木越三右衛門

初代木越三右衛門(木越正之)は、江戸時代に河北郡木越村で生まれました。農民の出身でしたが、鋳物師としての才能を見出され、横川長久のもとで修行しました。18歳の時には、師である横川長久の命により金沢天徳寺の梵鐘(釣鐘)を製作し、質の高い作品を作った事で評価されました。彼は鉄瓶や釜などの茶道具を得意とし、特に金沢藩主前田家の御用釜師としても活躍しました。彼の技術と作品は代々三右衛門と称され、木越家の伝統として受け継がれました。

木越三右衛門の鉄瓶や鉄釜は、和銑(わずく)という日本古来の技法で作られています。和銑は砂鉄とたたら製法で製錬することで作られ、洋銑よりも高度な技術と手間がかかりますが、錆びにくく強靭な特性を持ちます。そのため、数百年前の鉄瓶や釜が今でも美しい状態で残っています。また、象嵌という伝統的な工芸技法で装飾された鉄瓶は、特に高い人気があります。これらのお品物は、茶人や文豪にも愛され、現在でも高い評価を受けています。

武者小路千家十二代 聴松宗守 愈好斎

十二代 聴松宗守 愈好斎(ゆこうさい)は茶道の武者小路千家の家元です。
名は嘉次、宗守、別号として聴松。
明治から昭和の半ばにかけて活躍された茶人です。

武者小路千家の十二代家元ですが、元々は表千家久田流十代家元・久田宗悦の次男として生まれました。
武者小路千家十一代家元・一叟宗守に子がいなかったため養子として迎えられました。
三千家と呼ばれる「表千家」「裏千家」「武者小路千家」ですが、その存続のために互いに助け合いながら発展してきた歴史があります。
愈好斎の実父である久田宗悦にしても、表千家十代・汲江斎の三男であり、祖父は久田流七代家元・久田宗也というように、多くの代で互いに後見人を務めたり、養子になったりと密接に結びついています。
幕末から昭和という激動の時代を互いに支えあって発展してきたのです。

そんな歴史の中、愈好斎も波乱の人生を歩みます。
養子として武者小路千家に引き取られますが、十一代・一叟宗守が愈好斎が九歳の時に亡くなってしまいます。
そのため表千家十一代家元・碌々斎や十二代家元・惺斎の元へと引き取られ、茶道を習います。
この表千家へ引き取られている期間は、武者小路千家としては一時中断という形になりますが、その期間に愈好斎は東京帝国大学へ入学し、国史学を学びたくさんの知識を身に着けます。
そして大学卒業後に宗守を継承して十二代家元となり、武者小路千家を再興させます。

再興後は武者小路千家に代々引き継がれてきた官休庵を改築し、利休居士350年忌に際して、稽古の間である弘道庵を再興させます。
愈好斎は伝統を継承しつつも、論理的に現状を分析、批判し、近代の茶道を改めました。
優れた門弟を輩出する傍ら、多くの著書を出版するなど、現代茶道に大きな影響を与えた人物と言えるでしょう。

大森 金長

大森金長は武者小路千家にて厚く抱えられた錺師で、多くの茶道具を制作しました。

錺師という見慣れない言葉。「かざりし」と読み、金工細工職人を指します。
金属加工の歴史は古く、日本においては出土品などから弥生時代にまで遡ることが可能です。武器や防具としてだけではなく、装飾品としても求められたのは世界共通と言えるでしょう。

日本で生まれたこの錺師は、神社仏閣と強く結びつき、その寺社を装飾するために重用されました。平安時代には銀(しろがね)細工の技術が確立し、鎌倉から戦国時代までの動乱を経て、江戸時代に大きく花開きます。金具や建築物の飾りなどが主でしたが、装飾品の需要に伴って首飾りや耳飾りなども手掛けるようになり、金銀細工師とも呼ばれるようになりました。

茶道は多くの道具を用いる上にその歴史は古いため、御用職人とも言える職人がいます。そんな中の一人として、大森金長は武者小路千家にて腕を大いに振るいました。金長は銀瓶などの銀製品はもちろん、銅の花器などの銅製品など幅広く作品を制作しております。
現在でもその作品には多くのファンがおり、名工の一人と言えるでしょう。

荒井 正春

荒井正春は、福井県で三代続く蒔絵師の名跡です。

初代より当代まで相伝された蒔絵技法は、際立つ漆と金の美しさをもっており、古くからある伝統的な茶道具に古典的な技法ながらも新しい風を吹き込む先進的なモノづくりが特徴となっています。

初代荒井正春は大正13年に生まれ、幼少期から漆器に触れて育ちます。終戦後に本格的に漆器作成に取り組み始め、昭和22年には向井秀峰に入門しさらに技術を磨いていきました。蒔絵の指導を受けてからは蒔絵一筋に取り組み、茶道具の蒔絵技師として活動していきます。
蒔絵活動の傍らに自身の経験を活かして高級漆器の卸商としても活動し、昭和32年に「荒井正直堂」を創業しました。

二代は昭和27年に生まれ、昭和45年に初代荒井正春に蒔絵の指導を受け茶道具の蒔絵や棗に蒔絵を施し技術を磨き続けました。平成元年に「正春工房」として生まれ変わり、木地、下地、中塗、上塗、蒔絵と全て部門分けを行います。
一つ一つの工程の技術を高めそれらを結集させた妥協を許さない優れた作品を作り上げていました。

三代(当代)は昭和51年に生まれ、二代に師事し蒔絵技術を習得します。そして、平成30年に荒井正春を襲名しました。年代で見るとついこの間に襲名したばかりですが、初代から続く蒔絵技術をしっかりと継承し、荒井正春の名を感じさせる蒔絵の茶道具を作られております。

益田 芳徳

益田芳徳は1934年、東京に生まれました。

中学生のころ、教員であった利根山光人に絵画を学び、画家を志すようになりました。

1954年、20歳のころに上越クリスタル硝子株式会社(2023年10月廃業)よりガラス作品の制作を始めました。はじめ、ガラス作品の制作は数ある創作表現の一つでしたが、1964年頃よりガラス作品の制作を主な活動としていきます。

1970年には走泥社に初めてガラス作家として名を連ねました。
走泥社は八木一夫、鈴木治らによって1948年に設立された陶芸家のグループで、器としての実用性を伴わなず、純粋な芸術作品として作られたオブジェ焼きと呼ばれるジャンルを確立しました。
画家、彫刻家など様々な分野の芸術家と交流した益田芳徳の作品もその例に漏れず、抽象的かつ芸術性に富んでいます。

1980年には日本クラフトデザイン展にて優秀賞、1983年には朝日元代クラフト展にて審査員奨励賞のほか、多くの展覧会などで受賞しています。

大樋 年朗

大樋年朗(本名:奈良年郎)は、代々大樋焼を継承する本家「大樋長左衛門」の十代目となる人物です。

大樋焼は金沢にある、楽焼を源流とした陶芸窯、およびその流派です。
年朗は1927年に九代大樋長左衛門の長男として生まれ、早くから陶芸家としての道を進み始めました。
東京芸術学校(現・東京藝術大学)の工芸科を卒業すると、翌年には日展で初入選。その後も日展を中心に幾度も受賞するなど、活躍されました。1967年には、史上最年少となる39歳で日展の審査員も務めました。
1987年に十代大樋長左衛門を襲名し、2016年に長男に名跡を譲るまで長左衛門として活動しました。

「年朗」という名前は、大樋長左衛門の型にとらわれず作品を発表する際に使用される名です。飴色の釉薬を使うことで出る艶のある独特な輝きが大樋焼の魅力であります。その伝統性を取り入れながらもオリジナリティのある造形を持った作品や、はたまた全く異なる技法を用いた制作など、その作品からはいわば陶芸の世界への深い愛が感じられます。

川瀬 竹春

川瀬竹春(初代)は、岐阜県出身の陶芸家です。 1894年岐阜県安八郡輪之内町で生まれ、京都に移りました。 三代清風与平に指導を受けた後、初代三浦竹泉に師事。染付などの技法を体得します。 祥瑞(染付磁器の一種)による茶器を …

井上 素三

素三は初代素三から始まり四代まで続く、急須作りの名家と言われています。 初代素三(1866-1922)は名を井上素太郎といい富本岩次郎の三男として生まれます。後に井上家に入り、初代木二、二代三光に師事し、茶人の柴山準行に …

林 正太郎

林 正太郎は岐阜県土岐市下石町の窯元の子供として生まれました。 商業高校を卒業後、名古屋で就職しましたが、すぐに岐阜県に戻ってきました。 それから兄である林 孝太郎に師事し、陶作を手伝うようになりました。 初期の頃はガス …

小西 平内

小西平内は、兵庫県西宮市に「太閤窯」を構える陶芸家、およびその名跡です。 太閤窯を築いた初代・平内とその甥の二代・平内がおり、世に多く出ているのは二代の作品となります。なのでここでは、主に二代の紹介をさせていただきます。 …

中村 宗悦

中村宗悦は、石川県出身の漆芸作家です。 1932年に生まれ、十代の頃には父親から「髹漆(きゅうしつ)」という技法を学びました。以来、宗悦はその技法一筋で作品を製作していきました。 「髹漆」とは、へらや刷毛を使って漆を素地 …

山本 太仙

山本 太仙は1953年四日市に生まれました。 父は築窯業、祖父は急須作家で、作陶に恵まれた環境に育ち、高校卒業と同時に焼き物の道に入ります。 伝統工芸の萬古急須を作る傍ら、釉薬を研究し従来の赤土急須にない新しい感覚の施釉 …

川端 近左

川端近左は、江戸時代末期から200年ほど続く漆工芸師です。当代は六代目になります。 始まりは、京都で近江屋という油屋を営んでいた左兵衛(初代)の好きが高じて始めた蒔絵がいつしか家業になったとされ、近江屋の「近」と左兵衛の …

前端 雅峯

前端 雅峯は、山中塗の塗師であり、棗師です。 前端雅峯は1936年、前端家八代目、前端春斉の長男として石川県にて生まれます。 幼いころから父の前端春斎の仕事を手伝いながら技術を磨きました。 1961年頃からは更なる技術向 …

池田 退輔

池田 退輔は斎藤茂吉文化賞を受賞されている方です。 池田退輔は1923年山形県生まれで1957年に本間美術館の庭園に東京芸大の浅野陽、三浦小平二らの指導を受けて、楽焼窯を造り作陶を始めます。 村瀬治兵衛、小山不二夫両氏の …

坪島 土平

本名は坪島一男。三重県の廣永窯で作陶をしていた陶芸家です。 土平という号は、本名の苗字の坪島の坪の字を左右に分けたところからきています。本来の表記だと、土の字の右側中央の近くに点があります。土が飛んで付いたという事を表現 …

二上 常太郎

二上常太郎は、富山出身の蝋型師です。 伝統工芸の街・富山県高岡市で生まれ、斯界に誇る技術保持者の一人として、銅器を愛しその鋳肌に魅せられ、およそ60年の間創作活動を続けて居られました。作品は鍛え抜かれた技法のたしかさと気 …

Meissen マイセン

マイセン(Meissen)はドイツ発祥の有名な磁器窯です。そして、ヨーロッパで初めて硬質磁器を生み出した窯でもあります。名前を聞いたことがあるという人も多いのではないでしょうか。 交差した2本の剣をシンボルとしており、ノ …

中村 道年

中村 道年とは初代 一休庵 中村道年が全国各地で修行し、京焼・楽焼はいうまでもなく、高麗茶碗写し、染付などさまざまな種類の陶磁器の製法を身につけ、現在の五代目まで八事窯を守り続けている名称が道年となります。   初代 中 …

林 隆一郎

林隆一郎は1942年生まれ、岐阜県土岐市出身の陶芸家です。 1974年に第21回日本伝統工芸展入選、1975年朝日陶芸展入選、1976年東海伝統工芸展入選、1979年第6回美濃陶芸展中日奨励賞、1982年独立と活躍の場を …

木村 表斎

木村表斎は、江戸時代末期から明治の初めにかけて活躍した京塗師です。業を継いだ弟の弥三郎が二代目としても活躍しました。 初代は滋賀県の近江高島郡小川村に生まれ、京都へ出た後に塗師・柴田藤兵衛に師事しました。その後は下京にて …

三浦 竹泉

三浦竹泉は京焼の窯元の名前で、明治時代から続いております。 茶道具、特に煎茶道具を得意としており、京焼の中でも人気のある窯元です。最近では海外でも人気があり、中国でも高い評価がついております。 初代は1853年の京都に生 …

池田製

池田製についての文献資料が少ないため、詳細は分かりませんが、池田製の作品は金工作品の中でも高い技術が注目されており、素材価値以上の高値で取引されています。 江戸時代末期、戦の少ない時代が永く続き、刀は武具としてではなく美 …