千利休の実子であり、「道安風炉」などで知られる千道安についてご紹介致します。
道安は天文15年(1546年)、千利休と三好長慶の妹である宝心妙樹(お稲)の間に長男として生まれます。初名は紹安。
母の宝心妙樹が亡くなると、後妻に宗恩を迎えた利休との関係は悪化し、道安は家を出ます。その後、和解に至るまで10年もの間、二人の面会はなかったといわれています。
宗恩の連れ子である千小庵とは、一度たりとも同じ茶会に参加することがなかったといわれるほど相容れない関係でした。
その小庵と共に豊臣秀吉に仕え、茶頭八人衆に数えられるほど、道安は茶人として頭角を現していきます。
利休の切腹後、飛騨高山藩金森長近の元に身を寄せ、しばらく謹慎することになります。
そして「小庵召出状」によって千家再興が認められると、堺に戻り本家である堺千家の家督を継ぎました。
その後は再び秀吉や細川三斎の茶道を務めることもありましたが世継ぎには恵まれず、道安の死後、堺千家は断絶してしまいます。
千道安に関するエピソードは『茶話指月集』に残されており、利休や秀吉との関係性を垣間見ることができます。
道安が残した功績としては、茶道具の灰匙に金属を用いたことが有名であり、『茶話指月集』にもその話があります。
それまでの灰匙は竹に土器をさしたものが使われていたそうで、道安が金属のものを使うと、初めはそれを見て笑った利休ものちに金属製のものを使うようになりました。
他にも、小座敷に天窓を開けたり、道安囲や道安風炉を考案したりと、独創的な茶人であったと言われています。
道安風炉の特徴として、その形状から様々な釜との合わせやすさが挙げられ、表千家八代啐琢斎の好み物として道安風炉を写した鉄道安風炉が作られるなど、多くの茶会にて好んで使用されてきました。
そのため、風炉師の山崎宗元や釜師の和田美之助など、道安風炉は作家によって高い評価となる場合があります。
茶道裏千家十二代 直叟玄室 又玅斎についてご紹介致します。
角倉玄寧の子として生まれ、裏千家十一代・玄々斎の婿養子となった人物です。
十三代・円能斎の父に当たります。
又玅斎は20歳で家督を継ぎ、32歳で引退しております。
時代は明治初期、明治新政府が近代化を推し進める流れの中で、茶道は陰りをみせていました。苦悩の多い時代に家督を継いだ又玅斎でしたが、先代の玄々斎とともに裏千家、引いては茶の湯の権威を保つことにつとめました。
息子・円能斎に家督を譲った後も畿内で茶人を育て、地方に茶を普及するなど円能斎以降の裏千家隆盛に側面から寄与しました。
又玅斎の好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)として有名なものには、「住吉釜」が挙げられます。
名が示す通り、こちらは住吉大社に伝わる釜に倣った作品となります。釜の絵は又妙斎自身が描いていることでも知られています。
そのほかの好み物や、自身で制作した「茶杓」や「茶掛」といったお品物も裏千家家元作品として高い評価を持ちます。
角谷一圭は、大阪市出身の釜師です。茶の湯釜の最高峰といわれる筑前芦屋釜の復元に成功し、その技術の高さから人間国宝に認定されました。
1904年に生まれ、小学校に入学した頃から釜師であった父の仕事を手伝っていました。年月が経つにつれ自らも鋳物に興味を示すようになり、父から製作技術を学んでいきます。
21歳の頃、大阪工芸展に鉄瓶を初出品し、受賞した事で本格的に釜師の道を歩み始めます。その後は大国藤兵衛や香取秀真の指導を受け、鋳金全般の技術を学びました。以降多数の作品を制作し、日展や日本伝統工芸展などへの出品を行い多くの受賞を重ねました。日本工芸展に出品した「海老釜」が高松宮総裁賞を受賞した事が話題となり、それからの日本工芸展では角谷一圭の名前が常連となります。その随一の技量は、1978年に「茶の湯釜」で重要無形文化財にされたことで証明されております。
造形・地紋に溢れる気品は一圭ならではであり、現在は大阪市の工房でその技術が息継がれております。