和田 鱗司は、京都で三代続く竹芸師の家系で、唐物の籠などの茶道具を得意としています。竹の目が細かく、機能性と芸術性を兼ね備えた作風が特徴的です。
初代は京都に生まれ、和田鱗司と名乗って唐物の制作を行いました。しかし記録があまり無く、初代と二代目は生没年不詳となっています。
三代目鱗司は、初代の跡を継いだ二代目鱗司(修蔵)の四男で、幼少期から茶道具の制作に励みました。二代目の死去により、三代目としての名を継承し、現在まで活動を続けています。その作品は、初代から受け継がれた技術と精神を現代に伝える重要な役割を果たしています。
浅見 隆三(あさみ りゅうぞう、1904年9月26日 – 1987年7月23日)は、昭和時代を代表する日本の陶芸家であり、日展参事を務めた人物です。
京焼の名家である三代目・浅見五良助の次男として生まれ、祖父である二代目五良助のもとで育ちました。祖父からは、土造りや轆轤挽き、窯焚きなどの技術を学び、作陶の基礎を築きました。
浅見の作風は、中国宋時代の青白磁を基調にしつつ、現代的な感覚を取り入れた独自のものです。特に、象嵌技法や泥漿(でいしょう)による装飾が特徴的であり、これらの技法を用いて、抽象的でありながらも力強い作品を生み出しました。
彼の作品は、現在も多くの美術館や個人コレクションに所蔵されており、その革新的な作風と技法は、現代陶芸の重要な一翼を担っています。
1942年、滋賀県信楽町に生まれた神崎紫峰は、関西大学法学部に進学し、当初は法曹界を目指していました。しかし、卒業後に陶芸の道へ進むことを決意します。
作品を築き上げていく過程では多くの苦闘がありましたが、やがて桃山時代以前の幻の名陶とされる古信楽・古伊賀の再現に成功し、その成果は作品にも大きな影響を与えました。
神崎は公募展には出品せず、個展を中心に活動を続けてきました。その影響もあってか、国内よりもドイツやアメリカなど海外での評価が高い作家として知られています。アメリカ陶芸界の最高峰と称されるピーター・ヴォーコスも、神崎紫峰の作品と作陶活動に強い関心を寄せ、実際に信楽の窯場を訪れたこともあります。
主に花瓶、抹茶碗、水指などを中心に制作しており、古信楽・古伊賀をはじめとする作品の美しさは、今なお高い人気を誇っています。
金重道明は岡山県出身の備前焼の陶芸家です。
人間国宝・金重陶陽の長男として1934年に生まれた道明は金沢美術工芸大学工芸科を卒業後すぐに朝日現代陶芸展に初入選しています。これ以降、連続で入選しています。他にも日展や日本伝統工芸展にも入選しています。1960年に渡米し、翌年に帰国。1980年に日本陶磁協会賞を受賞し、1990年には岡山県重要無形文化財の保持者となります。1995年に逝去しました。
その作風は、渡米以前と以後に分けられます。以前は鋭利で不定形な形を好みましたが、渡米以後は轆轤を使い備前焼の伝統である陶土と変窯に力を入れました。また、斬新な造形的な花入れと伝統的な茶陶を行う事でも知られます。
安倍安人は、1938年に大阪府で生まれた日本の陶芸家で、特に備前焼で知られています。
若い頃から芸術家を志し、洋画家として活躍されていました。
画家として活躍する傍ら、趣味で陶器を集めており、現代備前に物足りなさを感じていたようです。その為、自ら納得いくものを造るべく、1972年から陶芸を始めました。
1986年、岡山県瀬戸内市牛窓町に築窯。茶器や花器を中心に、備前焼の制作を行います。
古備前を始めとする古陶磁を研究されており、その理論を元にした造形や焼成は国内外で高い評価を得ています。
また多くの功績が認められニューヨークのメトロポリタン美術館や台湾の故宮博物院に作品が収蔵されました。
東京、大阪、ニューヨーク、パリ、台湾など国内外で精力的に個展を開催されています。
表千家五代 良休宗左 随流斎についてご紹介致します。
随流斎は表千家四代家元 江岑宗左 蓬源斎の養子にして、表千家五代家元となった人物です。
『随流斎延紙ノ書』という自筆の茶書を残したことで有名ですが、彼自身についての記録は少なく、表千家の中でも謎が多い人物だとされています。
隋流斎は久田家二代 久田宗利と千宗旦の娘・くれの間に生まれます。まだ幼い時に、江岑宗左の養子として迎えられました。
江岑は後嗣の男子に恵まれなかったため、後継者として妹の甥っ子に白羽の矢が立ちました。
初めは宗巴という名でしたが、後に江岑と同じように表千家が代々襲名する「宗左」を名乗ります。
しかし、随流斎は人偏を使う「宗佐」の方を好んで用いたため、「人偏宗佐」という異名で呼ばれることがあります。
義父の江岑は利休以来千家に受け継がれてきた茶の教えを筆録し、随流斎のためにも『千利休由緒書』や『江岑夏書』といった書物として残しました。
そこで随流斎自身もまた、叔父であり裏千家4代家元でもある仙叟宗室など、周りの知り合いから聞いた茶の湯に関する話を書きとめ、『随流斎延紙ノ書』という覚書を残しています。
過去の茶人にまつわる話や茶道具の話など、その詳細は表千家のホームページ(表千家 茶の湯 こころと美)にも一部取り上げられています。
他にも、『随流斎寛文八年本』や『随流斎寛文十年本』という書が残されており、そこには千少庵や千道安に関する伝承がまとめられています。
その二人に関しても、残されている資料は少なく、大変貴重な記録だと言えます。
このように随流斎は、自らの足跡だけを残すのではなく、茶の湯界全体の歴史を後世へと残すことに尽力しました。その功績からは、どこか献身的な性格が窺えます。
随流斎は奇しくも、江岑と同じく後嗣の男子に恵まれなかったため、久田家三代 久田宗全の当時12歳だった長男(表千家六代 覚々斎)を養子にとります。
しかしその二年後、42歳という若さでこの世を去ってしまいました。
随流斎の好み物として伝わっているものは少なく、真塗の手桶水指や竹尺八花入の他、黒茶碗や赤茶碗の物が現在も残っております。
随流斎の残した箱書きの作品も少なくはなく、高く評価が付く場合がございます。