時には力強く噴煙を上げる。そんな四季折々の浅間山の表情を描いたのが、長野県小諸市の洋画家・小山敬三です。 敬三は1897年、長野県の小諸町(現・小諸市)に生ま …

葛飾 北斎

『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』、彼方に見える富士を背景に、そびえ立ち崩れ落ちようとする大波と、必死に耐える小舟の姿。 浮世絵界で最も著名な人物であり、世界的にも有名な浮世絵師・葛飾北斎によって描かれたその作品は、日本文化 …

歌川 国芳

奇想天外な作品の数々が現代でも人気な歌川国芳。 多岐にわたる奇抜なテーマと迫力ある画面構成は、江戸庶民からも人気を得ており、多くの作品が現代に受け継がれています。 国芳は1748年に江戸日本橋で生まれました。幼いころから …

河鍋 暁斎

狩野派絵師でありながら多くの浮世絵も描いた絵師・河鍋暁斎。幕末から明治へと向かう動乱の時代の中で、実力を発揮し、高い評価を得た人気絵師です。 暁斎は1831年に下総(現在の茨城)で生まれました。翌年は家族で江戸に移り、以 …

橋本 明治

橋本明治は、島根県出身の日本画家です。 明治37年に生まれ、幼少期に祖父の影響を大きく受けて、絵画の道を進みます。 中学校を卒業した翌年の4月に上京。東京美術学校日本画科に入学しました。同期には、明治と共に日本画家の大御 …

棟方 志功

棟方志功は日本を代表する版画家です。 「板画」と称した志功の版画は、その独特な作風から現在でも高い人気を誇っています。また「倭画」と称した肉筆画も、同様に人気の高いものとなっています。 志功は1903年、青森の刀鍛冶職人 …

加山 又造

加山又造は、京都出身の日本画家です。 西陣の衣装図案師を父に持ち、祖父は京都四條派、円山派に学んだ絵師の下で生まれ育ちました。父は弟子を抱えて工房を営んでいたこともあり、幼いころから父や弟子の方たちの仕事を見ていたことと …

東山 魁夷

東山魁夷は、1908年(明治41年)神奈川県横浜市に生まれました。 本名は新吉といいます。 東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業後、ドイツに留学しました。 ドイツ留学の後に太平洋戦争への召集に応じて軍隊にはいります。 …

平山 郁夫

平山郁夫は、日本美術院理事長や一ツ橋総合財団などで理事等の重要なポストを歴任し、美術界だけでなく教育界にも多大に貢献した日本を代表する洋画家です。 1930年に広島県に生まれた平山郁夫は1952年に美術学校を卒業したと同 …

北野 恒富

北野恒富は関西画壇の中心人物として活躍した近代の日本画家です。 幼い頃より絵を描き、小学校卒業後の1892年、版画制作業者の元で木版画を学びます。また同時に南画も学んでいました。その後は様々な木版画彫刻師に学びますが、間 …

彼末 宏

暗色の画面の中に浮かぶ鮮やかな色彩   晩年の作品に多くみられたこの配色が、画家・彼末宏の代名詞といえるものです。 彼末宏は1927年に東京に生まれました。その後北海道に移り、1945年には陸軍士官学校へ進みますが、まも …