金重道明は岡山県出身の備前焼の陶芸家です。
人間国宝・金重陶陽の長男として1934年に生まれた道明は金沢美術工芸大学工芸科を卒業後すぐに朝日現代陶芸展に初入選しています。これ以降、連続で入選しています。他にも日展や日本伝統工芸展にも入選しています。1960年に渡米し、翌年に帰国。1980年に日本陶磁協会賞を受賞し、1990年には岡山県重要無形文化財の保持者となります。1995年に逝去しました。
その作風は、渡米以前と以後に分けられます。以前は鋭利で不定形な形を好みましたが、渡米以後は轆轤を使い備前焼の伝統である陶土と変窯に力を入れました。また、斬新な造形的な花入れと伝統的な茶陶を行う事でも知られます。
飯塚鳳齋は、1875年、栃木県生まれの竹工芸家です。
弟には同じく竹工芸士の飯塚琅玕齋がおり、琅玕齋の次男である飯塚小玕斎はのちに木竹工で重要無形文化財の保持者として認定されました。
初代鳳齋の長男として生まれ、1902年に鳳齋の名を継ぎました。初代の作風・技術を継承しながら、唐物風かつ独自の作品を展開しました。
1914年、現在の上野恩賜公園にて行われた東京大正博覧会に複数点を出品、銀牌を受賞しました。
1915年、宮内省の依頼で大正天皇即位に伴って行われた大嘗祭のため「神服入目籠」一対を父 鳳翁、弟 琅玕齋と共に制作しました。
1925年のパリ万国装飾美術工芸博覧会にて名誉賞を受賞し、竹工家が次世代に続いていく基盤を作り上げました。
安倍安人は、1938年に大阪府で生まれた日本の陶芸家で、特に備前焼で知られています。
若い頃から芸術家を志し、洋画家として活躍されていました。
画家として活躍する傍ら、趣味で陶器を集めており、現代備前に物足りなさを感じていたようです。その為、自ら納得いくものを造るべく、1972年から陶芸を始めました。
1986年、岡山県瀬戸内市牛窓町に築窯。茶器や花器を中心に、備前焼の制作を行います。
古備前を始めとする古陶磁を研究されており、その理論を元にした造形や焼成は国内外で高い評価を得ています。
また多くの功績が認められニューヨークのメトロポリタン美術館や台湾の故宮博物院に作品が収蔵されました。
東京、大阪、ニューヨーク、パリ、台湾など国内外で精力的に個展を開催されています。
表千家十代 祥翁宗左 吸江斎についてご紹介いたします。
主な功績としては、千利休の二百五十回忌を主催したことや、若くして家元を継承し、徳川治宝から茶の教わりつつ19歳の時に皆伝を授かるなど、若くから表千家を支えたことが挙げられます。
吸江斎は久田家七代 皓々斎宗也の次男として生まれ、表千家九代・了々斎の甥にあたります。
了々斎には嫡男がいましたが早世してしまい、了々斎もまたその2年後に病死してしまいます。そこで表千家は後継問題に直面することとなりました。
養子として表千家に迎えられた吸江斎は了々斎の亡き後、わずか8歳の齢にして表千家十代家元を襲名します。
十歳になると、かつて了々斎も仕えた紀州徳川家十代藩主 徳川治宝に出仕し、1836年には治宝から真台子の点前の皆伝を受けるという異例の待遇を受けました。
吸江斎が幼少で家元を継いだため、皆伝は一時的に先代の了々斎から治宝に預けられていました。その後、吸江斎に返されたという経緯があります。
1839年には、二十歳前後にして千利休の二百五十回忌を主催します。この行事を通じて、利休の精神を後世に伝えることに貢献し、茶道文化の継承と発展に寄与しました。
この様に吸江斎は若くして千家の茶の湯を引き継ぎ、表千家の活動に精力的に取り組みました。
好み物としては、溜二重棚や手付桐煙草盆などが知られています。
表千家九代 曠叔宗左 了々斎についてご紹介いたします。
主な功績としては、十代藩主・徳川治宝の茶頭として仕え、紀州徳川家との深い交流から現在の表千家の表門を拝領したことや、十代楽 旦入と共に紀州御庭焼の製陶に携わり、茶道具の発展に貢献したことなどが挙げられます。
了々斎は、久田家六代家元・挹泉斎宗溪の長男として生まれます。
表千家八代家元 啐啄斎が後嗣の男子に恵まれなかったため、了々斎はその婿養子となり、34歳の頃に表千家の九代家元を襲名しました。
その時啐啄斎は60歳程の年齢であり、入れ替わる形で隠居の身となりました。
了々斎は紀州徳川家十代藩主・徳川治宝の茶頭として仕え、治宝から深い信頼と庇護を受けます。
治宝は歴代藩主の中でも特筆して茶道に深い造詣を持ち、了々斎の指導のもと、利休茶道の免許皆伝を受けるまでになります。
1819年(文政2年)には十代楽旦入と共に紀州御庭焼の製陶に携わり、他にも赤楽や黒楽の茶碗など、多くの茶道具を自ら制作しました。
また、当時の千家十職のうち、楽家の楽了入や永楽家の永楽了全など、了々斎から「了」の字を受けて名乗った職人もおり、その影響力の大きさがうかがえます。
晩年の1822年には、治宝を家元にむかえ茶事を執り行いました。了々斎は二条屋敷にあった武家門を拝領し、それが表千家の表門として今もなお、由緒ある門として表千家の風格を表しています。
了々斎の好み物としては、代表的なもので赤楽・黒楽茶碗が挙げられます。七代の如心斎に強い影響を受けていることから、自作の茶道具にもその精神性が反映されています。
手造 黒茶碗「長袴」という作品が残されており、手造りの筒茶碗は非常に珍しい作品となります。長男・与太郎の6歳の袴着の祝儀に際して作られ、「長袴」と命名されました。
他にも華やかな蒔絵を施した棗や打合盆など、了々斎の好み物の種類は多岐にわたります。
1901年、小田雪窓は鳥取県に生まれました。
1913年、12歳で故郷鳥取の廣徳寺にて得度し、臨済宗の僧となります。その後、修行を重ね、1921年には18歳で京都へ移り、妙心寺に落ち着きました。
1947年、師である瑞巌老師が大徳寺の管長(代表者)に任じられ、僧堂師家の地位に就きます。その後、1955年には臨済宗大徳寺派の管長に就任しました。1966年、小田雪窓は僧侶として、また能書家として卓越した才能を発揮しながら65歳でその生涯を閉じました。
臨済宗の僧侶として最高位に就いた雪窓は、指導者として後進の育成に尽力するとともに、能書家としての活動も活発に行いました。その書は素朴ながらも格調高く、幽玄な雰囲気を漂わせる筆致が特徴です。書画のほか、雪窓の書付のある茶道具作品が現存しています。
また、茶の湯にも造詣が深かった雪窓は、茶杓や蓋置などの茶道具の制作にも携わりました。これらの作品は、彼の美意識と茶道に対する深い理解を物語っています。