藤沼昇は、30歳の時にカメラマンから竹工芸へと転身を遂げた栃木県出身の作家です。
27歳の時に3週間のヨーロッパ旅行にて日本が持っている文化は世界に行っても恥ずかしくないといったことを感じて日本文化を継承しようと思ったそうですが、具体的にどの分野を継承するかは決めておらず、いろいろな文化を経験した後にお茶の世界では十職という世界があり、様々な職人が関わっていたこと、竹工芸をやる人が少なくなっているので竹工芸に決めたとのことです。
その後は、八木澤啓造に師事しますがわずか1年半で「もう上手だから来なくていい」と言われてしまったとのことです。そこからは独学で学び、1986年に第33回日本伝統工芸展にて日本工芸会会長賞を受賞したことを皮切りに数々の賞を受賞し、2012年竹工芸にて国の重要無形文化財(人間国宝)に認定されました。
藤沼昇が作品を制作する際に大事にしていることは気力の「気」だそうです。力強さと繊細さが作品に表されております。ただ、その力強さは藤沼昇本人だけでなく、竹本来の力強さを引き出すことだとおっしゃっており、そうして作られた作品は私たちにも力強さを分けてくれることでしょう。
太田儔は「蒟醤」にて国の重要無形文化財に認定された岡山県出身の漆芸家で、籃胎蒟醤を研究し、布目彫蒟醤や二重編み蒟醤などの独自の技法を確立させたことが有名です。
布目彫蒟醤とは太田儔が考案した技法で1ミリの中に3~4本の細い線を線彫りし、図案に基づいて筆で線を埋めてこれを縦、横、斜めと緻密に繰り返す技法で色彩を重ねるごとに絵画のような自由で微細な色の表現を可能にします。
二重編み蒟醤も太田儔が考案した技法であり、内側を塗りヒゴで編み、さらに麻の畳糸を巻き付けて漆をしみ込ませてその外側に網代を編んで二重に重ねる技法です。
太田儔はこの二重編み蒟醤と布目彫蒟醤を考案することで堅牢な素地を正確に成型することや、より緻密な陰影や立体感を表現することを可能にし、蒟醤の絵画的な領域を深めることに成功しました。太田儔によって廃れて久しかった籃胎蒟醤の技法が新たな想像力や感性が加わって現代に甦らせた功績は素晴らしいものであるといえるでしょう。
佐賀県を代表する女流作家で、人間国宝認定目前まで迫りながら惜しくも他界してしまった小野珀子という方をご存知でしょうか。
1925年に小野琥山の長女として生まれ、のちに福島県大沼郡、会津美里町瀬戸町に移住をしております。会津若松町高等女学校を卒業すると家業に従事しております。
その後は、結婚と離婚を経て再び父親の琥山の製陶所のデザイン室に勤務して、絵付けなどを担当しておりました。
そんな中、人間国宝である加藤土師萌の釉裏金彩に魅了され、釉裏金彩の技法を独学で研究するようになります。失敗を繰り返しながらも諦めることなく釉裏金彩の技法を会得し、釉裏金彩の陶芸家として有名になっていきます。
豊かな表現力で金を用いる釉裏金彩と金襴手を得意とするようになった小野珀子は、幻想的な光を放つ素晴らしい作品を生み出しました。その作品は国内のみならず、海外でも高く評価されております。
1970年に日本工芸会西部工芸展で朝日銅賞を受賞したことを皮切りに数々の賞を受賞し、1992年には佐賀県の重要無形文化財に認定された小野珀子は人間国宝に認定されるのも目前と言われていましたが1996年に他界してしまいました。
中国色絵磁器を研究し、再現した陶芸家・加藤土師萌。最難関とされる数々の技法を自らのものとした功績が評価され、1961年には色絵磁器の人間国宝に認定されています。
加藤は1900年。愛知県瀬戸町に生まれました。当初は画家志望でしたが、愛知県立陶器学校図案科卒業後は岐阜県陶磁器試験場の技師として勤務します。自身の作品制作も行い、1927年の帝展では新設された工芸部門で入選を飾りました。
1937年にはパリ万博出品作『指描沢潟文大皿』でグランプリを受賞し、1940年陶芸家として独立を果たします。独立後は中国明朝時代の黄地紅彩の研究を行い、1951年にはこれが重要無形文化財に指定されました。その後も萌葱金蘭手や青白磁の研究に取り組み、1961年国の重要無形文化財「色絵磁器」保持者に認定されました。晩年は日本工芸会の理事長や、文化財保護審議会専門委員などを歴任し、美術界の振興に尽力した他、後進の育成にも積極的でした。
数々の伝統技法を復活させ、指物工芸の技術を現代に受け継いだ木工芸家・氷見晃堂。その実力から木工芸で2番目の人間国宝に認定された人物です。
氷見晃堂は1906年、石川県の金沢に生まれました。実家は商家でしたが、祖父と父の教えから職人の道へ進むことになります。初めに指物師・北島伊三郎、続いて木工家・池田作美に師事し、指物技術と木工のデザインを学びました。1926年には石川県工芸奨励会美術工芸展にて準会員に推薦されます。2年後には同会の正会員になっています。
晃堂の名が全国に広まったのは戦後になってからでした。第2回日展での入選をきっかけに、11回の入選。昭和30年から日本伝統工芸展で18回入選など、その功績は非常に大きく、間もなく1969年に石川県の指定無形文化財技術保持者に、そしてその翌年に国の重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定されました。
江戸期を最後に途絶えていた「砂磨き法」と呼ばれる技法や木象嵌を復活させるなど、伝統的な加賀指物を現代に甦らせた他、独自の装飾法「金銀線縮れ象嵌」を考案するなど、その技術・技法は戦後木工芸界の発展に大きく貢献をするものとなりました。
息子・雄と共に親子二代で備前焼の人間国宝に認定された陶芸家・藤原啓。鎌倉古備前様の質素な作風と、焼成の自然な変化をも利用した近代的な造形で備前陶芸界の牽引役を担った人物の一人です。
藤原啓は1899年、岡山県の農家に生まれました。若き頃は俳句や小説を好み、1919年に上京。出版社の博文館編集員として勤務しました。『文章世界』の編集業務の傍ら、自身でも詩集を出版するなど作家活動を行った他、川端画学校で洋画デッサンを学んでいます。1930年、作家として独立するも伸び悩み、精神的に追い詰められ挫折。1937年、故郷岡山に戻りました。翌年、近隣の学者に勧められて作陶に着手。陶芸家・三村梅景に師事し基礎を学びます。1941年には陶芸家・金重陶陽に入門。その技能を高めました。
1948年、国が認定する技術保存資格者に認定されたことで自信を持ち、本格的な作陶生活に入ります。1952年には東京で初の個展を開催。その翌年には北大路魯山人の支援で日本橋高島屋で個展を開催するほどになりました。1956年以降は日本伝統工芸展に作品を出品します。1962年には『備前壷』がプラハ国際陶芸展で受賞するなど数々の功績をあげ、1970年、ついに国の重要無形文化財「備前焼」保持者に認定されました。
師である陶陽の桃山備前の作風とは対照的な素朴さが人気を呼び、今なお高く評価されています。