茶道裏千家十三代 鉄中宗室 円能斎 についてご紹介致します。
十二代・又玅斎の子であり、十四代・淡々斎の父に当たります。
円能斎の大きな功績として、茶道を女性の嗜みとして普及させたことがあります。
当時の明治期まで、茶道は男性の学びとして確立されておりました。その頃は近代化により多くの分野で変革が促されていたという時代背景もあり、円能斎は茶道の大衆化に舵を取ります。
女学校教育に茶道を導入、また茶道具や点前に関する書籍の出版などによって、敷居の高かった茶道という文化を誰もが触れられるように普及していきました。
円能斎の好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)として有名なものでは「国師丸釜」や十二ヵ月に因む図柄を施した「十二月棗」があります。円能斎の好み物は人生観を表したように、伝統と大衆性が感じられるお品物が多いです。
裏千家家元宗匠の花押や書付のある好み物は、高名な茶人監修の意味合いで高い評価が期待できます。
また、円能斎本人が筆をとった「茶掛」や本人制作の「茶杓」「茶碗」といったお品物も人気が高く、評価の高いお品物です。
見附正康は九谷焼の作家です。
1975年に石川県に生まれ、石川県九谷焼技術研修所在学中に九谷焼の名工・福島武山出会ったことで卒業後に師事します。その後は作品が認められない日々が続きますが、ある時オオタファインアーツの大田氏に注目されるようになったことでグループ展に出展するようになったり、経済産業大臣指定伝統工芸技士として認定されたりと活躍の幅を広げることになりました。
その後2007年に独立し、自宅に工房を構え作陶にはげみ、個展やアートイベントにも出展、第9回パラミタ陶芸大賞なども受賞しております。
作風としては人物や花鳥などの伝統的な九谷焼の赤絵の絵付のものありますが、緻密で繊細な線描で描かれた文様やパターンの絵付を得意としており、超絶的な技術が込められた作品には目を見張るものがあります。また、海外で見た建造物などからヒントを得ることもあり、伝統ある九谷焼の絵付と現代的なデザインが融合した新たなジャンルの作品であるとも言えます。
柳原睦夫は1934年に生まれた高知県の陶芸家です。
陶芸とは縁のない医師の家庭で生まれ育ち、デッサンを学ぶため京都市立芸術大学に進学しようとしましたが、縁故のある学長より同大学で陶磁器専攻の主任教授を務める富本憲吉に師事するよう勧められ、陶芸の道を歩むことになりました。現在は現代陶芸の第一人者として知られる陶芸家となっております。
1966年にワシントン大学に講師として招聘されました。念願だった渡米を果たしましたが、そこで全盛期のポップアートに揉まれ日米の陶芸を見つめなおすことになりました。1971年に器の各部分を別々に作成しつなぎ合わせる須恵器にヒントを見出し、ラスター釉使用による金銀彩シリーズを完成させました。二度目の渡米ではうつわの要素を取り除いた「空」シリーズを製作しました。三度目の渡米ではうつわを見つめなおし「筒花瓶」「踏花瓶」「笑口瓶」などのシリーズを制作されました。
1984年に大阪芸術大学教授就任し、現在では大阪芸術大学名誉教授として活躍されております。
藤哲斎(とう てっさい)は、昭和期に活躍した広島県の彫刻工芸作家です。
広島は筆の名産地であり、哲斎もはじめは筆に文字を彫る仕事をおこなっておりましが、研鑽を積んでいくのちに煎茶道具に彫刻を施すようになっていきました。
昭和30年に広島県美展で作品が入選し、地元を中心に人気を集めることとなりました。
作品には竹を使用した煎茶道具が多くあります。哲斎の培った技量と細やかな表現力は特に茶量(茶合、仙媒)作品に強く表れ、現在でも多くのファンがおります。広島の活動が中心だったため、中国地方の煎茶をされている方に人気がありました。
哲斎が彫る茶量の図案は様々あり、人物や動物、草木といった細やかな表現が必要なものから煎茶人好みの漢詩文や中国古典を取り入れたものまで、幅の広い組み合わせで作品に趣を生み出しました。
茶量以外でも茶巾筒や煎茶盆など、いずれも作家性のある煎茶道具を制作しており、今なお多くの人々を惹きつけております。
七代 堅叟宗守 直斎は茶道 武者小路千家の家元です。
直斎が活躍したのは江戸時代。今から300年ほど前の1725年に生を受けます。
直斎は六代 真伯宗守 静々斎に子がいなかったことから養子として引き取られ、茶を学びます。
静々斎が1745年に53歳で亡くなると直斎が七代目を襲名します。
武者小路千家、正式には官休庵ですが、直斎は官休庵中興とも呼ばれています。
時代は江戸時代中葉。時の将軍は八代将軍徳川将軍でした。
吉宗と聞くと目安箱の設置や某テレビ番組などでも有名で人気がありますが、時代は変革期と言っても過言ではないよう様相を呈していました。
幕府財政は破綻寸前で、吉宗はその財政立て直しのため質素倹約、増税を課します。その結果庶民を始め、様々な人たちが影響を受けました。
茶の湯は高尚なものです。そのため茶道の千家の家々もその影響はまぬがれません。
そんな中で直斎は辣腕を振るいます。
表千家、裏千家とも協力し、現在へと続く家元制度を整え、時代の荒波に対し協力して乗り越えていきます。
また、それまで4畳半以上8畳程の広さの茶室が伝統として受け継がれていた中で、15畳という広さの弘道庵を作ったことも画期的でした。
歌や書に秀で、多才な才能を発揮していた直斎でしたが58歳という若さでこの世を去りました。
千宗左而妙斎は、茶道表千家十四代家元です。
表千家とは、千利休を祖とする茶道流派の一つです。裏千家・武者小路千家と共に茶道三千家とも呼ばれる、茶道では大変有名な流派となります。
而妙斎(幼名:岑一郎)は1938年、そんな表千家の十三代家元・即中斎の長男として生まれます。
1967年に大徳寺の方谷浩明老師から「而妙斎」の斎号を与えられて、宗員となりました。1980年の先代・即中斎の逝去に伴って、翌年1981年に表千家家元十四代宗左を襲名します。1990年の利休400年忌を迎えるにあたっては而妙斎が亭主となり、三千家合同でお茶会が行われました。
2000年には芸術文化分野において優れた業績を残した者に与えられる紫綬褒章を受章します。
その後2018年に長男・猶有斎に家督を譲り、自身は隠居します。昭和から平成にかけて表千家を発展させた方として、広く名が知られております。美術品だと、茶道具の書付などで見かける場面が多いかもしれません。