1942年、滋賀県信楽町に生まれた神崎紫峰は、関西大学法学部に進学し、当初は法曹界を目指していました。しかし、卒業後に陶芸の道へ進むことを決意します。
作品を築き上げていく過程では多くの苦闘がありましたが、やがて桃山時代以前の幻の名陶とされる古信楽・古伊賀の再現に成功し、その成果は作品にも大きな影響を与えました。
神崎は公募展には出品せず、個展を中心に活動を続けてきました。その影響もあってか、国内よりもドイツやアメリカなど海外での評価が高い作家として知られています。アメリカ陶芸界の最高峰と称されるピーター・ヴォーコスも、神崎紫峰の作品と作陶活動に強い関心を寄せ、実際に信楽の窯場を訪れたこともあります。
主に花瓶、抹茶碗、水指などを中心に制作しており、古信楽・古伊賀をはじめとする作品の美しさは、今なお高い人気を誇っています。
安倍安人は、1938年に大阪府で生まれた日本の陶芸家で、特に備前焼で知られています。
若い頃から芸術家を志し、洋画家として活躍されていました。
画家として活躍する傍ら、趣味で陶器を集めており、現代備前に物足りなさを感じていたようです。その為、自ら納得いくものを造るべく、1972年から陶芸を始めました。
1986年、岡山県瀬戸内市牛窓町に築窯。茶器や花器を中心に、備前焼の制作を行います。
古備前を始めとする古陶磁を研究されており、その理論を元にした造形や焼成は国内外で高い評価を得ています。
また多くの功績が認められニューヨークのメトロポリタン美術館や台湾の故宮博物院に作品が収蔵されました。
東京、大阪、ニューヨーク、パリ、台湾など国内外で精力的に個展を開催されています。
武野紹鴎は、戦国時代の堺を拠点とした豪商であり、茶人として侘び茶の発展に大きく寄与しました。
彼は千利休の師としても知られ、茶道史において重要な位置を占める人物です。
紹鴎は、若狭国守護武田氏の一族の出身で、父とともに堺に移住しました。幼名を松菊丸、通称を新五郎といい、堺の商人として活動する一方で、茶の湯の探求に没頭しました。
京都で三条西実隆に和歌や連歌を学び、その後、南宗寺の禅僧・大林宗套に参禅することで、禅の精神を茶の湯に取り入れました。
紹鴎は、村田珠光が確立した侘び茶を継承しつつ、茶室の小型化を進めるなどの革新を行いました。従来の豪華絢爛な茶室から、2畳や3畳の小間の茶室を考案し、親密で落ち着いた空間を重視する侘び茶の新しいスタイルを確立しました。また、竹を素材とした茶杓や水指、蓋置などを自ら制作し、簡素で清らかな美意識を体現しました。
紹鴎の教えは、千利休をはじめとする弟子たちに受け継がれ、茶道の発展に大きな影響を与えました。特に千利休は、紹鴎の美意識をさらに深化させ、茶の湯を精神的な境地へと高めました。
晩年、紹鴎は京都四条に草庵「大黒庵」を設け、茶事に専念しました。彼の所有していた道具や茶室の設計、茶事の形式は後世の茶道に多大な影響を与え、今日でもその功績は高く評価されています。彼の墓は、大阪堺市の南宗寺にあります。
表千家五代 良休宗左 随流斎についてご紹介致します。
随流斎は表千家四代家元 江岑宗左 蓬源斎の養子にして、表千家五代家元となった人物です。
『随流斎延紙ノ書』という自筆の茶書を残したことで有名ですが、彼自身についての記録は少なく、表千家の中でも謎が多い人物だとされています。
隋流斎は久田家二代 久田宗利と千宗旦の娘・くれの間に生まれます。まだ幼い時に、江岑宗左の養子として迎えられました。
江岑は後嗣の男子に恵まれなかったため、後継者として妹の甥っ子に白羽の矢が立ちました。
初めは宗巴という名でしたが、後に江岑と同じように表千家が代々襲名する「宗左」を名乗ります。
しかし、随流斎は人偏を使う「宗佐」の方を好んで用いたため、「人偏宗佐」という異名で呼ばれることがあります。
義父の江岑は利休以来千家に受け継がれてきた茶の教えを筆録し、随流斎のためにも『千利休由緒書』や『江岑夏書』といった書物として残しました。
そこで随流斎自身もまた、叔父であり裏千家4代家元でもある仙叟宗室など、周りの知り合いから聞いた茶の湯に関する話を書きとめ、『随流斎延紙ノ書』という覚書を残しています。
過去の茶人にまつわる話や茶道具の話など、その詳細は表千家のホームページ(表千家 茶の湯 こころと美)にも一部取り上げられています。
他にも、『随流斎寛文八年本』や『随流斎寛文十年本』という書が残されており、そこには千少庵や千道安に関する伝承がまとめられています。
その二人に関しても、残されている資料は少なく、大変貴重な記録だと言えます。
このように随流斎は、自らの足跡だけを残すのではなく、茶の湯界全体の歴史を後世へと残すことに尽力しました。その功績からは、どこか献身的な性格が窺えます。
随流斎は奇しくも、江岑と同じく後嗣の男子に恵まれなかったため、久田家三代 久田宗全の当時12歳だった長男(表千家六代 覚々斎)を養子にとります。
しかしその二年後、42歳という若さでこの世を去ってしまいました。
随流斎の好み物として伝わっているものは少なく、真塗の手桶水指や竹尺八花入の他、黒茶碗や赤茶碗の物が現在も残っております。
随流斎の残した箱書きの作品も少なくはなく、高く評価が付く場合がございます。
千宗旦の子であり、裏千家初代(四代)家元である仙叟宗室についてご紹介いたします。
仙叟宗室は千宗旦の四男であり、裏千家を始めた人物になります。
兄弟には江岑宗左(四代表千家)、一翁宗守(四代武者小路千家)らがおり、その三人によって三千家は起こりました。
仙叟は茶人となる以前、徳川将軍家に仕えた名医の野間玄琢に師事しており、初めは医師を志します。
しかし、玄琢の死をきっかけに医師ではなく千家の人間として家を継ぐことを決めます。
因みに仙叟宗室は玄室という名で呼ばれることもありますが、その「玄」という漢字は野間玄琢から頂いたものだそうです。
江岑宗左に家督と不審庵を譲った父の宗旦は、隠居屋敷としてその不審庵の裏側に今日庵を建てました。これが”裏”千家と呼ばれる所以です。
玄室も今日庵に移り住み、宗旦と共に過ごすことで茶の湯を学びました。
宗旦の尽力もあり、玄室は31歳で大藩である加賀藩主前田家に仕官することになります。
加賀の小松城にて、三代藩主である前田利常におよそ8年間仕え、家臣だけでなく城下町の町人にまで茶道を広く普及させました。その名残は現在の小松市においても、茶の文化として残っているそうです。
その利常と父の宗旦が次いで亡くなると、玄室は裏千家を襲名し、今日庵を継承します。
そして前田家4代藩主の前田綱紀に茶頭として仕えると、金沢城下に屋敷を与えられるなど、人生の大半を金沢で過ごすことになります。
また、たびたび京都にも赴いており、寛文6年(1666年)には楽家四代一入の弟子であった土師長左衛門(大樋長左衛門)を京都から大樋村に招き、窯を築きました。これが、現在の大樋焼であり、楽焼の分派とされる所以です。
金沢市には、仙叟宗室の屋敷跡地である好古庵などといったゆかりの地が現在もあり、小松市同様に仙叟の茶は文化として深く根付いています。
晩年仙叟は京都に戻り、千利休の100回忌と利休堂の建立に取り組みますが、その間も金沢には何度も訪れていたそうです。
そして元禄10年(1697年)1月23日、75歳でこの世を去りました。
仙叟宗室は初代大樋長左衛門と共に作陶した大樋焼の中でも、渦紋や川海老のものが好みだったとされています。
また、優れた審美眼の持ち主でもあったため、仙叟の箱書があるお品物は非常に高い評価となる場合がございます。
真葛(宮川)香斎は江戸時代から続く京焼の窯元で、当代が六代目となります。
真葛焼の歴史は江戸時代、祐閑宮川小兵衛政一が貞亨年間(1684-1687)に京都・知恩院前に住居を構え、陶芸を生業としたことに始まります。
小兵衛政一の子である治兵衛・長兵衛の兄弟は、のちに京都真葛(治兵衛)・横浜真葛(長兵衛)へと別れました。京都真葛はやがて香斎を、横浜真葛は香山を名乗りはじめ、現在はその名で受け継がれております。
真葛焼の特徴としては仁清写し、乾山写しなどで用いる上絵、染付、鉄絵などの下絵や交趾、金欄手などの伝統的な京焼の技法を網羅しており、それとあわせて真葛焼の祖である宮川長造が得意としたワラ灰釉を代々使用していることが挙げられます。
写しとは京焼の特徴であり、朝鮮や中国の焼物を写して制作していたことから始まっております。単なるコピーではなく、作風それぞれの特徴と写す人の創造性を併せ持つという点に魅力があります。
時代に沿った焼き物を制作してきた宮川家の姿勢は現代にも受け継がれており、多くの人を魅了しております。